嵯峨信之を読む(93)
144 擬盲人
嵯峨は破壊とか否定、あるいは負の要素をそのまま受けいれない。破壊、否定、負を押し進め、「いま/ここ」をまったく異質なものにするということばの運動を、いつも回避する。
そういう視点からみると、この作品は「野にかかる虹」の「ことばの動き」を引き継いでいる。
盲目になると何も見えなくなる。しかし人間の肉体は、そういう負の要素を一瞬のうちに逆転させる。見えなくなった分だけほかの感覚が目覚める。聴覚が鋭く反応する。触覚が敏感になる。そういうことはたしかにあるだろう。
盲目になると「視覚の領域」は狭くなる。しかし「聴覚の領域」は広くなるということがおきる。
ただし、嵯峨は、私が想像したような具合に「領域」を広げてはゆかない。
「重い」ということばに「視覚」以外の感覚が動いているが、嵯峨の動かしているはもっぱら「想像力の視覚」である。「盲目」になったら、想像力の視力で世界を視覚化するのである。現実の眼ではなく、想像力の眼。「頭のなか」に眼に見えるように「視覚の世界」をつくりだす。「帆船」「遠い海上」を嵯峨は想像力の視覚でとらえている。
この作品を読むと、嵯峨は、視覚優先の詩人だということがわかる。
144 擬盲人
嵯峨は破壊とか否定、あるいは負の要素をそのまま受けいれない。破壊、否定、負を押し進め、「いま/ここ」をまったく異質なものにするということばの運動を、いつも回避する。
そういう視点からみると、この作品は「野にかかる虹」の「ことばの動き」を引き継いでいる。
ぼくは盲目につよく憧れる
なにもかも見えなくなると他の領域がひろがってくるだろう
盲目になると何も見えなくなる。しかし人間の肉体は、そういう負の要素を一瞬のうちに逆転させる。見えなくなった分だけほかの感覚が目覚める。聴覚が鋭く反応する。触覚が敏感になる。そういうことはたしかにあるだろう。
盲目になると「視覚の領域」は狭くなる。しかし「聴覚の領域」は広くなるということがおきる。
ただし、嵯峨は、私が想像したような具合に「領域」を広げてはゆかない。
水平線がいつもぼくの頭のなかにあるようにしよう
一列にならんだ帆船が遠い海上をぼくの心のなかへ帰つてくるようにしよう
そしてぼくの不在の港の方へ向つて
ぼくはぼくの暗い内側からその重い窓かけをひらくだろう
「重い」ということばに「視覚」以外の感覚が動いているが、嵯峨の動かしているはもっぱら「想像力の視覚」である。「盲目」になったら、想像力の視力で世界を視覚化するのである。現実の眼ではなく、想像力の眼。「頭のなか」に眼に見えるように「視覚の世界」をつくりだす。「帆船」「遠い海上」を嵯峨は想像力の視覚でとらえている。
この作品を読むと、嵯峨は、視覚優先の詩人だということがわかる。
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