詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

柿沼徹「初七日」

2015-06-13 09:13:31 | 詩(雑誌・同人誌)
柿沼徹「初七日」(「ici」12、2015年05月15日発行)

 柿沼徹「初七日」は自己(対象)とことばの距離がおもしろい。

はじめのうちは
にぶい痛みだった

 この書き出しは何のことがわからない。主語がない。「にぶい痛み」を主語と考えることもできるが、どこが痛いのかわからない。「私」の「どこ」が痛いのか。それを書かないのは、そのことが「私(柿沼)」にとって自明のことだからである。
 自明のことは書かない。そのときの「自明」こそが、私は「思想(肉体)」であると考えている。ひとは誰でも他人の「思想(肉体)」はわからないが、自分の「思想(肉体)」はわかりすぎていて、ことばにできない。ことばにする必然性を感じない。
 この「必然」の感覚を、どこまで「ことば」のなかに維持できるか。

小雨のなか
四、五人の他人が連れ添うような
アジサイが咲いていた

そのなかに
ひとつ底意地が悪いのが
縁側の私を睨んでいる

 二連目の「主語」は文法上は「アジサイ」である。そうすると、直前の「他人」は比喩なのか。違うなあ。まず「私は」「他人が連れ添うよう」に集まっている、歩いているのを見たのだ。その集まり方が「アジサイ」のようだったのだ。「他人」が一連目の「痛み」のように、「私」の「肉体」と出会っている。それは言う必要がない。いや、わかりすぎていて、言えない。言えないから「アジサイが咲いていた」という「情景」で代弁してしまう。「アジサイ」の方が比喩なのだ。
 だから三連目の「睨んでいる」は「アジサイ」ではなく、「他人」が「睨んでいる」のである。「他人」のなかの「ひとり(つ)」は「底意地が悪い」。というのは、もちろん「私」の主観であって、客観的事実ではない。
 「主観」は「痛み」のように「実感」である。「実感」であるから、説明できない。「私」にはわかっているが、「他人」にはわからないかもしれない。けれど、そういうことは「私」にわかってさえいればいいことである。「他人」を指差して「あのひとは底意地が悪い、私を睨んでいる」とことばに出してしまえば、きっといざこざがおきる。だまって、「実感」を「主観」にとどめておく。
 この「主観」にとどめておくときの「滞留/停留感」が、四連目でつぎのように変わっていく。

そのころになると
扁桃腺が熱気をはらんで
膨らんでいくのがわかった
靴紐を結ぶことができなくなった

 ここまで読んで「痛み」が扁桃腺の痛みだったこと、風邪の引きはじめだったことがわかる。「私」にはわかっているから「扁桃腺」と書かなかった。けれど、いまは書いている。もう「主観」にとどめておくわけにはいかないのだ。いままでは「私」が「主語」だったが、いまは「扁桃腺」が「主語」になって「私」を動かしている。この「主語/主役」の交代を「膨らんでいく」という肉体の動きでとらえているのが、とてもおもしろい。
 「膨らんで」、その結果として「私」をのみこんでしまった。扁桃腺は肉体の一部であるが、いまは扁桃腺が「主役」で肉体のすべてを支配している。
 熱が出て、関節が痛み、靴紐を結ぶこともできない。
 「主語」は「私」ではなく、たとえば「他人」、そして「扁桃腺」。それが「私」を動かしている--という一定の関係(「私」とは一定の距離をたもって離れている感じ)でことばが動いている。
 この「一定の関係」が最後までつづく。

そんなことがあって、別の日
叔母から葉書が届いた
一行目、時候の挨拶が
のんきに吊り下がっている

梅雨があけても
扁桃腺の痛みは
焼け残った

 叔母からの葉書というのは会葬への御礼の葉書かなにかだろう。主題よりも「一行目、時候の挨拶」の方が目に止まってしまうのは、葬儀に参列したことは「私」には自明のことであり、またそこに書かれているのが「会葬への御礼」であることが自明だからだろう。
 実際にあったことから離れてみると、「自明のこと」はどうでもいい。わかりすぎている。「自明」ではないことがふいにあらわれて、「私」の「自明」を揺さぶるのである。揺さぶられて、「扁桃腺の痛み」に少しだけもどっていく。
 終わり方も自然でいいなあ。

 小説の技法のひとつは、対象との距離を一定にたもって世界を描写することにある。詩は、むしろ逆で、対象との距離を瞬間瞬間にねじまげる。そういう意味では、この詩は小説の技巧で書かれた詩なのだが、こんなふうにきちんとした技巧でことばを動かす作品は珍しいので、とても印象に残る。

もんしろちょうの道順
柿沼 徹
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*

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嵯峨信之を読む(87)

2015-06-13 09:11:01 | 『嵯峨信之全詩集』を読む
嵯峨信之を読む(87)

134雄鶏

 女と別れたあとの自分の姿を雄鶏に託している。

ぼくは白い雄鶏がひろげる
太陽にかがやいている羽根をみつめる
あのみずみずしく逞しい六月鶏を

 「白い」「かがやいている」「みずみずしい」という形容詞には嵯峨の願いがこめられている。女と別れたことは「こころ」に影響してきている。この三行の前に「あれから幾日たつたろう/あの契約がきれた日から女はやつてこない」という行があるのだが、その「契約」ということばの冷たさ、人間関係とは無縁の美しさ、健康さが雄鶏の描写にある。「こころ」が一種の倦怠のなかにあるからこそ、「肉体」だけでも健康でありたいと願っているのだと思う。
 「そして砂上には鶏のあし跡ばかりが点々と/ぼくのけがれのようを洗う呪文のようにつづいている」という行の「けがれ」は、女との契約の日々を嵯峨は不健康なものとみていたということを示している。この不健康は「肉体」にとってというより「こころ」にとっての不健康だろうけれど、それを「肉体」の力で回復したいのだ。
 だから、詩の最後は次のようになる。

ぼくはなにもかも忘れて眠りたい
眠りの外にあるぼくの肉体を
たれかが来て遠くへ運び去るまで

 眠って何もかも忘れる。それは「ぼくのこころ(精神)」が何もかもを忘れるのである。そうやって浄化された「肉体」が「眠りの外」にある。その力を回復したい。
 「たれかが来て遠くへ運び去る」とは、「ぼく」がその誰かとともに「いま/ここ」にある不健康を捨てて、健康のなかへ甦るということだろう。
 「こころを」ではなく「肉体を」と書いているところに、「こころ(精神)」の傷の深みがうかがえる。

嵯峨信之全詩集
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