詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

高橋睦郎「家族ゲーム」

2015-06-09 09:18:58 | 詩(雑誌・同人誌)
高橋睦郎「家族ゲーム」(「現代詩手帖」2015年06月号)

 高橋睦郎「家族ゲーム」には「または みなごろしのネロ」という副題がついている。そして、次のように始まる。

 1

ぼくは 父を殺した
理由は 老いぼれ
大喰らいで 大淫ら
つまり 極悪至極だったから
彼は死んで 神になった
へどろまみれ 淫水まみれの神
彼を神に挙げた手柄は
ぼくのもの

 「副題」のあるなしにかかわらず、読んだ瞬間、あ、この詩は全員を殺し、自分をも殺すという形で終わるに違いないと予感させる。さらに詩の形も同じような具合に動いていくだろうと感じさせる。
 実際、その予感どおりに動く。

 2

ぼくは 弟を殺した
理由は 若さに輝き
しかも無垢で 高貴で
つまり 冒しがたかったため
彼は死んで 星になった
黒雲も 涜(けが)すことのできない星
彼を星に変えた手柄は
ぼくのもの

 父親が「淫ら」だったのに対し、弟は「高貴」だった。理由は違うが、父がどんなふうに「淫ら」だったか、弟がどんなふうに「高貴」だったかは書かれていない。読者の想像に任されている。
 これは、詩としては「読み足りない」感じを与えるかもしれない。知らないことが書かれていない。予想以外のことが書かれていない。
 しかし、私は読んでしまう。
 なぜだろう。
 ことばというのは、知らない事実を明るみに出すだけのためにあるのではない。知っていることを確認するためにもある。いや、味わうためにある。知っていることを、自分のことばで知っている以上に味わいたいのだ。
 こんな例を引き合いに出すと「文学」からかけはなれるかもしれないが……。
 たとえば野球。前の日にテレビで見ている。(スタジアムで見ている。)結果は知っている。それでもファンは新聞を読む。知っていることを、何度も確認する。喜びや悔しさを何度でも味わいなおす。ことばは、そんなときも有効に動いている。
 そして、こういう場合、そのことばに求められているのは「定型」である。ことばをとおして、自分の気持ちを「定型」にととのえるのである。
 詩にもどる。
 この詩では父がどんなふうに淫らであったか書かれていない。弟がどんな具合に高貴だったかも書かれていない。ただ「大淫ら」「高貴」としか書かれていない。それは、「大淫ら」「高貴」が自分の(読者の)想像を越えるものだったら困るからだ。読者の関心は殺すという行為よりも、「大淫ら」「高貴」の方へ向かってしまう。自分のできないことをやってしまう人間に対する「嫉妬」から殺した、というような「説明」がつけくわえられたりしたら、これもうんざりしてしまう。
 ただ殺すという動詞だけが繰り返され、ととのっていく。「理由」が簡単に述べられ、「つまり」と言い直され、そのあとで「手柄」と言い直される。その単純さ、単純な反復がなじんでくる。
 これは「芸能」の世界でもある。「芝居」は何度も何度も同じものが上演される。そしてそれはいつ見ても同じであるからいい。毎回見るたびにストーリーが違っていたら、困ってしまう。ただし、同じストーリーなのだけれど、役者の演じ方で、肉体の刺戟される部分(感情の刺戟される部分)が違っているというのがおもしろい。ひとは「役者」の「肉体」を見るのである。
 それと同じように、高橋のこの詩を読むときは、「高橋の肉体(文体)」が読むのであって、ネロの生涯の「新事実」を読むわけではない。「ぼくは……を殺した」と主題をいい、次に「理由は……」と語る。それを「つまり……」と言い直した後、「……は……になった」「その手柄は/ぼくのもの」と語られる。そのときのことばの動き方、動かし方が、高橋なのだ。
 このときの「論理」そのものは、高橋が発明したものでもない。すでに「ことばの論理」のなかに組み込まれて存在している。文学の歴史が、そういう「文体」をつくっている。その「定型」を高橋は、間違いなく動かすことができる。余分なものをくわえずに、「定型」だけで動き、なおかつ、その「定型」の完璧さが高橋なのだと印象づける。

 私は無知で「文学の定型」(芸能の定型)というものを知らないが、「定型」から高橋の作品を読みおなせば、おもしろいかもしれないと感じた。

続続・高橋睦郎詩集 (現代詩文庫)
高橋 睦郎
思潮社
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嵯峨信之を読む(83)

2015-06-09 09:17:03 | 『嵯峨信之全詩集』を読む
嵯峨信之を読む(83)

130 別離--十七世紀の木版画に題して

 「別離」からは「愛の終りの歌」という章になっている。「別離」はタイトルどおり、女と別れる詩である。

女は言葉少なく
--時をのばして
と それだけいつた
氷柱(つらら)を折るような短い言葉づかいはいままでにかつてない

 「時をのばして」は「もう少し待って」くらいの意味なのか。「もう少し待って」の場合だと「主語」は「あなた(嵯峨)」。だが、「時をのばして」はどうだろう。やはり「あなた」なのだろうか。何となく違う印象がある。ひとは「待つ」ことはできる。けれど「時」をのばしてたり縮めたりはできない。その不可能なことを依頼している。「主語」は「あなた(つまり、嵯峨)」を超えている。そこに、何か切実なものがある。
 「短い言葉」と嵯峨は書いているが、その「短さ」のなかには気持ちが凝縮している。「もう少し待って」よりも強い気持ちが凝縮している。「強い」と感じるのは、それが尋常ではない表現だからである。あ、何か特別なことを言おうとして、ことばが結晶してしまった、という感じ。
 この感じを嵯峨は「氷柱を折るような」という「比喩」で言い直している。
 「氷柱」は女の感情が結晶したもののように感じられる。少しずつ固まって大きくなった氷柱。濃い透明な氷。それを力を込めて折る。何を思っているのか、はっきりとはわからない。けれど、強い力がいる。その強さが、「肉体」のなかに直接響いてくる。
 氷柱を折ったときの、肉体のなかで動いた力。折れた氷柱が反射する光の無数。「氷柱」は女の感情の「比喩」なのだが、「女の感情」を超えて、人間すべてのいのちにつながる「結晶」のように感じられる。つまり、自分の「気持ち」でもあるように……。
 「時をのばして」という不思議な、「主語」を超越したことばが、人間の区別を超えて何かに触れている感じがする。

ぼくは冬の薄日のさしている石畳をこつこつと海の方へ歩きながら
(時をのばす 時をのばす)
と 二三度つぶやいてみた

 このとき、もう「時をのばす」は女の気持ちではない。嵯峨の「肉体」のなかで動いていることばである。繰り返しながら、嵯峨は、女の結晶した感情に触れ、その切実さを、氷柱に触るときのような実感として「肉体」で感じている。
 これは嵯峨にとっては「いままでにかつてない」瞬間だ。


嵯峨信之全詩集
クリエーター情報なし
思潮社

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