谷川俊太郎『あたしとあなた』(ナナロク社、2015年07月01日発行)
昨年秋に出版された『おやすみ神たち』(ナナロク社)は詩と写真と紙がにぎやかに交錯していて、とても楽しかった。私は「魂」の存在というものを感じたことがない(考えたことがない)のだが、どんな「もの」でも輝いている瞬間が魂なら、それはとても楽しいことだと思う。昨年読んだときはそんなふうには感じなかったのだが、いま『あたしとあなた』を読み終えて、ふと思い出すと『おやすみ神たち』のなかの詩(ことば)、写真、紙質の交錯はモーツァルトのように豪華だったと思う。
では、この『あたしとあなた』は何? あ、私は音楽にはとても疎いのでモーツァルトの対極(?)にある音楽が何なのかわからないが、たとえて言えば、何となく思いついてメロディーを口ずさむような、シンプルさがある。完結(完成)を目指していない、というと谷川に叱られるかもしれないが、「整合性」を突き破って何かがうまれる瞬間が聞こえる感じだ。
そのことばのシンプルで素早い動きを読みやすくするために、特別の紙をつくって製本された詩集。ナナロク社の本は「もの」としても詩を目指しているのようだ。
私は、製本のことは何も知らないので、あ、美しい本だなあという感想しか書けないが、その美しい本のなかから聞きとった音楽について書いてみたい。
「音楽」という作品。
あ、と私は思わず叫んでしまう。
「遠くから」と読むと、私はほんとうに遠いところを想像してしまう。空の向こうから、星の彼方から、それこそ十億光年の孤独から、という具合に想像してしまう。
この私の「定型の想像」を谷川は「ヘッドフォン」という至近距離で壊してしまう。「ヘッドフォンから/じゃない」と谷川は否定しているが「じゃない」は遅れてやってきたことばだ。「ヘッドフォンから」がまずやってきて、「ヘッドフォンから」音楽を聴くことが日常的になっている「現実」をくっきりと浮かび上がらせる。それを谷川は否定するのだけれど、何かヘッドフォンの「近さ」のなかにも「遠さ」があるような感じがしてしまう。谷川は「ヘッドフォンから/じゃない」と書いているのにもかかわらず、私はヘッドフォンだけがもっている「遠さ」を感じてしまうのである。機械を経由する、その「経由」の「遠さ」を思い、聴覚が張り詰める。
この三連目は、文字だけを読むと「遠い」ところをあらわしているようにも感じられるけれど、「はてしない」という感じがしない。「あなた」ということばのせいだろうか、「近い」ところにある「遠さ」を感じる。
さらに四連目
「幻の/草原」はなつかしい子ども時代の草原のよう感じられる。思い出のなかで「子ども」になって、「子どもみたいに」遊ぶ。
「ヘッドフォン」を境/壁(?)にして、そこから「外」へ出て行くというよりも、自分自身の内部へ音楽を探しにゆく感じ。「内部」が「もっとも遠い」場所なのだ。「内部」だから「近い」を通り越して、何か「真剣」な感じがする。「真剣」というのは、そこにたどりつくまでがきびしいね、遠いね。でも、そういう「遠さ(真剣がつかむ真実)」のようなものを感じる。
「せせらぎ」も、「遠い/近い」に似た不思議な「矛盾」がある。
と、「悲しい」感じで始まるのだが、「悲しさ」のなかに不思議な親近感がある。「言葉が/剥がれない」というような抽象的(絶対的?)なことを聞いてしまった「近さ」が、そこにある。「遠い」関係にある人なら、こんなむずかしい嘆きを人には語らない。「あたし」と「あなた」はとても親しい関係にあるのだ。
親近感があるから、
区別がなくなる。「死ぬ」というのは絶対的な「遠さ」なのに、自分がそこに参加(?)してしまえば、「近い」としか言いようがない。
そして、このあと、
死を描きながら、なぜか、のどか。明るい。あ、夢だった。よかった。というよりも、死ぬということは、きっと最終連のような状況のなかへ「目を覚ます」ことなんだなあと思ってしまう。「永眠」するのではなく、「永遠(美しい春の光)」のなかへ目覚めるというのが死なのか、と思ってしまう。
この矛盾が好きだなあ。
「どんどん」という作品も、ことばが描写を越えて、矛盾のなかで真実になっていく。完結しないで、逆に、無に解放されると言えばいいのかな。
小さくなるなら消えるのが「視覚の論理」。でも、「あなた」をよく知っているときは、どんなに小さくても「見える」。「あなた」より大きな木が見えなくなっても「あなた」は「見える」。谷川は「消え去らない」と書いている。そうなのだ。「見える」ではなく「消え去らない」。「あたし」のこころから「消え去らない」。むしろ、見えないからこそ、こころはそれをしっかりつかんで放さないのかもしれない。
でも、谷川の詩は、そんな「理屈」を書かない。「理屈」を壊してしまう。
またまた、びっくりしてしまう。「何もかも/ないことに/する」の「ない」とは何? ほんとうに何もない? 逆だね。すべてを「ある」と感じ、それで満たされているので、「ある」を言うことができない。「ある」がありすぎる。そのすべてを言うことは、ことばには無理。だから、「ないことに/する」。
最後の「する」は「あたし」が「する」ということ。
客観的状況ではなく、「主観」の主張。充実した喜び。
ことばの「客観的意味」がいつでも「絶対的主観」によって叩き壊されている。その「意味」からの解放、「矛盾」のなかで、永遠が輝く。
谷川はどこまで若くなるのだろう。
*
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購読ご希望の方は、谷内修三(panchan@mars.dti.ne.jp)へお申し込みください。1800円(税抜、送料無料)で販売します。
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昨年秋に出版された『おやすみ神たち』(ナナロク社)は詩と写真と紙がにぎやかに交錯していて、とても楽しかった。私は「魂」の存在というものを感じたことがない(考えたことがない)のだが、どんな「もの」でも輝いている瞬間が魂なら、それはとても楽しいことだと思う。昨年読んだときはそんなふうには感じなかったのだが、いま『あたしとあなた』を読み終えて、ふと思い出すと『おやすみ神たち』のなかの詩(ことば)、写真、紙質の交錯はモーツァルトのように豪華だったと思う。
では、この『あたしとあなた』は何? あ、私は音楽にはとても疎いのでモーツァルトの対極(?)にある音楽が何なのかわからないが、たとえて言えば、何となく思いついてメロディーを口ずさむような、シンプルさがある。完結(完成)を目指していない、というと谷川に叱られるかもしれないが、「整合性」を突き破って何かがうまれる瞬間が聞こえる感じだ。
そのことばのシンプルで素早い動きを読みやすくするために、特別の紙をつくって製本された詩集。ナナロク社の本は「もの」としても詩を目指しているのようだ。
私は、製本のことは何も知らないので、あ、美しい本だなあという感想しか書けないが、その美しい本のなかから聞きとった音楽について書いてみたい。
「音楽」という作品。
あたしの
音楽は
うんと
遠くから
聞こえて
くる
ヘッドフォンから
じゃない
もっと
遠く
あ、と私は思わず叫んでしまう。
「遠くから」と読むと、私はほんとうに遠いところを想像してしまう。空の向こうから、星の彼方から、それこそ十億光年の孤独から、という具合に想像してしまう。
この私の「定型の想像」を谷川は「ヘッドフォン」という至近距離で壊してしまう。「ヘッドフォンから/じゃない」と谷川は否定しているが「じゃない」は遅れてやってきたことばだ。「ヘッドフォンから」がまずやってきて、「ヘッドフォンから」音楽を聴くことが日常的になっている「現実」をくっきりと浮かび上がらせる。それを谷川は否定するのだけれど、何かヘッドフォンの「近さ」のなかにも「遠さ」があるような感じがしてしまう。谷川は「ヘッドフォンから/じゃない」と書いているのにもかかわらず、私はヘッドフォンだけがもっている「遠さ」を感じてしまうのである。機械を経由する、その「経由」の「遠さ」を思い、聴覚が張り詰める。
あなたの
水平線を
越えて
あなたの
オーロラも
越えて
この三連目は、文字だけを読むと「遠い」ところをあらわしているようにも感じられるけれど、「はてしない」という感じがしない。「あなた」ということばのせいだろうか、「近い」ところにある「遠さ」を感じる。
さらに四連目
意味の
要らない
幻の
草原で
あたしは
チューバと
子どもみたいに
鬼ごっこ
「幻の/草原」はなつかしい子ども時代の草原のよう感じられる。思い出のなかで「子ども」になって、「子どもみたいに」遊ぶ。
「ヘッドフォン」を境/壁(?)にして、そこから「外」へ出て行くというよりも、自分自身の内部へ音楽を探しにゆく感じ。「内部」が「もっとも遠い」場所なのだ。「内部」だから「近い」を通り越して、何か「真剣」な感じがする。「真剣」というのは、そこにたどりつくまでがきびしいね、遠いね。でも、そういう「遠さ(真剣がつかむ真実)」のようなものを感じる。
「せせらぎ」も、「遠い/近い」に似た不思議な「矛盾」がある。
言葉が
剥がれない
と
死んだ
あなたが
嘆いている
夢を
見た
と、「悲しい」感じで始まるのだが、「悲しさ」のなかに不思議な親近感がある。「言葉が/剥がれない」というような抽象的(絶対的?)なことを聞いてしまった「近さ」が、そこにある。「遠い」関係にある人なら、こんなむずかしい嘆きを人には語らない。「あたし」と「あなた」はとても親しい関係にあるのだ。
親近感があるから、
とても
静かだったので
あたしも
死んでいた
のかも
区別がなくなる。「死ぬ」というのは絶対的な「遠さ」なのに、自分がそこに参加(?)してしまえば、「近い」としか言いようがない。
そして、このあと、
遠い
せせらぎの
音で
目が覚めた
春の
ある日
死を描きながら、なぜか、のどか。明るい。あ、夢だった。よかった。というよりも、死ぬということは、きっと最終連のような状況のなかへ「目を覚ます」ことなんだなあと思ってしまう。「永眠」するのではなく、「永遠(美しい春の光)」のなかへ目覚めるというのが死なのか、と思ってしまう。
この矛盾が好きだなあ。
「どんどん」という作品も、ことばが描写を越えて、矛盾のなかで真実になっていく。完結しないで、逆に、無に解放されると言えばいいのかな。
気球に乗って
あたしが
どんどんどんどん
昇っていくと
下界で
あなたは
どんどんどんどん
小さくなって
でも
消え去らない
小さくなるなら消えるのが「視覚の論理」。でも、「あなた」をよく知っているときは、どんなに小さくても「見える」。「あなた」より大きな木が見えなくなっても「あなた」は「見える」。谷川は「消え去らない」と書いている。そうなのだ。「見える」ではなく「消え去らない」。「あたし」のこころから「消え去らない」。むしろ、見えないからこそ、こころはそれをしっかりつかんで放さないのかもしれない。
でも、谷川の詩は、そんな「理屈」を書かない。「理屈」を壊してしまう。
やがて
あたしは
空に到着
そこからあなたに
空語で
お便りします
はるか下で
羊が
かすかに
めええと
言っている
あたし
もう
何もかも
ないことに
する
またまた、びっくりしてしまう。「何もかも/ないことに/する」の「ない」とは何? ほんとうに何もない? 逆だね。すべてを「ある」と感じ、それで満たされているので、「ある」を言うことができない。「ある」がありすぎる。そのすべてを言うことは、ことばには無理。だから、「ないことに/する」。
最後の「する」は「あたし」が「する」ということ。
客観的状況ではなく、「主観」の主張。充実した喜び。
ことばの「客観的意味」がいつでも「絶対的主観」によって叩き壊されている。その「意味」からの解放、「矛盾」のなかで、永遠が輝く。
谷川はどこまで若くなるのだろう。
あたしとあなた | |
谷川 俊太郎 | |
ナナロク社 |
*
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クリエーター情報なし | |
思潮社 |
「谷川俊太郎の『こころ』を読む」はアマゾンでは入手しにくい状態が続いています。
購読ご希望の方は、谷内修三(panchan@mars.dti.ne.jp)へお申し込みください。1800円(税抜、送料無料)で販売します。
ご要望があれば、署名(宛名含む)もします。
リッツォス詩選集――附:谷内修三「中井久夫の訳詩を読む」 | |
ヤニス・リッツォス | |
作品社 |
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