嵯峨信之を読む(97)
149 盲目の鳥
この詩は、張り詰めている。ことばにゆるみがない。前半の五行。
何人もが住んでいる建物。いくつかある部屋。それぞれに住人がいて、その誰かが部屋を出て行く。そういう状況だが、その建物は嵯峨自身かもしれない。ひとのこころにはいくつのも部屋がある。そのなかに住んでいるひとりの嵯峨が部屋を出て行く。そんなふうに読むことができる。なぜ、そんなふうに読んでしまうかと言えば、
この想像が「親身」だからである。自分のなじんでいる部屋を思わせる。そこになじみがないなら、「何ものにもみだされぬ空気」を思ったりしないだろう。「彼」が出て行くまで、その部屋は彼の思いで乱れていた。空気の乱れのない部屋。その静かさを、こころの平安を嵯峨は願っていたのか。
しかし、そんな単純なことでもない。苦悩していた「彼」がいなくなれば部屋は静かになるか。静かかもしれないが、さびしいかもしれない。
詩は、後半、まったく違った風に展開する。
この鳥は、部屋を出ていった「彼」に見える。高い塔は孤高の嵯峨の姿かもしれない。出ていった「彼」は、その高い塔を目指していたのかもしれない。
そう考えたとき、おもしろいのは三行目。
「飛んでいる」でも「飛んでいく」でもなく、「飛んでくる」。視線が「塔」の方から鳥を見ている。塔を見ている嵯峨は消えて、嵯峨は塔になって、鳥を見ている。
なにかを求めて出ていった「彼」、その「彼」が鳥になって、しかも盲目の鳥になって、ふたたび帰ってくる。「彼」が出ていったときよりもさらに高く、「孤高」を強めた嵯峨の「存在」へ。
自分のなかにいる「他者」を描きながら、それが「自我」になって帰ってくる。主客がするりと入れ代わる。この微妙な変化がことば全体を支配し、緊張を高めている。
149 盲目の鳥
この詩は、張り詰めている。ことばにゆるみがない。前半の五行。
ふとぼくは何かもの音を聞く
どこかの部屋で固く錠をおろしている音が聞える
たれかがいまそこから出て行つたのだ
麓の遠いかなしい山脈にむかつて
そしてふたたび何ものにもみだされぬ空気がその部屋に充ちてくるだろう
何人もが住んでいる建物。いくつかある部屋。それぞれに住人がいて、その誰かが部屋を出て行く。そういう状況だが、その建物は嵯峨自身かもしれない。ひとのこころにはいくつのも部屋がある。そのなかに住んでいるひとりの嵯峨が部屋を出て行く。そんなふうに読むことができる。なぜ、そんなふうに読んでしまうかと言えば、
そしてふたたび何ものにもみだされぬ空気がその部屋に充ちてくるだろう
この想像が「親身」だからである。自分のなじんでいる部屋を思わせる。そこになじみがないなら、「何ものにもみだされぬ空気」を思ったりしないだろう。「彼」が出て行くまで、その部屋は彼の思いで乱れていた。空気の乱れのない部屋。その静かさを、こころの平安を嵯峨は願っていたのか。
しかし、そんな単純なことでもない。苦悩していた「彼」がいなくなれば部屋は静かになるか。静かかもしれないが、さびしいかもしれない。
詩は、後半、まったく違った風に展開する。
閉されている窓が高い塔の上に見える
真暗な夜空のなかに聳えている白い塔
その塔にむかつて一羽の大きな鳥が地上すれすれに飛んでくる
疲れきつている鳥のかすかな飛翔の音がきこえる
なにかを求めて喘いでいる盲目の鳥の飛翔が
この鳥は、部屋を出ていった「彼」に見える。高い塔は孤高の嵯峨の姿かもしれない。出ていった「彼」は、その高い塔を目指していたのかもしれない。
そう考えたとき、おもしろいのは三行目。
その塔にむかつて一羽の大きな鳥が地上すれすれに飛んでくる
「飛んでいる」でも「飛んでいく」でもなく、「飛んでくる」。視線が「塔」の方から鳥を見ている。塔を見ている嵯峨は消えて、嵯峨は塔になって、鳥を見ている。
なにかを求めて出ていった「彼」、その「彼」が鳥になって、しかも盲目の鳥になって、ふたたび帰ってくる。「彼」が出ていったときよりもさらに高く、「孤高」を強めた嵯峨の「存在」へ。
自分のなかにいる「他者」を描きながら、それが「自我」になって帰ってくる。主客がするりと入れ代わる。この微妙な変化がことば全体を支配し、緊張を高めている。
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