詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

嵯峨信之を読む(96) 

2015-06-22 00:00:00 | 『嵯峨信之全詩集』を読む
嵯峨信之を読む(96) 

148 ぼくは生きた

ぼくは生きた
今日まで生きた
泣き顔で生きた
火ばしで
ひつ掻く炭火がないとき
自分で
自分の顔を撹きまわした

 「火ばしで/ひつ掻く炭火がないとき」という具体的な描写がおもしろい。いまは「火鉢」もなければ「火ばし」もない。「炭火をひつ掻く」ということもないから、わかりにくいかもしれないが、それがあった時代を生きてきた私には、この「動き」がとてもよくわかる。
 その直前に「泣き顔で生きた」という一行がある。「泣いて生きた」のとは違う。「顔」は泣いているが、声は出していない。声を押し殺している。そして、声を押し殺すとき、嵯峨は火鉢の炭火を火箸でひっかいていたのだ。その手の動きが「泣く」ということだったのだ。
 次の「自分で/自分の顔を撹きまわした」は「火箸」の動きに比べると抽象的。「炭火」がなくても、火鉢の灰をひっかきまわし、そこに自分の顔を見ていたのかもしれない。そういうことも感じさせる。
 そのあと、

闇の中に
ぼくの泣き顔が真赤に浮かんだ
(それは虎の顔ではない 蛙の顔だ)

 この行で私は立ち止まった。「自裁」の最終行、

蛙の真赤な泣き顔を正面からおもいきり槍で貫らぬけ

 なぜ「蛙」なのか、その「比喩」がわからなかったのだが、「蛙の顔」というのは嵯峨の悲しいときの「自画像(自己認識)」だったのか。
 こういうことが、ふっとわかる(伝わってくる)と、そこに詩人がいるような気がしてくる。私は嵯峨に会ったことはないのだが、会ったことがあるように、その顔(写真で見た顔)を思い出したりする。こういうことも詩を読む楽しみかもしれない。
嵯峨信之全詩集
クリエーター情報なし
思潮社

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする