嵯峨信之を読む(96)
148 ぼくは生きた
「火ばしで/ひつ掻く炭火がないとき」という具体的な描写がおもしろい。いまは「火鉢」もなければ「火ばし」もない。「炭火をひつ掻く」ということもないから、わかりにくいかもしれないが、それがあった時代を生きてきた私には、この「動き」がとてもよくわかる。
その直前に「泣き顔で生きた」という一行がある。「泣いて生きた」のとは違う。「顔」は泣いているが、声は出していない。声を押し殺している。そして、声を押し殺すとき、嵯峨は火鉢の炭火を火箸でひっかいていたのだ。その手の動きが「泣く」ということだったのだ。
次の「自分で/自分の顔を撹きまわした」は「火箸」の動きに比べると抽象的。「炭火」がなくても、火鉢の灰をひっかきまわし、そこに自分の顔を見ていたのかもしれない。そういうことも感じさせる。
そのあと、
この行で私は立ち止まった。「自裁」の最終行、
なぜ「蛙」なのか、その「比喩」がわからなかったのだが、「蛙の顔」というのは嵯峨の悲しいときの「自画像(自己認識)」だったのか。
こういうことが、ふっとわかる(伝わってくる)と、そこに詩人がいるような気がしてくる。私は嵯峨に会ったことはないのだが、会ったことがあるように、その顔(写真で見た顔)を思い出したりする。こういうことも詩を読む楽しみかもしれない。
148 ぼくは生きた
ぼくは生きた
今日まで生きた
泣き顔で生きた
火ばしで
ひつ掻く炭火がないとき
自分で
自分の顔を撹きまわした
「火ばしで/ひつ掻く炭火がないとき」という具体的な描写がおもしろい。いまは「火鉢」もなければ「火ばし」もない。「炭火をひつ掻く」ということもないから、わかりにくいかもしれないが、それがあった時代を生きてきた私には、この「動き」がとてもよくわかる。
その直前に「泣き顔で生きた」という一行がある。「泣いて生きた」のとは違う。「顔」は泣いているが、声は出していない。声を押し殺している。そして、声を押し殺すとき、嵯峨は火鉢の炭火を火箸でひっかいていたのだ。その手の動きが「泣く」ということだったのだ。
次の「自分で/自分の顔を撹きまわした」は「火箸」の動きに比べると抽象的。「炭火」がなくても、火鉢の灰をひっかきまわし、そこに自分の顔を見ていたのかもしれない。そういうことも感じさせる。
そのあと、
闇の中に
ぼくの泣き顔が真赤に浮かんだ
(それは虎の顔ではない 蛙の顔だ)
この行で私は立ち止まった。「自裁」の最終行、
蛙の真赤な泣き顔を正面からおもいきり槍で貫らぬけ
なぜ「蛙」なのか、その「比喩」がわからなかったのだが、「蛙の顔」というのは嵯峨の悲しいときの「自画像(自己認識)」だったのか。
こういうことが、ふっとわかる(伝わってくる)と、そこに詩人がいるような気がしてくる。私は嵯峨に会ったことはないのだが、会ったことがあるように、その顔(写真で見た顔)を思い出したりする。こういうことも詩を読む楽しみかもしれない。
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