嵯峨信之を読む(90)
139 来者--Mよ
最初の三行は架空のことばである。現実を踏まえていない。「薊」は砂丘の花ではないし、冬の太陽とも縁がない。かけ離れたことばを強引につないでイメージをかき乱している。
それにつづく二行には「ぼく」が二度出てくる。この繰り返しが青春の自意識のようでおもしろい。「激情」に酔っている感じをあおる。現実に「雷鳴に教育される」のではなく「夢のなかで」というのが、青春らしい。
架空のことばのなかで、過激な青春の血を流そうとしている嵯峨がいる。
140 青麦の上の男
この書き出しは魅力的だ。「激情」がどこからやってくるのか。なんの為にやってくるのか、わからない。しかし、「激情」になってしまいたい。自分を超えたい、という欲望を感じる。
この「死をこえる」が「自分をこえる」ということ。「いまの自分」は死に、そのあとで「新しい自分」が生まれる。
「新しい自分」(再生した自分)だからこそ、その麦畑はまだ青い。黄金に輝く実りの麦畑ではない。太陽もまた頂点に達していない。
139 来者--Mよ
誰も知らぬ北の海よ
砂丘よ
冬の太陽と塩の愛で薊を勁くそだてる日々よ
大きな楯のかげでぼくが深い眠りにはいると
ぼくは夢のなかではげしい雷鳴に教育されるだろう
最初の三行は架空のことばである。現実を踏まえていない。「薊」は砂丘の花ではないし、冬の太陽とも縁がない。かけ離れたことばを強引につないでイメージをかき乱している。
それにつづく二行には「ぼく」が二度出てくる。この繰り返しが青春の自意識のようでおもしろい。「激情」に酔っている感じをあおる。現実に「雷鳴に教育される」のではなく「夢のなかで」というのが、青春らしい。
架空のことばのなかで、過激な青春の血を流そうとしている嵯峨がいる。
140 青麦の上の男
槍でさぐつても
炎の奥はわからない
この書き出しは魅力的だ。「激情」がどこからやってくるのか。なんの為にやってくるのか、わからない。しかし、「激情」になってしまいたい。自分を超えたい、という欲望を感じる。
死をこえる勇気はいつか実るだろう
この「死をこえる」が「自分をこえる」ということ。「いまの自分」は死に、そのあとで「新しい自分」が生まれる。
峡谷に曙の光りがさしはじめると
その向うにひろがる広大な麦ばたけで
青い穂がいつせいに揺れだすだろう
太陽よ云え
もう間もなくその男がそこを横切つて行く時刻だ
「新しい自分」(再生した自分)だからこそ、その麦畑はまだ青い。黄金に輝く実りの麦畑ではない。太陽もまた頂点に達していない。
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