詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

嵯峨信之を読む(91)

2015-06-17 06:13:42 | 『嵯峨信之全詩集』を読む
嵯峨信之を読む(91)

141 死者頌

 古戦場がいまは田んぼになっている。その実りを見ながら、戦いで死んでいった武士を忍んでいる。死によってひとは偉大になる。

そして豊熟した稲田によつてお前の屍は飾られ
夜は星のひかりで
お前の名は暗い野川にふかく記される

 天(星)と地(川)を結ぶときにできる「広がり」はその「広がり」をこえて「宇宙」になる。「瞬間」は「歴史」と結びつき「永遠」になる。そういう祈りのようなものを感じる。
 ただし、前半に出てくる「雷撃は一インチのくるいもなくお前の頭上に打ちおろされたのだ」の「一インチ」が日本の風景(稲田)にそぐわない。武士を忍ぶという精神の運動が「インチ」によって「空想」になってしまったという印象が残る。

142 暁

昨日一羽の大きな鳥がすべるように越えていつた
だれもその鳥について知つていない
わたしはその鳥の行方をいつまでも眼で追つた
わたしが最後に見たその自由をただの鳥だというものがあろうか
鳥ははや鳥の上を越えて遠くへ消えていつた

 丘を越えて飛んでいく鳥。それを「自由」だと呼ぶのではない。丘を越えて飛んでいく「精神(魂)」を自由と呼び、また「鳥」という比喩で呼ぶ。
 比喩とは何かを別の何かで言い直すことだけではない。言い直すとき、その二つは交錯し、入れ代わる。
 「わたしが最後に見た……」は、そういう詩の特徴をあらわした一行である。
 このあと、作品は、鳥が帰って来ることを想像する。「血の地平線」ということばも出てくる。これはしかし、詩情を壊していると思う。「死者頌」の「一インチ」と同じように、「現実」を「空想」にしてしまっている。

嵯峨信之全詩集
クリエーター情報なし
思潮社

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする