詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

水田宗子『東京のサバス』

2015-06-29 10:14:40 | 詩集
水田宗子『東京のサバス』(思潮社、2015年04月20日発行)

 水田宗子『東京のサバス』は、巻頭に興味深い三行が横書きで書かれている。正確にいうと、フランス語(たぶん)の三行と日本語の三行なのだが。

今日おばあちゃんが死んだ
いや明日かも知れない
東京は一日早いのだから

 「時間」の問題がさりげなく書かれている。「時間」には絶対的な時間と、方便のための時間がある。「一日(日付)」の区切りは方便の方である。そしてひとはときとして方便に振り回されて絶対的なものを見失う。おばあぁちゃんの死んだ時間は「ひとつ」である。「絶対的」なものである。けれど、それが「何日、何時何分」と書こうとすると、フランスと東京では違ってくる。フランスにはフランスの「暮らしの時間」があり、東京には東京の「暮らしの時間」がある。そしてそこには「時差」というものがある。フランスの「今日」は、東京の「明日」であるという「方便」の混乱が、そこから生まれてくる。
 詩集は、この「絶対的時間」と「方便の時間(暮らしの時間)」をぶつけ合わせながら、人間はどっちの時間も生きている、と書いている。

ああ もう二〇〇〇年も経った
東へ会いにいってから
遠くのあの日
香油を捧げにいった
<まだいらないよ
二〇〇〇年経ったら
帰ってきておくれ
その時は
話を聞いてあげてもいいさ>

 繰り返し出てくる「二〇〇〇年」ということば。そして、そのことばといっしょにある「経つ」という動詞。「もう二〇〇〇年も経った」は過去から現在への時間の「幅」、「二〇〇〇年経ったら」は現在から未来への時間の「幅」。それがここでは「ひとつ」になっている。あわせて四〇〇〇年の時間の「幅」のなかに、おばあちゃん(?)は永遠を見ている。「永遠」というのは、いわば「絶対的な時間」。そのなかで、人間は同じことを繰り返して暮らしている。その「同じこと」「繰り返し」がまた「永遠」である。「絶対的時間のなかの永遠」と「暮らし/方便の区切りをもつ時間のなかの永遠」が重なり、「ひとつ」になる。「方便の時間」は、そうやって「方便」を超える。おばあちゃんは、それを「肉体」で「体現」している。
 これが、さまざまな形で繰り返される。

やっぱりお前さんが一番先
ずっと歩いてきたのだろう
あれからずっと
いつも現在

 「時間」には「現在」しかない。「これまでの二〇〇〇年」も「これからの二〇〇〇年」も生きている人間にとっては「絶対的」ではない。「いま(現在)」しか存在しない。生きるとき「絶対」と「方便」が逆転する。「二〇〇〇年」の方が「方便」になってしまう。そんな「時間」を実際に体験することのできるひとはいない。「頭」で考えただけの「時間」である。

人生のことは何も知らない
ましてや生き方など
知っているのは
自分自身のことだけだ
雨でびしょ濡れになっても
日照りに晒されても
すぐに元にもどる

 この「元」とは「二〇〇〇年」と「いま(現在)」に共通する「永遠」のことである。「二〇〇〇年」のどの部分を取り出してみても、そこに存在する「生きる」ことの「原型」のようなものである。
 だから、水田は次のように言い換えている。

風も通過するだけ
痛みも
すっと通り抜けていく
一瞬の後は
すべてが昔話

 「昔」ということばが出てくるのは、それが「二〇〇〇年」の過去のなかに何度も何度も繰り返されたからである。

時に藻に漂っても
迷ったことも
変化したこともない
すべてを吸い込む海綿
不純物を絞り出せば
また元のオリジナル

 「変化」は表面的な「方便」。ほんとうは「変化したこともない」。「元のオリジナル」は「元」ということばを説明して「オリジナル」と言い直したものである。
 人間には「元」がある。「オリジナル」がある。「生きる」その力は、一人一人がもっていて、それは変わらない。ひとりのなかでもかわらないが、それぞれのひとりもかわらない。

生きるも死ぬも一瞬
その向こうに
宇宙があるなんて思い過ごし

 この「宇宙」は「二〇〇〇年」のことでもある。そんなものがあるというのは「思い過ごし」。「方便」がつくりあげた、嘘。あるのは、ただ「現在(いま)」だけであり、その「現在」というのは、

混ぜこぜの生と死

 ということになる。「暮らし」のなかで「生きて/死んでいく」。

一瞬の大騒ぎと
知らぬ間の退場
ただの闇
ただの幕間
数億年の幕間
宇宙劇場のフィナーレは
詩人の仮説
一世一代の法螺話
「なにも無い(アニアーラ)」話

 私が「方便」と書いてきたものを、水田は「仮説」「法螺話」と呼んでいる。「宇宙」も「二〇〇〇年(の歴史)」も「二〇〇〇年」という時間も「絶対的」のように見えて、実は「仮説/法螺話/方便」。実際に誰かが確認したわけではない。
 でもね、その「時間」のなかでひとは生きている。生きてきた。だから、

姿が見えなくても
帰って来なくたった
そこにいるのはわかっているよ

 あ、ここが美しい。
 いつでもひとはそこにいる。愛している孫(?/水田?)はいつでもおばあちゃんといっしょにいる。おばあちゃんは時と場所を超えて、水田を思い出す。思い出すとき、必ず、そこにあらわれる。
 ここに、「二〇〇〇年」の時間でも、「暮らし」の時間でもない、もうひとつの不思議な時間がある。「現在(いま)」を中心にして、すべての「時間」を流動的に解体し、新しく動かしていく「時間」がある。
 そこには「書く」という行為も含まれている。
 ことばにして、何かを動かしなおす。ととのえなおす。そのなかから生まれてくる「時間」というものがあり、それが「永遠」というものを「いま」へと呼び寄せるのだろう。おばあちゃんが水田を思い出すとき、そこに水田がいなくても、そこにいる、というように……。
 私は水田のことを知らないので、これから引用する部分は水田のことであるかどうかは確信があるわけではない。また、これから引用する部分が「おばあちゃん」の思い出していることであるかどうかも確信があるわけではないが、おばあちゃんが水田のことを思って、それをことばにしているのだと思って読んだ。そのことばといっしょに「そこにいる」水田の姿が美しい。こんなふうに「わかっているよ」と言ってもらえるのは幸福なことだ。

最初で最後の
便り
無理なことばかり言って
あれは怒りの子
何でも浮かせてしまう塩の海に
埋められているのは何か
底に沈んでいるものは
陽が照れば閃光が走り
真昼の白の破裂
曇ればあくまでも灰色
メランコリーが
あんなに深く沈むなんて
塩も役に立たず
皆殺しも
効果なし
青が透けることはない
素顔の海
沈められているのは
超重力の怒り
いつも怒っていたのだ
何も言わないことを
誰も怒らないことを

 この「わかっている」は、水田とおばあちゃんの関係であるが、同時に、これまで人間が歴史(二〇〇〇年)のなかで繰り返されてきておばあちゃんと孫との関係なのだ。いつでも誰かわかってくれるひとがいる。それがひとの生きている時間なのだと思う。

東京のサバス
水田宗子
思潮社
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする