嵯峨信之を読む(79)
126 深夜
客が帰った後の家について書いている。「シヤンデリア」が出てくるので洋風の家になるだろうか。嵯峨の現実の体験というよりも、空想がまじっている。しかし、空想にも真実はある。
「偉大なもの」は徐々に大きくなり、「広間」の大きさを満たし、さらには「家」の大きさを満たす。けれど、それは「家」の大きさは超えないだろう。外には雨が降っていて、その雨が触れている「家」の輪郭までが「魂」なのだと思う。
その「大きさ」になることで、「魂」は「雨」そのものにもなる。「触れる」ことで、「魂(家)」と「雨(宇宙)」が互いを理解する。その「理解」が「眼ざめる」ということなのだ。
この感じは、「足音」が消えた「広間」の静けさが、そのまま「魂」の静けさとなるのに似ている。触れあうことで、ひとつになる。
途中に出てくる「すると」ということばが、とてもおもしろいと思う。
「すると……になる」。そこには「論理」が隠されている。「家」が「魂」になるというのは、一種の「比喩」だが、その「比喩」が「すると」という論理を促すことばといっしょに動いているので、「空想」が「事実」のように感じられる。
嵯峨は、こういう「論理」を促すことばを巧みに取り入れることで「空想」を「抒情」に結晶させていく。「空想」に明確な輪郭を与え、時者を安心させる。
126 深夜
客が帰った後の家について書いている。「シヤンデリア」が出てくるので洋風の家になるだろうか。嵯峨の現実の体験というよりも、空想がまじっている。しかし、空想にも真実はある。
いま誰かの足音が二階へ消えていつた
広間にはなにか偉大なものがいる
「誰かが消えていく」のではなく「誰かの足音」が「消えていつた」。「足音」ということばのために、「広間」が静かになり、その静かさと「偉大なもの」が拮抗する。
「偉大なもの」は次のように言い直される。
雨が振りだした
すると家そのものがひとつの大きな魂になる
そしてその魂が明けがたまでひとり眼ざめている
「偉大なもの」は徐々に大きくなり、「広間」の大きさを満たし、さらには「家」の大きさを満たす。けれど、それは「家」の大きさは超えないだろう。外には雨が降っていて、その雨が触れている「家」の輪郭までが「魂」なのだと思う。
その「大きさ」になることで、「魂」は「雨」そのものにもなる。「触れる」ことで、「魂(家)」と「雨(宇宙)」が互いを理解する。その「理解」が「眼ざめる」ということなのだ。
この感じは、「足音」が消えた「広間」の静けさが、そのまま「魂」の静けさとなるのに似ている。触れあうことで、ひとつになる。
途中に出てくる「すると」ということばが、とてもおもしろいと思う。
「すると……になる」。そこには「論理」が隠されている。「家」が「魂」になるというのは、一種の「比喩」だが、その「比喩」が「すると」という論理を促すことばといっしょに動いているので、「空想」が「事実」のように感じられる。
嵯峨は、こういう「論理」を促すことばを巧みに取り入れることで「空想」を「抒情」に結晶させていく。「空想」に明確な輪郭を与え、時者を安心させる。
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