詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

嵯峨信之を読む(75)

2015-06-01 12:12:31 | 『嵯峨信之全詩集』を読む
嵯峨信之を読む(75)

122 一本の葦

たつた一つの心をもてあまして
きゆうに明るくなる世界で自分のその姿を見るのは怖ろしい

 抽象的な書き出し。もてあましている心は、不安か、暗さか。あるいは怒りか、欲情か。次の行の「明るくなる」と「対」になって、不安定さが際立つ。「その姿」は「ひとつの心」の姿か、「もてあまして」いる姿か。「自分のその姿」と書いてあるので、「文法的」には心を「もてあましている自分の姿」なのだろうが、「心」そのものの姿のようにも見える。
 「自分の姿」を「見る」ということが、現実としては「鏡」か何かをつかわないと見えない、何かに姿を映してみる、という「間接的」な見方しかできないということも関係しているかもしれない。「自分の姿」を鏡なしで見るときは、「想像して」見るのである。そういう見方は「心」を見るときも同じだ。「直接」見るのではない。でも自分のことなので「直接」と感じる。この「間接」と「直接」の交錯のなかに、「比喩」が生まれてくる秘密があるかもしれない。
 嵯峨は「その姿」を「比喩」をつかって見つめなおしている。

汐が満ちはじめた入江の岸で一本の葦が身をゆすつている
多くの静かな葦のなかでその一本だけがどうして顫えるのだろう
おなじ日の生のなかでその葦だけがまだ何か掴めないのだ
その全身を顫わせて求めているものは何んだろう

 「葦」。「人間は考える葦である」の葦だろう。「一本だけが顫える」は「心」のなかのいろいろな思いのなかの「ひとつ」だけが「顫える」と読むことができる。
 「自分自身の肉体」は「ひとつ」。けれど「心」はいくつもある。そのひとつが「顫える」と読むと、最初に感じた疑問、「その姿」はますます「心」のように見えてくる。
 その「心」だけが何かを掴めない。そのために「不安」である。いくつもある「心」なのだから、その「ひとつ」は見えなくてもいいのに……。実際、楽しいことがあったりすると、その「心」はどこかに消えているのだが、その隠れているものが、ある瞬間、ふいにあらわれてきて、人間を苦しめる。

嵯峨信之全詩集
クリエーター情報なし
思潮社

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谷川俊太郎『詩に就いて』(33)

2015-06-01 10:08:25 | 谷川俊太郎「詩に就いて」
 谷川俊太郎『詩に就いて』(33)(思潮社、2015年04月30日発行)


Ombra mai fu

王は木陰にいる
殺戮の旅から帰ってきたばかりだが
心はそこにはない
妃の不義を疑う苦しみが
王の心を塞いでいる
木の間に囀る小鳥たち

そんな細密画の筆を置いて
少年は井戸へ指を洗いに行く
祖父の残した手本は
時代遅れだと少年は思う
王はもう木陰になんかいやしない
妃とジェット機で雲の上だ

こんな断片では捉えられない真実を
詩は生み出せるだろうか
時に侵されぬ言葉を信じて
一瞬をフリーズドライしようと
古ぼけたラップトップを膝に
老詩人は木陰にいる

 「ぬらぬら」の三連目について、すべての「時間」は意識にとっては「同時」であるというようなことを書いた。「大正時代」も「三日前」も「小学生時代」も「バッハの時代」も、その「時間」を思い起こすとき、「いま」と瞬間的につながり、どの時間が先、どの時間が後とということはない。
 この区別のなさは「時間」だけではない。谷川の詩には、ときどき少年、犬、女性、老人がそれぞれの一行の主語になりながら駆け抜けていくときがある。そのとき、それぞれの主語はたしかに少年、犬、女性、老人なのだが「ぬらぬら」の「時間」のように「方便」として区別されているだけで、ほんとうは「ひとつ(ひとり)」である。瞬間的に、谷川は少年になり、犬になり、女性になり、老人になる。それらをつらぬく「いのち」になる。
 「主語」あるいは「時間」が変われば、当然、描写も変わる。けれど、その変化を超えて動いているものは変わらない。一貫している、ということがある。
 この詩も、その視点で読むことができる。
 一連目の主語は「王」。そして、王は木陰に「いる」のだが、「心」はそこ(木陰)には「ない(いない)」。王の「心」は妃の不義を疑う苦しみのなかに「ある」。
 二連目の主語は「少年」。一連目を「絵」のなかの物語にしてことばが動いている。少年は絵を摸写して「いる」。しかし、「心」はそこ(絵のなか)には「ない」。そんな絵は絵の手本としては「時代後れだ」と思っている。少年の「心」はそういう「批判」のなかに「ある」。
 三連目の主語は「老詩人」。谷川だろうか。一連目、二連目を「物語」の断片としてながめている。描写している。そこには「物語」としての「ことば」が「ある」。しかし、谷川の「心」はその「ことば」のなかには「ない」。そんなことばの断片では真実は捉えられ「ない」と思っている。そして、それを超える詩が「ある」、詩を生み出せるどうか考えている。書こうとしている。
 三つの連は「入れ子細工」のようになっている。一連目を二連目がつつみ、二連目を三連目がつつむ。同心円がみっつ描かれている「構造」になっている。
 三つの連(同心円)のなかで、「いる(ある)」「ない」「ある」が同じように動いている。その前にある「現実」がある。しかし、「心」はその「現実」を否定し(現実を「ない」という状態にして、違うところで動く。つまり違う場に「心」が「ある」と書いている。
 繰り返されることで、その繰り返されたことが、それぞれの「ひとつ」の状況を乗り越えていくといえばいいのか、その中心に入っていくといえばいいのかわからないが、その「動き」そのものを存在させる。「運動のあり方/運動の論理」を浮かび上がらせる。
 谷川の詩は、とても「論理的」な部分が多いが、それは谷川は、こういう「主語」を変化させながらおなじ「運動」を繰り返し書くからでもある。繰り返せば、そこに必ず繰り返しを貫く「論理」が生まれてしまう。
 それは「散文」でも「詩」でも同じことだ。
 ただし、谷川は、そうやって「生まれてしまう論理」を、常に破ろうとしている。
 一連目の最終行。「木の間に囀る小鳥たち」は「王の心」とは無関係である。人間の心とは無関係な、つまり非情な自然の姿を描いている。人間の「心」とは無関係なものが「ある」と告げている。
 二連目の最終行は、「細密画」の王と妃とは無関係なことろに現代の王と妃は「いる」と告げている。
 三連目の最終行。これは、ちょっと意地悪な行だが、老詩人の考えていることと「木陰」は無関係である。木陰でなくても書斎でも、そういうことは考えられるという意味で無関係である。
 三連目は、そういう無関係をぱっと差し出しながら、同時に一連目の「王は木陰にいる」の「木陰」へと引き返し、先に書いた入れ子細工(同心円)の構造を一基に逆転させる。最初に老詩人が木陰にいて、その木陰から妃の不義に思い悩む王のことを詩に書こうとしたのだと感じさせる。あるいは、詩を書くことは王が妃の不義を疑い苦しむということに似ていると読むこともできる。「ある」か「ない」かわからないものから、「真実」を探し出す(生み出す)ということばの運動へ動き出す詩を書こうとしたのだと感じさせる。
 追いつづけてきた「論理」を、谷川はそんな風にひっくりかえしてみせる。そうすることで「論理」を宙ぶらりんにしてしまう。「論理」からことばを解放すると言い換えることもできる。
 
 この詩を読みながら、私は、またほかのことも考えた。

こんな断片では捉えられない真実を
詩は生み出せるだろうか

 三連目のこの二行からは、「詩は真実を生み出すもの」という「定義」を引き出すことができる。真実を「語る/告げる」ではなく「生み出す」。そこに谷川の思想がある。
 さらに、その二行につづく「時に侵されぬ言葉」は「時間」を超えることばを追い求めるという姿勢を語ったものである。「時に侵されぬ/時間を超える」は「時代後れ」にならないと同時に「いま」にまみれてしまわない、でもある。「いま」を書きながら、「いま」にまみれない--それを谷川は「一瞬をフリーズドライ」すると呼んでいる。この「一瞬をフリーズドライ」するという表現は、「放課後」の

窓際で詩が少年の姿をして言葉を待っている
校庭に男女の生徒たちが静止(フリーズ)している

 を思い起こさせる。この「静止(フリーズ)」は「放課後」の最終連では、詩によって「激しく動きはじめる」ものになっている。そしてそれは「和音に乗って旋律がからだに入ってくる」とも書かれていた。「フリーズドライ」は書かれた楽譜、それがからだのなかに入ってくると、その瞬間、和音と旋律にかわる。その和音と旋律が「真実」であり、そんなふうに動くことばが詩なのだ、と谷川は「定義」していると、私は読みたい。


詩に就いて
谷川 俊太郎
思潮社

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スサンネ・ビア監督「真夜中のゆりかご」(★★+★)

2015-06-01 00:59:38 | 映画
監督 スサンネ・ビア 出演 ニコライ・コスター=ワルドウ、ウルリッヒ・トムセン、マリア・ボネビー、ニコライ・リー・カース、リッケ・メイ・アンデルセン

 はじまりの映像が暗い。海か川かわからない水の揺らぎが、冷たく暗い。街灯の灯に照らし出されている枯れ木(枯れた枝)さえも暗い。さらに、その映像がアップすぎて何かわからない。水の揺らぎが海か川かわからないと書いたが、街灯に照らされる枯れ木にしても、それがどのような場所にある街灯なのか、全体が見えない。ガラスの容器にともすロウソクらしきものも、それが何かわからないし、トイレで倒れている女の姿も、なぜなのかわからない。
 これは映画の構造を象徴している。登場人物はそれぞれ対象に密着しすぎている。目の前にある「アップ」の現実だけを見ていて、「全体」を見ていない。一種の謎解きものなのだがストーリーを顔のアップ(登場人物の感情)で壊して行く。悲しみと怒りはときとして似た表情になるが、それがこの映画の謎を深めていく。謎解きのストーリー(事件の解決)ではなく、事件のなかにある人間の感情だけを取り出して、その動きのなかに観客を引っぱっていく。なかなかの力業である。(主役のニコライ・コスター=ワルドウの住んでいる家が北欧なのにガラス張りというかガラスの窓が大きく、外から内部が見えるようになっているのは、まるで顔の表情をとおして人間の内部が見えるという映画のつくり方と重なるようで、とてもおもしろい。)
 こうした映画のつくり方にあわせて役者を選んだのか、ニコライ・コスター=ワルドウをはじめ、役者はみな目も鼻も口も大きくて、それがさらにアップされて、そこに感情が激しく動くので、なんだかすさまじい。子供を亡くした女、子供を奪われた女、刑事、ドラッグ依存者の元犯罪者が、それぞれ「対構造」で苦悩するのだけれど、見どころはその4人というよりも主人公の相棒のウルリッヒ・トムセンの方。
 離婚し、子供は妻の側に引き取られ、妻は再婚している。子供はウルリッヒ・トムセンよりも新しい父の方になついているらしい。アルコール依存症になり、彼は彼で苦悩しているのだが、ニコライ・コスター=ワルドウの異変に気がついて、アルコール依存症から立ち直り、若い相棒を支えるようになる。それまではニコライ・コスター=ワルドウがウルリッヒ・トムセンを支えているのだから立場が逆転する。ニコライ・コスター=ワルドウが友情からそうしているのに対し、ウルリッヒ・トムセンは父親のようにふるまう。これがこの映画を深みのあるものにしている。若い色男というのもいいものだが、うだつのあがらない初老の男がじっくりと人生を立て直し、他人を支えるという姿はなかなかすばらしくて、よかった。
 そして、この映画の最後の方、事件が解決したあとの海の色がすばらしく美しい。北欧の冷たい海なのだが、青の輝きが透明感があって(油彩の透明絵の具のような色)、それが静かに輝く。あ、世界はこんなに美しいのだと思う。(+★の理由)
 犯罪映画なのだけれど、罪を犯し、そこから立ち直っていく姿、それを支える人間をていねいに描いているから、最後が美しく輝くのだ。
                        (2015年05月31日、天神東宝2)




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