井本元義『回帰』(梓書院、2015年10月20日発行)
井本元義『回帰』を読みながら、こういう詩集の感想を書くのはむずかしい、と思った。たとえば、「夏の光-堕紅残萼」という作品。
盛り上がる濃い深緑の葉陰に
ちりばめられた若い血のような柘榴の花が
おそるおそる初夏の陽を覗いていたが
次第にまわりを嘲笑しはじめる
深夜 鋭い音を立てて僕の夢を破る
鮮血をほとばしらせて割れて飛び散る果実
怒りか 耐え切れぬ欲情か 憎しみの自死か
夏の最後の光にきらめく宝石は弾丸
いつか海に投げようと持っていた柘榴
僕の机の上でとうとう化石になってしまった
裸電球に照らされてくすんだ美しい色
落葉した枝が冬の月の影に映え
熟さないまま枯れた柘榴がてっぺんに一個
それはあくまで沈黙を守る僕の頭蓋骨か
ことばが互いにしっかり結びつき、引き締まっているように見える。「若いとき」をふりかえり、これからの「いのち」をみつめる姿が「比喩」を的確につかいこなして「正しく」書かれている詩、という具合に読むことができる。
しかし、ここに書かれているのは詩というよりも、井本が詩と思い込んでいることばへの、その「思い込み」である。(思い込み、ということばよりも、「学習」したもの、と言う方が、井元にはふさわしいかもしれない。)
一行目「盛り上がる濃い深緑の葉陰に」は柘榴の木をていねいに描写している。単なる緑の葉ではなく「深緑」、しかも「濃い」、さらにそれは「盛り上がる」勢いを持っている。井本は十分に描写したつもりになっている。その「十分」が、実は、詩ではなく、「詩への思い込み」である。「十分」と書けば「十分」の「意味」を理解してくれると思い込んでいる。たしかに「十分」は「十分」という「意味」を持っているけれど、辞書に書いてあるような「意味」は詩にとって大切なものではない。
意識の過剰は、過剰であるがゆえに詩になるものを含んでいるのだが、それは「意味」ではつたわらない。「並列」の過剰では「過剰」という「概念」しかあふれてこない。あ、井元はこういうことばを知っているのだということしたつたわらない。
二行目「ちりばめられた若い血のような柘榴の花が」も同じである。「血」を「若い」ということばが修飾し、さらにそれを「ちりばめられた」が修飾している。過剰な「意味」。そこには「過剰」という「概念」しか残っていない。
井本が書いているような「たくさん」のことばを、私は瞬時につかみきれない。まあ、詩は瞬時にはあくするものではなくて、ゆっくりと味わうものかもしれないけれど、ゆっくり味わおうとしても、なんだかうるさい。「こっている」ということがわかるだけで、肝心の「緑」と「赤(血の色)」の対比が見えなくなる。
「盛り上がる」と「ちりばめられた」は「対」になっている。「濃い」と「若い」も「対」である。「深緑」と「血(赤)」も「対」である。「葉(陰)」と「花」も「対」である。ここまで「対」を書かれてしまうと、「対」をつくっているという「頭」の方が見えてきて、肝心の「柘榴」が見えなくなる。
「頭」が動きすぎる。きっと、「頭」のいい人なのだろう。「頭」がよすぎて、他人がわかってくれるかどうか心配になり、これでもかこれでもか、と「意味」を書かずにいられない。何だか「頭」がいいということを見せられているだけのような気がしてくる。
おそるおそる初夏の陽を覗いていたが
次第にまわりを嘲笑しはじめる
というのは、「つつましさ」を棄てて、「傲慢(の美しさ)」になる、自分のいのちを謳歌する柘榴の「若さ」を表現しているのだと思うけれど、まあ、つたわらないだろうなあ。
なぜだと思う?
「まわり」と「次第」が、あまりにも抽象的すぎる。「頭」で書きすぎている。「頭」のよさに頼りすぎていて、かんじんの「柘榴」のかわりに、井元の「頭」が見えてしまう。
「柘榴」と「対」になる他の植物(あるいは、昆虫でもいいが)が描かれていない。「まわり」は「概念」であって「実在」になっていない。「次第」も単なる「ことば」。
井本にとって「次第」と言えばそれだけで「次第」という時間が生まれ、「まわり」と言えばそれだけで他の草花や木々が「頭」のなかで広がるのかもしれないが、読者には井本の「頭」のなかが、わからない。井本が「次第」「まわり」ということを考えていることはわかるが、それがどんなものかさっぱりわからない。
二連目は、一連目で描ききれなかった「若さ(傲慢/豪華)」を言い直したもの。「きらめく宝石は弾丸」が、それをあまりにも語りすぎている。こんなにたっぷりと書いているから、詩はたっぷり、充実している(充実させることができた)、とたぶん井本は思うのだろう。
ある「光景(存在)」を日常はつかわないような「豪華」なことばで描く。その「豪華(余剰)」が詩である、と井本は簡単に「頭」で考えてしまっている。「豪華」よりも「充実」が問題なのである。「頭」でかっこいいことばを集めてきても、それは「豪華」に見えるかもしれないけれど、「空疎」である。三連目の「くすんだ美しい色」は井本の「頭」のなかにしか存在しない。井本は「頭の中に存在すれば、それは実在したことになる」と思うのかもしれない。「理論的」には、そうなるかもしれないが、ひととひとは「理論」ではつながっていない。「肉体」とつながっているだけである。井本のことばは、その「肉体」と有機的につながっていない。
もっと「頭のよさ」そのもののなかへ突き進んで行けば違ってくるかもしれない。「冬のパントウム」のように「形式」のある詩の方が、逆に井本のことばを「頭」から解放してくれるかもしれない。「形式」を守ることに「頭」がいっぱいになり、ことばが「頭」をするりとぬけだして暴走するということがあるかもしれない。
それに「形式」というのはすでに井元以前の人間がつくったもので、井元のことばが形式にしたがっているからといって、それは井元の「頭」とは関係がない。井元の「頭のよさ」を気にしなくて読むことができる。妙な安心感がある。「こんな形式を知っている。こういう形式で書くことができる」ということろで「頭」自慢は終わっていて、安心するのである。井元は「形式」に夢中になっている。無邪気でいいなあ、とほほえましくなる。
雨の海 冷たい乳房をぶっきらぼうにつかむ
自由律の俳句のようにおもしろい一行があった。「蜻蛉の羽のようなナイフが僕の皮膚を剥いでいく」、「朝のプールに浮かぶ僕の醜い肉体を白くするし」という、それこそ「醜い」行が同居しているのが気に食わないけれど。もっと「頭」が悩むような「形式」なら、そういう醜いことばもおのずと拾い集めている暇がないかもしれない。