詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

麻生有里「無音の揺りかご」

2015-06-11 09:46:32 | 詩(雑誌・同人誌)
麻生有里「無音の揺りかご」(「現代詩手帖」2015年06月号)

 「現代詩手帖新人作品/6月の作品」の、文月悠光の選んだ作品がいずれもおもしろかった。みずみずしい感覚の選を待っていたかのように、ことばが動いている。そうか、新しい詩は、新しい選者、新しい読まれ方を待っていたのか、と考えさせられた。
 そのうちから一篇、麻生有里「無音の揺りかご」。文月が新しい感覚で見つけ出したことばを、私のような古い人間が読むと、新しいものを古いものにしてしまうかもしれないが……。

屋根の近くをコウモリが飛び始めるころ
夜の 子がうまれる
わたしと夜とのあいだの 子が
部屋の真ん中に置かれた揺りかごに
かたちのない 子が眠っている
わたしは肉体を諦めることなく
弛めた手足を取り戻していく

 「夜の子がうまれる」ではなく、「夜の」でいったん切断されて「子がうまれる」とつづく。その「空白」の切断のなかに「肉体」が入り込んでくる。「空白の切断」と書いたが「空白の接続」かもしれない。
 「うまれる」ということは「うむ」主体があってのことなのだが、それは「夜」なのか「わたし」なのか。「夜の肉体」がうんだのか、「わたしの肉体」がうんだのか。筆者の「麻生有里」は女性だろう。女性だと思うと、無意識に「わたし(麻生)」が「夜」とセックスをして、その「子(夜の子)」をうんだと読みそうになるが、これは私が男で、古い人間だからである。
 麻生はあくまで「うまれる」と書いている。「うむ」ということばを遠ざけて「うまれた」子をみつめている。「うまれた」けれど、まだ「かたち」が「ない」。その「ない」ものに向けて、その「子」が「肉体」をもつために、何ができるかをみつめている。
 あ、「うむ」とは、若い女性は、こんなふうにみつめているのか。抽象からはじめて、それを具体化していく、抽象を肉体化していくことが、「うむ」なのか。自分の「肉体」の一部を「分離」するというのではなく、自分の「おぼえていること」で「抽象」を具体化していくと、そこに「子」という存在が「うまれる」と感じているのか。「うまれる」子を「具体化」することで、麻生は自分の失われた「肉体」を取り戻そうとしているのか。「肉体」がおぼえている「肉体」をもう一度取り戻すということが「うむ/うまれる」というこことなのか。
 私は子どもを産んだことはもちろん、ない。したがって「生む(産む)」ということを「観念」でしかみつめてこなかった。そのため、ここに書かれている「うまれる(うむ)」ということばと「肉体」ということばの関係にびっくりしてしまったのだろうか。
 文月の「選」のことばを引用する。

 麻生有里「無音の揺りかご」は、子を介した身体の獲得が描かれている。対象と少し距離を取った五連目の詩句が良かった。<短針と長針/子の周辺には/そういうものを置いていたい/治りかけたラジオや/泣きかけの受話器や/回りかけているレコードや/そういうものを置いてあげたい>

 こういう選を読むと、私は麻生のことを忘れて、文月は「短針・長針/ラジオ/受話器/レコード(プレーヤー、かな)」のような「機械」に属するものに憧れていたのかと思う。「少年」の「好み」に憧れていたのか、と余分なことを感じてしまう。自分にない「少年」の「肉体(思想/世界のつかみ方)」というものに、憧れのようなものを感じていたのかと思ってしまう。また、その「もの」の存在が「……かけ(て)」という途中であることに、「肉体」の「本質」を感じていたのかとも思ってしまう。
 これはもちろん麻生の「肉体」感覚でもあって、それに文月が共鳴しているということなのだろうけれど。
 麻生と文月は幸福な「出会い」をしている、とも思った。少なくとも、朝吹亮二だけの選では麻生の作品は活字になることはなかった。

 脱線したが……。

 私は文月が「良かった」といっている後の部分の方が好きである。文月が取り上げている部分は、男の私の、因習的な感覚からすると少年ぽい。そこには「肉体」というよりも「好奇心」のようなもの、「精神」のようなものが主導的に動いている。「肉体」が欠けている。「機械」は少年にとって精神運動が獲得した自由な肉体である。自分の肉体を超越した特権的な肉体であり、そこでは精神が肉体を離れて自由に動き回る。少女にとっては、その「異質な肉体」への飛躍(飛翔)がまぶしく感じられるということだろうか。そういう「特権的肉体」をもってみたいと憧れるということだろうか。--という感想も、また因習的かもししれないが……。
 私は、6連目からの方がおもしろかった。

夜は半透明で
子はもっと半透明なので
わたしはどうしようもなく
ただ肉体であるようにふるまう
雑誌にそう書いてあった
確か 肉体の彩度についても
かたちは多分要らないのだ
肢体の輪郭も中身も
半分はわたしたちをすり抜けて
夜がそれを大事そうにしまってくれる

 「半透明」に対して「透明」とは何か。きっと「短針と長針」、さらには「ラジオ」「受話器」「レコード(プレーヤー)」などの「肉体」から離れた「物質(と、それが動く構造)」が「透明」なのである。
 一方、人間の「肉体」は「不透明」。
 「子」は、「透明」と「不透明」のあいだに「うまれる」ので「半透明」。とはいっても、それは「わたしの肉体」が「不透明」であり、「夜の肉体」が「透明」というのとも少し違うだろうと思う。「わたしの肉体とその肉体がおぼえているもの」、「夜の肉体と夜の肉体とわたしが考えているもの」と「不透明」と「透明」を併せ持っている。それが複雑に結合して「半透明」の存在として「子」が「うまれる」。
 「半透明」の「半」は、「半分はわたしをすり抜けて」の「半分」になって言い直されているのを読むと、そう感じてしまう。
 途中に出てくる「ふるまう」という動詞。ここに私は「女性」を強く感じてしまう。「ふるまう」は私の感覚の意見では「半透明」。「少年」は「ふるまう」ということはできない。「少年」は「ふりをする」。「ふり」を意識し、嘘(虚構)をつくりあげるが、「少女」はやっていることの「半分」を信じながら肉体と嘘を融合させる。それが嘘であっても、そこで動いている「肉体」はほんもの、という感じ。
 ここには、私のように古い人間がもっている「因習的な感覚」を揺さぶってくる新鮮で輝かしく、また生々しい「肉体」が描かれているだ。

夜が終われば
次の闇を待てばいい
夜は子に無数のかげをあたえて佇む
しまいには きっと
肢体に整っていくに違いないことを
密かに気づきながら
今はただ無音のままに
わたしの手足がそのように動くことを
確かめるように子をあやす

 「ふるまう」は、この連では「(肉体が)整っていく」と言い直されているように思える。「ふりをする」では、整っていくのは「嘘という論理」であって「肉体」ではない。そういう違いがある。
 「密かに気づきながら」の「密かに」は「半分」だろう。つまり「半分気づきながら」ということだろう。「半分」気づけば、ひとは自分の「肉体(手足)」を動かすことができる。すべてを理解して「手足」を動かすのではなく、「半分」わかれば「手足」を動かしながら、あとの半分は動いた「肉体」が「肉体」自身の力でつかみとってくるもの、「本能」でつかみとってくるものに、その行方をまかせる。整うにまかせる。これが女性の生き方(思想/肉体)なのだろう。

 マーサ・ナカムラ「石橋」(特に4連目)もおもしろかった。
 文月がこれからどんな作品を取り上げていくのか。文月の選によって、詩の状況がどんなふうに変わっていくのか、「新人作品」を読むのが楽しみだ。

現代詩手帖 2015年 06 月号 [雑誌]
クリエーター情報なし
思潮社
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嵯峨信之を読む(85)

2015-06-11 09:44:29 | 『嵯峨信之全詩集』を読む
嵯峨信之を読む(85)

132 余白のある手紙

 別れたひとの手紙を読んでいる「あなた」。「ぼく」ではなく「あなた」になって書かれた詩。

それを書いたひとのおもかげはもう跡かたもなく消えている
ふたりのあいだには匂うような日があつたのだろう

 「あつたのだろう」は対象を突き放したような感じがする。「ふたり」と客観的に書いていることも、何か冷たい印象を与える。詩というよりも「物語」を読んでいるような感じだ。しかし、

言葉すくなく語られている幸福が
いまあなたの顔をしずかにあげさせる

 この「顔をしずかにあげ」るという具体的な動きが、「物語」を「詩」にかえる。ストーリーではなく、一瞬の時間に視線を引きつける。「あげさせる」ではなく「あげる」だったらもっと感情が濃密になると思うが、「主語」を「あなた」ではなく「幸福」にすることで、感情を抑制している。「あなた」の感情を、それこそ「しずかに」表現している。
 「しずかに」というのは、単に「あなた」の動きではなく、嵯峨が詩を書くときの基本姿勢のようなものかもしれない。
 具体的でありながら、少し離れている感じ。距離をおいて客観的であろうとしている様子は、次の行にもあらわれている。

あなたはもつと空が明るくなればいいとおもつているようだ

 「顔をあげ」るという「肉体」が消え「おもつている」という「こころ」の動きが書かれる。それを「ようだ」としずかに書くのだが、この「ようだ」は不思議だ。単に想像(空想)を書いているのではなく、読者をそういう「想像」へと動かす。「ようだ」と感じたのは嵯峨なのに、詩を読んでいると、その「ようだ」が知らず知らずに自分自身のものになって、私は知らない「あなた」を思い描いてしまう。
 これは、やはりその前の「顔をしずかにあげ」るという肉体の動きが私の肉体に響いてきたためだ。つられて、私は「あなた」のように「顔をあげて」遠い空を見つめ、さらにその「あなた」を想像している嵯峨になってしまう。嵯峨になって「あなた」を思ってしまう。「顔をあげ」るという肉体の動きは、それだけ強い力を持っている。


嵯峨信之全詩集
クリエーター情報なし
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