詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

フィレンツェ、ローマの旅(1)

2015-06-26 23:07:55 | その他(音楽、小説etc)
フィレンツェ、ローマの旅(1)

 私は和辻哲郎の文章が大好きである。和辻の見たものを自分の眼でも見てみたい。そう思ってフィレンツェとローマにある絵を訪ねた。「イタリア古寺巡礼」の一部を追いかけてみた。写真(本/図録)と和辻の文章をとおして知っていると思い込んでいるものを、自分の眼で見て修正する(自分のことばにしてみる)旅である。

 「受胎告知」は多くの画家によって描かれている。フィレンツェで見ることかできる作品では、レオナルド・ダビンチの作品とフラ・アンジェリコの作品が有名だと思う。私はまずウフィツィ美術館でダビンチを見て、そのあとでサン・マルコ美術館でアンジェリコを見た。
 ダビンチの絵は私にはあまりおもしろくなかった。ウフィツィにある無数の作品のなかで印象が弱められてしまったのかもしれない。しかし、マリアの表情(驚き)が指に表現されていて、そこに肉体がある、と感じた。右手の指先に力が入っている感じがなまなましい。左手の驚きで力がぬけた感じとの対比のなかに、人間の肉体のなかで動いている感情の不思議さを感じた。驚き、放心し、一方で何かにすがろうとするかのように肉体が動いている感じが、指の変化のなかにあらわれている。
 ガブリエルの翼の描き方も、奇妙に印象に残る。肩から、翼の曲がり角にかけての部分が非常に強い。鳥の翼はこんなにたくましかったか。よく思い出せないが、私の鳥の翼の記憶とはかなり違う。
 このあとアンジェリコを見た。アンジェリコには「受胎告知とマギの礼拝」(テンペラ?)と「受胎告知」(フレスコ)のふたつがある。「受胎告知とマギの礼拝」の天使の翼の描き方について和辻は「不自然さ」を指摘している。「形はあまり感心ができない」と。
 私はまったく逆に感じてしまった。カラフルな色彩とやさしい形に、あ、これが天使かと思ってしまった。肉体を感じない。ダビンチの作品では天使さえも人間の肉体の重さをもっていて、それを持ち上げ、飛ぶには強靱な翼が必要だと感じる。しかしアンジェリコの作品では天使なのだから人間ではない、もっと身軽だ。だから翼も「飾り」でいいのだ、と納得させる。
 マリアは右手を下に、左手を上にして体を押さえている。自分の肉体のなかで起きている変化を手で確かめようとしている。けれども、そんなに肉体を感じさせない。むしろ眼の輝きに肉体を感じる。肉体の内部で動いているものが視線になってあらわれている。
 喜びは天使の翼の色彩の変化のなかにある。マリアが驚き、とまどっているのに対し、天使の肉体(?)のなかからは喜びがあふれてきて、それが翼の色彩の変化として表現されているように感じた。手の組み合わせ方が、マリアとは逆に左手が下、右手が上になっている。ふたりが向き合うと胸像のように左右対称になる。それが「世界」をしっかり固定させる感じだ。
 その一方で、二人のあいだには柱があって、それが絵を見る側からすると、人間の世界と天使の世界を分断しているようにも見える。間に柱がないダビンチの方が連続感がある。(「受胎告知とマギの礼拝」の方にはさえぎるものがない。)しかし、この分断が、なぜか「清潔」に感じられる。「分断」があるからこそ「真実」という感じがする。「柱」を超えて、天使とマリアを一体のものとしてつかみとるとき、そこに「真実」が実現するといえばいいのか。
 処女が神の子を受胎する(妊娠する)というのは、どう考えても条理を超えている。間違っている。しかし、間違っているからこそ、そこに真実(信実?)がある。信じることで「間違い」を「ほんとう(真実)」にしてしまうとき、その「信じる」のなかで何かが変わる。「真実」が「肉体(信実)」になる。真剣にそれを追い求めている。私は宗教というものを信じていない(「精神」とか「魂」も存在するとは考えていない。方便として、そのことばはつかうけれど……)のだが、この真剣さが「宗教画」というものか、と感じた。
 これに比較すると、ダビンチの方は「宗教」というよりも、もっと「人間的(肉体的)」であるように思える。

 サン・マルコには、「受胎告知」のほかに、それぞれの個室の壁にフラスコ画が描かれている。これが、またたいへん美しい。色彩に陰影があるが、余分な混ざり気がない。壁の白をそのまま生かしている。余白(?)が「個人」というものを浮かび上がらせる。精神を感じさせる。「受胎告知」とは別の美しさである。特に回廊を曲がる寸前から始まる十字架のキリスト(磔刑のキリスト)とひとりの僧が向き合ったシリーズがすばらしい。血を流すキリストの、その血の色が強靱で、血の色を初めて美しいと感じた。それは「肉体」の真実なのだが、同時に「肉体」を超えるものの象徴のようにも感じた。

 アカデミア美術館にあるダビンチの「ダビデ像」は人が多すぎて、何か作品を見ている感じがしない。集中できない。

 それにしてもフィレンツェには見るものが多すぎる。ウフィツィだけで、頭がくらくらしてしまう。写真で知っているものを肉眼で修正するにはとても二日、三日では時間が足りない。どうしても「記憶」の方に引き返して安心してしまう。「あ、これがボッティチェリのヴィーナスの誕生か、春か。これが和辻の指摘していた草花の細部か……」という具合である。自分のことばにする余裕がない。さらに絵の前を通りすぎる人や、写真を撮るひとの姿にも疲れてしまう。
 サン・マルコはなぜか人が少なく、静かだったことも、アンジェリコの絵をすばらしいと感じた要因かもしれない。
 
 ドゥオーモは全体像の美しさを把握するのがなかなかむずかしいが、ヴェッキオ宮殿の塔から見ると姿がよくわかる。ドゥオーモとジョットの鐘楼に登るよりも、ヴェッキオ宮殿へ行くことをお勧めしたい。

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谷川俊太郎『あたしとあなた』(2)

2015-06-26 11:21:32 | 詩集
谷川俊太郎『あたしとあなた』(2)(ナナロク社、2015年07月01日発行)

 きのう書いた感想を少し書き直す。「音楽」という作品。

あたしの
音楽は
うんと
遠くから
聞こえて
くる

ヘッドフォンから
じゃない
もっと
遠く

あなたの
水平線を
越えて
あなたの
オーロラも
越えて

意味の
要らない
幻の
草原で
あたしは
チューバと
子どもみたいに
鬼ごっこ

 2連目。
 一連目の「遠く」を「ヘッドフォンから/じゃない」と言い直している。
 この「遠近」の肉体感覚に私は「頭」を叩き割られた感じがする。「遠く」ということばから、どうしても山の向こうとか、宇宙の彼方とかを想像してしまう。そしてそういうとき私の「肉体」は動いていない。「頭」だけで想像している。「定型」を想像しているだけだ。
 「遠く」を想像する(考える)とき同時に「近く」を想像することはない。いま、むりやり想像してみたとしても「近く」なら、部屋の隅とか、開けた窓の外くらいを思い浮かべる。ヘッドフォンのように肉体に密着した「近さ」というものを考えない。
 そのために「遠く」を「ヘッドフォンから/じゃない」と言い直していることに、つよい衝撃を受けたのだ。
 谷川は「肉体」でことばを書いている。「肉体」で詩を書いていると、強く感じたのだ。

 「ヘッドフォン」はまた「音楽」の言い直しでもある。谷川は、「音楽」は「機械(ヘッドフォン)」からは聞こえてこない。別な場所から聞こえてくる。べつなところに鳴り響いていると言い直していることにもなる。
 「遠/近」よりも「機械/自然・宇宙」という対比を語っているのかもしれない。「水平線」や「オーロラ」「草原」ということばは、そういうことを感じさせる。
 しかし、これは、「頭」で整理した「論理」。
 私は、やっぱり「ヘッドフォン」ということばといっしょにあらわれた「肉体」に衝撃を受けたのだ。ヘッドフォンを外したところには別の「肉体」があり、「音」を出している。奏でている。それが「音楽」として聞こえる、という「肉体」の感覚に衝撃を受けたのだ。

 きのうと違う感想を書こうとして書きはじめたのだが、また、元へもどっていくような、ずれていくような、感じがする。私はいつでも「結論」を想定しないで、思いついたことをつなげていくので、書いているうちに思っていることが変わってしまう。
 「脱線」も感想の重要な部分だと思うので、このままつづける。

 「音楽」と「ヘッドフォン」。いまはあたりまえのようにして人はヘッドフォン(イヤフォン)から音楽を聴いている。電車に乗ってもバスに乗っても、イヤフォンをしたひとを見かける。歩いていても、そうである。
 私はどちらかというと新しいもの好きなので、ウォークマンもiPODも買ってつかったがすぐに飽きてしまった。いまはつかっていない。ちっとも楽しくない。もともと音楽的な人間ではないし、イヤフォンをして音楽を聞くのがめんどうくさいと感じる。自分だけに聞こえる「音」というのは、聞くというよりも聞かされるという感じがして、何か気持ち悪いとも思うようになってしまった。
 「ヘッドフォンから/じゃない」ということばに「頭」を叩き割られたと感じ、そこに「肉体」を感じたと同時に、私は瞬間的に「親近感」も感じた。
 「音楽」はそんなところにはない。ヘッドフォン(イヤフォン)を外して、耳を開放したときに聞いてしまうもののなかにある。いま私は扇風機をかけながらキーボードを叩いている。そうすると右から扇風機のモーターの音が聞こえ、左からパソコン(古いデスクトップ)のモーターの音が聞こえる。前からキーボードを叩く音がする。その三種類の音が聞こえる。これは「何/音」、つまり「雑音」それとも「音楽」。わからないが、この三つの音の組み合わせをうまくことばにできたら、それは「音楽(詩)」になるだろうなあとも思う。
 「肉体」の外にあって、「肉体」と交流しようとする「音」。逆かな。「肉体の外にある音」と交流しようと「肉体」が欲するとき、まだ始まる前の「音楽」が生まれていると感じる。私の聞きたい「音楽」は、そういうものなのかもしれない。
 「ヘッドフォンから/じゃない」という二行は、そんなことも感じさせてくれたのだ。


 私のブログを読んだ人は、どっちが「ほんとう」の感想? と疑問を持つかもしれない。どちらも「ほんとう」である。きのうはきのう書いたように感じた。いや、書きながら最初思っていることと少し違ったことを書いているかなとも感じてはいても、書きながら感想がかわっていくのは自然なことだし、そのままなりゆきにまかせて書いた。きょうはきょうで、きのう書けなかったことを書きたいなあと思って書きはじめる。その瞬間には「ほんとう」があるのだけれど、書いていると、ことばは「ほんとう」から少しずれて動いてしまう。「ほんとう」に感じていることというのは、まだことばにしたことがない何かなので、はっきりとはことばにできない。正確には書けない。どうしてもおぼえていることば、おぼえている書き方の方へ動いてしまう。これは、仕方がないことなのだと私は思っている。繰り返し繰り返し、少しずつ書き直していくしかない。
あたしとあなた
クリエーター情報なし
ナナロク社
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嵯峨信之を読む(100)

2015-06-26 00:00:00 | 『嵯峨信之全詩集』を読む
嵯峨信之を読む(100) 

152 氷嶋

 萩原朔太郎の「氷島」を意識して書かれた詩なのだろうか。

いつまでもひとり戸外に立つて
あの裏切り者が吹くすすりなくような口笛を信じるな

 「すすりなく口笛」は朔太郎の音楽を感じさせる。それを「信じるな」と嵯峨は書く。朔太郎とは違う音楽の詩を嵯峨は目指している、ということの表明だろうか。あるいは、その音楽に惑わされずに、音楽の底にあるものを掴み取れというのか。

彼の内部をひた走る針鼠をみつめよ

 この三行目は、音楽よりも苦悩をみつめるべきだという主張に聞こえる。

すべて屍の眼は断罪のきびしさに見開いたままだ
一つの星に飾られた氷嶋
その永劫の墓場へむかつて一列の漂体はどこまでもながれてゆく

 この終わりの三行は、嵯峨の音楽が、たしかに朔太郎とは異なっていることを教えてくれる。嵯峨の場合、漢語(漢字熟語)が肉体から分離している。精神は肉体の不透明さを拒絶している。精神で肉体をととのえるという感じがする。
 「屍の眼は断罪のきびしさに見開いたままだ」ということばは、嵯峨が「音楽」さえも「眼」で見ようとしていると感じさせる。「眼」で聞くという感じがしない。見ることをやめれば、もっと音楽がやわらかくなるのに、と思ってしまう。

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