高橋睦郎「家族ゲーム」(「現代詩手帖」2015年06月号)
高橋睦郎「家族ゲーム」には「または みなごろしのネロ」という副題がついている。そして、次のように始まる。
「副題」のあるなしにかかわらず、読んだ瞬間、あ、この詩は全員を殺し、自分をも殺すという形で終わるに違いないと予感させる。さらに詩の形も同じような具合に動いていくだろうと感じさせる。
実際、その予感どおりに動く。
父親が「淫ら」だったのに対し、弟は「高貴」だった。理由は違うが、父がどんなふうに「淫ら」だったか、弟がどんなふうに「高貴」だったかは書かれていない。読者の想像に任されている。
これは、詩としては「読み足りない」感じを与えるかもしれない。知らないことが書かれていない。予想以外のことが書かれていない。
しかし、私は読んでしまう。
なぜだろう。
ことばというのは、知らない事実を明るみに出すだけのためにあるのではない。知っていることを確認するためにもある。いや、味わうためにある。知っていることを、自分のことばで知っている以上に味わいたいのだ。
こんな例を引き合いに出すと「文学」からかけはなれるかもしれないが……。
たとえば野球。前の日にテレビで見ている。(スタジアムで見ている。)結果は知っている。それでもファンは新聞を読む。知っていることを、何度も確認する。喜びや悔しさを何度でも味わいなおす。ことばは、そんなときも有効に動いている。
そして、こういう場合、そのことばに求められているのは「定型」である。ことばをとおして、自分の気持ちを「定型」にととのえるのである。
詩にもどる。
この詩では父がどんなふうに淫らであったか書かれていない。弟がどんな具合に高貴だったかも書かれていない。ただ「大淫ら」「高貴」としか書かれていない。それは、「大淫ら」「高貴」が自分の(読者の)想像を越えるものだったら困るからだ。読者の関心は殺すという行為よりも、「大淫ら」「高貴」の方へ向かってしまう。自分のできないことをやってしまう人間に対する「嫉妬」から殺した、というような「説明」がつけくわえられたりしたら、これもうんざりしてしまう。
ただ殺すという動詞だけが繰り返され、ととのっていく。「理由」が簡単に述べられ、「つまり」と言い直され、そのあとで「手柄」と言い直される。その単純さ、単純な反復がなじんでくる。
これは「芸能」の世界でもある。「芝居」は何度も何度も同じものが上演される。そしてそれはいつ見ても同じであるからいい。毎回見るたびにストーリーが違っていたら、困ってしまう。ただし、同じストーリーなのだけれど、役者の演じ方で、肉体の刺戟される部分(感情の刺戟される部分)が違っているというのがおもしろい。ひとは「役者」の「肉体」を見るのである。
それと同じように、高橋のこの詩を読むときは、「高橋の肉体(文体)」が読むのであって、ネロの生涯の「新事実」を読むわけではない。「ぼくは……を殺した」と主題をいい、次に「理由は……」と語る。それを「つまり……」と言い直した後、「……は……になった」「その手柄は/ぼくのもの」と語られる。そのときのことばの動き方、動かし方が、高橋なのだ。
このときの「論理」そのものは、高橋が発明したものでもない。すでに「ことばの論理」のなかに組み込まれて存在している。文学の歴史が、そういう「文体」をつくっている。その「定型」を高橋は、間違いなく動かすことができる。余分なものをくわえずに、「定型」だけで動き、なおかつ、その「定型」の完璧さが高橋なのだと印象づける。
私は無知で「文学の定型」(芸能の定型)というものを知らないが、「定型」から高橋の作品を読みおなせば、おもしろいかもしれないと感じた。
高橋睦郎「家族ゲーム」には「または みなごろしのネロ」という副題がついている。そして、次のように始まる。
1
ぼくは 父を殺した
理由は 老いぼれ
大喰らいで 大淫ら
つまり 極悪至極だったから
彼は死んで 神になった
へどろまみれ 淫水まみれの神
彼を神に挙げた手柄は
ぼくのもの
「副題」のあるなしにかかわらず、読んだ瞬間、あ、この詩は全員を殺し、自分をも殺すという形で終わるに違いないと予感させる。さらに詩の形も同じような具合に動いていくだろうと感じさせる。
実際、その予感どおりに動く。
2
ぼくは 弟を殺した
理由は 若さに輝き
しかも無垢で 高貴で
つまり 冒しがたかったため
彼は死んで 星になった
黒雲も 涜(けが)すことのできない星
彼を星に変えた手柄は
ぼくのもの
父親が「淫ら」だったのに対し、弟は「高貴」だった。理由は違うが、父がどんなふうに「淫ら」だったか、弟がどんなふうに「高貴」だったかは書かれていない。読者の想像に任されている。
これは、詩としては「読み足りない」感じを与えるかもしれない。知らないことが書かれていない。予想以外のことが書かれていない。
しかし、私は読んでしまう。
なぜだろう。
ことばというのは、知らない事実を明るみに出すだけのためにあるのではない。知っていることを確認するためにもある。いや、味わうためにある。知っていることを、自分のことばで知っている以上に味わいたいのだ。
こんな例を引き合いに出すと「文学」からかけはなれるかもしれないが……。
たとえば野球。前の日にテレビで見ている。(スタジアムで見ている。)結果は知っている。それでもファンは新聞を読む。知っていることを、何度も確認する。喜びや悔しさを何度でも味わいなおす。ことばは、そんなときも有効に動いている。
そして、こういう場合、そのことばに求められているのは「定型」である。ことばをとおして、自分の気持ちを「定型」にととのえるのである。
詩にもどる。
この詩では父がどんなふうに淫らであったか書かれていない。弟がどんな具合に高貴だったかも書かれていない。ただ「大淫ら」「高貴」としか書かれていない。それは、「大淫ら」「高貴」が自分の(読者の)想像を越えるものだったら困るからだ。読者の関心は殺すという行為よりも、「大淫ら」「高貴」の方へ向かってしまう。自分のできないことをやってしまう人間に対する「嫉妬」から殺した、というような「説明」がつけくわえられたりしたら、これもうんざりしてしまう。
ただ殺すという動詞だけが繰り返され、ととのっていく。「理由」が簡単に述べられ、「つまり」と言い直され、そのあとで「手柄」と言い直される。その単純さ、単純な反復がなじんでくる。
これは「芸能」の世界でもある。「芝居」は何度も何度も同じものが上演される。そしてそれはいつ見ても同じであるからいい。毎回見るたびにストーリーが違っていたら、困ってしまう。ただし、同じストーリーなのだけれど、役者の演じ方で、肉体の刺戟される部分(感情の刺戟される部分)が違っているというのがおもしろい。ひとは「役者」の「肉体」を見るのである。
それと同じように、高橋のこの詩を読むときは、「高橋の肉体(文体)」が読むのであって、ネロの生涯の「新事実」を読むわけではない。「ぼくは……を殺した」と主題をいい、次に「理由は……」と語る。それを「つまり……」と言い直した後、「……は……になった」「その手柄は/ぼくのもの」と語られる。そのときのことばの動き方、動かし方が、高橋なのだ。
このときの「論理」そのものは、高橋が発明したものでもない。すでに「ことばの論理」のなかに組み込まれて存在している。文学の歴史が、そういう「文体」をつくっている。その「定型」を高橋は、間違いなく動かすことができる。余分なものをくわえずに、「定型」だけで動き、なおかつ、その「定型」の完璧さが高橋なのだと印象づける。
私は無知で「文学の定型」(芸能の定型)というものを知らないが、「定型」から高橋の作品を読みおなせば、おもしろいかもしれないと感じた。
続続・高橋睦郎詩集 (現代詩文庫) | |
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