詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

嵯峨信之を読む(92) 

2015-06-18 00:00:00 | 『嵯峨信之全詩集』を読む
嵯峨信之を読む(92) 

143 野にかかる虹

 この作品から「野にかかる虹」という章になる。

極貧の木魂がぼくを貫ぬく
眠れ眠れ
夜明けまで狂つた麦の野で眠れ

 ことばが意味よりも、意味を超える過激さを求めている。「極貧」や「狂つた」という修飾語は、尋常を突き破るためのもの。「美しい」という概念を破った向うに詩を見つけ出したいのだと思う。だからこそ、そのことばは「美しい」存在と結びついてみせるのである。

バクテリヤの花咲く空よ

 この一行は、そうした精神のありようを象徴的にあらわしている。美しくないものが美しいはずの花と結びつくことで、いま/ここを破壊する。それは、しかし「いま/ここ」ではなく、「いま/ここ」へとつながっている「過去」をこそ破壊する。「美の定型」(美の伝統)を破壊しようとしている
 おもしろいのは、それをただ破壊するだけではなく、ことばが次のようにつづくところだ。

バクテリヤの花咲く空よ
ぼくの大きな傷口を一夜で縫い合わせよ

 破壊によって生じた「傷口」を嵯峨はすぐに修復する。「傷口」をさらに破壊してしまうおうとはしないところである。破壊から引き返してしまうのだ。

蔓ばらのおびただしい数字よ
ぼくをその刺から解き放せ

 これも同じ「構文」といえるだろう。一方で「数字」という「抽象」によって精神を傷つけ、それからすぐに「抽象の刺」からの解放を夢見る。
 抒情は、嵯峨においては、つねに修復され、生き延びる。「野にかかる虹」ということば、その美しさは、破壊のときも追い求められている。
嵯峨信之全詩集
クリエーター情報なし
思潮社

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