詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

嵯峨信之を読む(90)

2015-06-16 06:12:25 | 『嵯峨信之全詩集』を読む
嵯峨信之を読む(90)

139 来者--Mよ

誰も知らぬ北の海よ
砂丘よ
冬の太陽と塩の愛で薊を勁くそだてる日々よ
大きな楯のかげでぼくが深い眠りにはいると
ぼくは夢のなかではげしい雷鳴に教育されるだろう

 最初の三行は架空のことばである。現実を踏まえていない。「薊」は砂丘の花ではないし、冬の太陽とも縁がない。かけ離れたことばを強引につないでイメージをかき乱している。
 それにつづく二行には「ぼく」が二度出てくる。この繰り返しが青春の自意識のようでおもしろい。「激情」に酔っている感じをあおる。現実に「雷鳴に教育される」のではなく「夢のなかで」というのが、青春らしい。
 架空のことばのなかで、過激な青春の血を流そうとしている嵯峨がいる。

140 青麦の上の男

槍でさぐつても
炎の奥はわからない

 この書き出しは魅力的だ。「激情」がどこからやってくるのか。なんの為にやってくるのか、わからない。しかし、「激情」になってしまいたい。自分を超えたい、という欲望を感じる。

死をこえる勇気はいつか実るだろう

 この「死をこえる」が「自分をこえる」ということ。「いまの自分」は死に、そのあとで「新しい自分」が生まれる。

峡谷に曙の光りがさしはじめると
その向うにひろがる広大な麦ばたけで
青い穂がいつせいに揺れだすだろう
太陽よ云え
もう間もなくその男がそこを横切つて行く時刻だ

 「新しい自分」(再生した自分)だからこそ、その麦畑はまだ青い。黄金に輝く実りの麦畑ではない。太陽もまた頂点に達していない。

嵯峨信之全詩集
クリエーター情報なし
思潮社

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