詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

須藤洋平『真っ赤な傘を突き刺して』

2015-09-01 10:34:36 | 詩集
須藤洋平『真っ赤な傘を突き刺して』(思潮社、2015年07月30日発行)

 須藤洋平『真っ赤な傘を突き刺して』のことばに私はどう向き合うことができるだろうか。何を言うことができるだろうか。長い間自問してきたが、わからない。私は弱い人間なので、おののいてしまう。遠ざかってしまう。

メシを喰らう。
この静かなる海に向かって。
いつかその真黒い穴に
自ら飲み込まれるとしても。

 「ケダモノ」の、この書き出し。たとえば、この「静かなる海」を東日本大震災の津波を引き起こした海と読み直すことができる。多くのひとが飲み込まれた。だから「真黒い穴」と言い直されている。もしかすると「私(須藤)」も飲み込まれたかもしれない。そう思いながら、メシを食っている。そう読んでみる。
 しかし、そういう「意味(ストーリー)」では向き合えないものがある。「ストーリー」だけなら、何度も聞いてきた。しかし、ここには「聞いた」こと以外のものがある。何かわからない。そのわからない何かが、私を怖がらせる。
 たぶん、リズムなのだ。
 「共通語」になっていない、リズムがある。須藤自身の「肉体」のリズムがあって、それが、あまりにも「異質」なのだ。
 どこが「異質」なのか。これが、また、わからない。ただ、私は直感的に「異質」と感じ、おびえてしまう。
 短い一行か。ことばを断ち切ってしまう句点「。」の強さか。

メシを喰らう。
この静かなる海に向かって。

 これは「共通言語(共通文体)=ストーリー(意味)」に言い直せば、

この静かなる海に向かって、
メシを喰らう。

 となる。「倒置法」の語順を入れ換え、「向かって。」の「。」を「、」に変えると、「意味」になる。
 しかし、須藤は、それを「意味」にはしていない。「意味」以前にしている。
 「メシを喰らう。」とまず「肉体」を動かしている。「いのち」に結びつく形で動かしている。ひとはメシを食わないことには生きていけない。「いのち」を守ってゆけない。これは単純なことであるけれど、こういう単純は忘れてしまう。須藤はそれを忘れずに、まずそこから出発する。そこに強さを感じる。「肉体」の強さ、「欲望(本能)」の強さを感じる。「真剣」を感じてしまう。「真剣」にものを食べているひとには何か近付きがたいものがある。そういう「肉体」の存在をはっきりと感じさせるリズムがある。
 それには「倒置法」と「静かなる」という少し「文語風」のことばが影響しているかもしれない。「喰らう」は激しく口語、一種の野卑(野生/本能)を感じさせることばなのに対して「静かなる」は日常語では口にしない、何かあらたまった感じがある。その衝突が「肉体」にエッジ(輪郭)を与える。エッジを強調する。輪郭といっても、「肉体」を保護するための「輪郭」ではなく、「肉体」の表面を剥がしてゆく、「肉体」をむき出しにするような線である。ふつうは見えない線、「肉体」を「風景」のなかからえぐり出すような線である。
 それをさらに「えぐる」のが「この静かなる海」の「この」である。(「この」から書くべきだったのかもしれないが、ことばが書かれている順序どおりには書けない。思いついたところから、少しずつ近づいていくしかない。「怖い」ものに近づくときは、「安心」と思えるところから近づくしかない。私の「本能」が、「ことばの順序」どおりに読むことを妨げる。--脱線した。)
 「この」というとき、須藤は目の前の海を見ている。目の前の海を見ているが、それは目の前にあるのではなく、「あの日」の海である。「あの」海を見ている。「この」海なのに、「この」海ではなく、「あの」海。須藤が「見てきた」海。それは須藤の「肉体」のなかでは接続している。いや「一体」になっている。その強い「一体感」が、私には「断絶」として迫ってくる。
 私は須藤の書いている「この/あの海」を自分の肉体として「体験」していない。傍から「傍観」していた。「すごい。映画よりもすごい。これは現実なのか」と思いながら見ていた。9・11のツインタワーが噴水のように崩れていくのをテレビで見ていたように、そこにあるものを自分の肉体に引きつけられないまま、「映像」として見ていた。
 この違いが、深い深い「断絶」として見えてくる。私の知らない「深淵」が「エッジ」となって須藤の「肉体」をえぐっているのを感じる。
 「この」という指示詞、須藤の「意識/肉体」のなかにあるものが、「静かなる」という「逆説(?)」によって、あの日の「意識」と「肉体」を、「いま/ここ」にあるものとして生み出している。
 その新しく生み出された「意識/肉体」が、次に「その」ということばを引き出す。「その黒い穴」と呼ばれる「海」は「静かなる海」ではない。「いま/ここ」に「現実」には存在していないが、須藤の「意識/肉体」のなかで、「この静かなる海」を揺さぶるものとして、いつも動いている。抑えることのできない「本能」のように、暴れている。
 この感じが、怖い。
 こういうことは、もちろん私の「感覚/直観の意見」であり、「論理的」でも何でもない。
 須藤のことばが、私の「肉体」とは断絶した、須藤の「肉体」と絡み合って動いていると感じること、そしてその「肉体」に「怖さ」を感じることが、「許される」ことなのかどうか、私にはよくわからない。つまり、そういうことを「怖い」と言っていいのかどうか、私にはよくわからない。もう書いてしまったのだが……。
 須藤のことばは、私の知っている「共通語」を叩き壊すように動いている。どのことばも私は知ってはいるが、須藤の「肉体」が掴み取っている「強さ」とは違っている。須藤のことばは一語一語が強靱で、その強靱に触れると、私の知っている「共通語」は叩き壊され、なくなってしまう。だから、どうしても身を引いてしまうのだ。離れようとしてしまう。離れたところから見ていようと思ってしまう。私が叩き壊されてもいい、というところまで、私は覚悟ができていない。

粘る舌が尻の穴まで嬲ってゆく。
歌っては戦慄き、
歌っては戦慄き、
仰向けに虐げられたわれら
張りつめた斜面を転がり続け
肉塊の重さを罵りながらも
その重さを頼りにするしか他なく
今夜もまた懸命に目をつむる。

 眠ろうとして眠れない。それでも「目をつむる」。その「懸命さ」。それは私の「肉体」にはたどれない「真剣さ」である。
 しかし、その前に書かれている、

肉塊の重さを罵りながらも
その重さを頼りにするしか他なく

 この、強靱な「論理思考」というか、「論理」になろうとする(「論理」をつくろうとする)ことばの動きは、「肉体」というよりも「ことばの肉体」に属するので、たどることができる。もちろん、それは私の「誤読」かもしれないが……。
 私は「肉塊の重さ」を「肉体の重さ」と置き換えることで自分の「肉体」と結びつけているので、正確に須藤のことばを受け止めているとはいないのだが、ひとは「肉体がいきていること(いのち)」を嘆くという形で「罵り」ながらも、「いのち(肉体があること)」を頼りにするしかない。その「矛盾」のなかに「いのち」の「重さ」がある。
 そんなふうに読んできて、須藤のことばのなかにある「その」という指示詞に再び気がつく。一連目に「この」「その」があったことを思い出す。
 あ、須藤は、須藤が体験した「肉体」をえぐるように書いているが、その書き方は「肉体」頼みではなく、とても「論理的」なのだ。「意識」は常に「前(すでに書いたこと/体験したこと)」を踏まえ、それを手放さない。「意識」は「連続」している。
 「肉体」というのは「ひとつ」で、何が起きようと「ひとつ」のまま「連続」している。けれど「意識」は「いくつ」にも分裂する。それはいつでも「切断」されてしまう。私の書いているこの文章にしても、いつも「切断/断絶」を含みながら「飛躍」してしまう。「意識」とは「切断」してしまう弱いものなのだ。けれど、須藤はその「切断」を許さない。「接続/連続」を維持しつづける。
 あ、これが、ことばの「エッジ」になっているのだ。「肉体」の「輪郭」をえぐるように、「肉体」の表面を剥がすように動いているのだ。「肉体」をむき出しにさせているのだ。「メシを喰らう。」とか「粘る舌が尻の穴まで嬲ってゆく。」という野性的なことばは「意識的言語」とは遠い感じがするが、そうではなく、すぐに「断絶」してしまう意識を鞭打つ一種のカンフル剤のようなものなのかもしれない。肉体の野生が精神(意識)に野生の力、生々しいエネルギーを与えるのかもしれない。

歌っては戦慄き、
歌っては戦慄き、

 この繰り返しも、ことば自身の動きをととのえ、励ますリズムなのだ。

 私のことばでは須藤のとうてい追いかけることはできない。私の文章は、須藤の詩の魅力を壊してしまうことしかできない。だから、補う形で書くしかないのだが、この詩集は2015年の大傑作。ことばが強靱で、正直だ。

真っ赤な傘突き刺して
須藤洋平
思潮社
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