詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

谷川俊太郎『あたしとあなた』

2015-06-25 20:14:44 | 詩集
谷川俊太郎『あたしとあなた』(ナナロク社、2015年07月01日発行)

 昨年秋に出版された『おやすみ神たち』(ナナロク社)は詩と写真と紙がにぎやかに交錯していて、とても楽しかった。私は「魂」の存在というものを感じたことがない(考えたことがない)のだが、どんな「もの」でも輝いている瞬間が魂なら、それはとても楽しいことだと思う。昨年読んだときはそんなふうには感じなかったのだが、いま『あたしとあなた』を読み終えて、ふと思い出すと『おやすみ神たち』のなかの詩(ことば)、写真、紙質の交錯はモーツァルトのように豪華だったと思う。
 では、この『あたしとあなた』は何? あ、私は音楽にはとても疎いのでモーツァルトの対極(?)にある音楽が何なのかわからないが、たとえて言えば、何となく思いついてメロディーを口ずさむような、シンプルさがある。完結(完成)を目指していない、というと谷川に叱られるかもしれないが、「整合性」を突き破って何かがうまれる瞬間が聞こえる感じだ。
 そのことばのシンプルで素早い動きを読みやすくするために、特別の紙をつくって製本された詩集。ナナロク社の本は「もの」としても詩を目指しているのようだ。
 私は、製本のことは何も知らないので、あ、美しい本だなあという感想しか書けないが、その美しい本のなかから聞きとった音楽について書いてみたい。

 「音楽」という作品。

あたしの
音楽は
うんと
遠くから
聞こえて
くる

ヘッドフォンから
じゃない
もっと
遠く

 あ、と私は思わず叫んでしまう。
 「遠くから」と読むと、私はほんとうに遠いところを想像してしまう。空の向こうから、星の彼方から、それこそ十億光年の孤独から、という具合に想像してしまう。
 この私の「定型の想像」を谷川は「ヘッドフォン」という至近距離で壊してしまう。「ヘッドフォンから/じゃない」と谷川は否定しているが「じゃない」は遅れてやってきたことばだ。「ヘッドフォンから」がまずやってきて、「ヘッドフォンから」音楽を聴くことが日常的になっている「現実」をくっきりと浮かび上がらせる。それを谷川は否定するのだけれど、何かヘッドフォンの「近さ」のなかにも「遠さ」があるような感じがしてしまう。谷川は「ヘッドフォンから/じゃない」と書いているのにもかかわらず、私はヘッドフォンだけがもっている「遠さ」を感じてしまうのである。機械を経由する、その「経由」の「遠さ」を思い、聴覚が張り詰める。

あなたの
水平線を
越えて
あなたの
オーロラも
越えて

 この三連目は、文字だけを読むと「遠い」ところをあらわしているようにも感じられるけれど、「はてしない」という感じがしない。「あなた」ということばのせいだろうか、「近い」ところにある「遠さ」を感じる。
 さらに四連目

意味の
要らない
幻の
草原で
あたしは
チューバと
子どもみたいに
鬼ごっこ

 「幻の/草原」はなつかしい子ども時代の草原のよう感じられる。思い出のなかで「子ども」になって、「子どもみたいに」遊ぶ。
 「ヘッドフォン」を境/壁(?)にして、そこから「外」へ出て行くというよりも、自分自身の内部へ音楽を探しにゆく感じ。「内部」が「もっとも遠い」場所なのだ。「内部」だから「近い」を通り越して、何か「真剣」な感じがする。「真剣」というのは、そこにたどりつくまでがきびしいね、遠いね。でも、そういう「遠さ(真剣がつかむ真実)」のようなものを感じる。

 「せせらぎ」も、「遠い/近い」に似た不思議な「矛盾」がある。

言葉が
剥がれない

死んだ
あなたが
嘆いている
夢を
見た

 と、「悲しい」感じで始まるのだが、「悲しさ」のなかに不思議な親近感がある。「言葉が/剥がれない」というような抽象的(絶対的?)なことを聞いてしまった「近さ」が、そこにある。「遠い」関係にある人なら、こんなむずかしい嘆きを人には語らない。「あたし」と「あなた」はとても親しい関係にあるのだ。
 親近感があるから、

とても
静かだったので
あたしも
死んでいた
のかも

 区別がなくなる。「死ぬ」というのは絶対的な「遠さ」なのに、自分がそこに参加(?)してしまえば、「近い」としか言いようがない。
 そして、このあと、

遠い
せせらぎの
音で
目が覚めた
春の
ある日

 死を描きながら、なぜか、のどか。明るい。あ、夢だった。よかった。というよりも、死ぬということは、きっと最終連のような状況のなかへ「目を覚ます」ことなんだなあと思ってしまう。「永眠」するのではなく、「永遠(美しい春の光)」のなかへ目覚めるというのが死なのか、と思ってしまう。
 この矛盾が好きだなあ。

 「どんどん」という作品も、ことばが描写を越えて、矛盾のなかで真実になっていく。完結しないで、逆に、無に解放されると言えばいいのかな。

気球に乗って
あたしが
どんどんどんどん
昇っていくと
下界で
あなたは
どんどんどんどん
小さくなって
でも
消え去らない

 小さくなるなら消えるのが「視覚の論理」。でも、「あなた」をよく知っているときは、どんなに小さくても「見える」。「あなた」より大きな木が見えなくなっても「あなた」は「見える」。谷川は「消え去らない」と書いている。そうなのだ。「見える」ではなく「消え去らない」。「あたし」のこころから「消え去らない」。むしろ、見えないからこそ、こころはそれをしっかりつかんで放さないのかもしれない。
 でも、谷川の詩は、そんな「理屈」を書かない。「理屈」を壊してしまう。

やがて
あたしは
空に到着
そこからあなたに
空語で
お便りします

はるか下で
羊が
かすかに
めええと
言っている

あたし
もう
何もかも
ないことに
する

 またまた、びっくりしてしまう。「何もかも/ないことに/する」の「ない」とは何? ほんとうに何もない? 逆だね。すべてを「ある」と感じ、それで満たされているので、「ある」を言うことができない。「ある」がありすぎる。そのすべてを言うことは、ことばには無理。だから、「ないことに/する」。
 最後の「する」は「あたし」が「する」ということ。
 客観的状況ではなく、「主観」の主張。充実した喜び。

 ことばの「客観的意味」がいつでも「絶対的主観」によって叩き壊されている。その「意味」からの解放、「矛盾」のなかで、永遠が輝く。
 谷川はどこまで若くなるのだろう。

あたしとあなた
谷川 俊太郎
ナナロク社

*

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嵯峨信之を読む(99)

2015-06-25 00:00:00 | 『嵯峨信之全詩集』を読む
嵯峨信之を読む(99) 

151 詩壇

 「詩壇」とは何か。詩人のあつまり、詩人があつまってつくりだす一種の「共同認識」のようなものか。嵯峨は、そこから距離を置こうとしている。

詩壇
卑屈で 矮小で破廉恥で蛆虫のむらがる汚辱の詩壇

 否定的なことばをつらねている。つらねてもつらねても、言い足りないのかもしれない。言い足りないと感じるのは、嵯峨には「理想」があるからだ。その反動として、憎悪が噴出している。
 嵯峨の「理想」とはなんだろう。
 「詩人」ではなく「詩」そのもののことを思っているようだ。詩人(あるいは、その詩人たちにもてはやされている詩)は死火山にほうりこんでしまえ。千年たって火山が爆発したら、

もっとも遠くへ落下した大きな火山弾を力いつぱい打ち割つてくれ
もしその中からアネモネの可憐な新芽が出てきたら
生き残りの者が涙をそそいで
氏名不詳の最後の詩人の屍の上にアネモネの大輪の花を咲かせてくれ

 甦るアネモネの花。それが嵯峨にとっての詩である。死んだものの中に、きっとそれがある、というのは、逆に言えば、「詩壇(既成の詩人/既成の詩)」はいったん死なないと詩を生み出すことができない、ということかもしれない。
 「詩壇」を嫌いながら、詩を愛しつづける詩人の姿が見える。

152 敗者へのレクイエム

 この作品は「詩壇」から離れたところで詩をみつめている嵯峨の自画像かもしれない。敗者「の」レクイエムではなく、敗者「への」レクイエムなのは、自分で自分への「レクイエム」を捧げるということなのだろう。

大きな楯を捨てた
ぼくは戦線からはるかに遠く離脱したのだ

 「大きな楯」とは「詩人」という呼称、「戦線」とは「流行の詩壇」と読むことができるかもしれない。「流行」を追わずに、自分の信じる詩を道を探す。そのために「詩学」を発行しつづける嵯峨の姿が重なる。

山頂の絶壁はきびしくぼくを待つ
ぼくはその頂上の巨岩から垂直に谷底へ投身する
卑怯者のぼくの屍の上に
もはや誰が大きな楯を覆いかぶせてくれるだろう

 「投身(自殺)」に意識が奪われてしまうが、その前に書かれている「山頂の絶壁はきびしくぼくを待つ」の「きびしい」に目を向けるべきなのだろう。投身できるのは、「きびしい」絶壁を攀じ登ることができたものだけの特権である。その特権を象徴するのが「頂上の巨岩」であり「垂直」という比喩である。
 「まっすぐな」詩がそこにある。
嵯峨信之全詩集
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