川島洋「配達」、長嶋南子「イヌ」ほか(「きょうは詩人」31、2015年09月15日発行)
川島洋「配達」は、気にかかる詩である。
これは一連目だが、最後の二行がとても印象的だ。同じことをしている人間の「肉体」は同じように動く。「似かよう」。そのとき、ひととひとが挨拶を交わすのではなく、その「肉体」の「息づかい」「急ぎ足」の、その動きが「声を掛け合う」。「肉体」が「肉体」をわかってしまう。「ことば」を必要としていない。「ことば」になる前の何か、というよりも「ことば」を超えてしまっている何かかもしれない。
その前に書かれている新聞配達の「情景」は川島の経験なのか、想像して書いたものなのかはっきりしないが、最後の二行によって「ほんもの」になる。私たちはけっきょく「肉体」を通じて「世界」をつかみとっているのだと思う。「肉体」が動くとき、「世界」が「ほんもの」になる。
そうしたことが書かれたあと、二連目。
川島は「もうひとつの肉体」を感じている、と自分自身のことを書きはじめる。「新聞配達」のように、はっきりした「仕事(肉体の動き)」がわかるわけではないが、「だれか」を感じている。「感じたがっている」といった方がいいかもしれない。
「すれちがわない」「うしろ姿だけ」ということばを手がかりにすれば、その「肉体」はいつも川島の「前」にある。それを川島は追っている、ということになる。
少し意味が強すぎるかもしれない。「理想」とか「希望」というようなことばが、そこに紛れ込んできそうな気がして、これ以上は書きたくない。
前に引き返して、一連目の最後の二行は好きだなあ、ということで、この感想は終わりにしたい。
「猫の島」にも少し似たことが書かれている。
「ことば」を交わさない。「肉体」をそこに存在させるだけで「意思をかよわせる」。このとき「意思」というのは「かよう」ことを通して「似かよう」。「似てくる」。
「似てくる」というのは完全にひとつになるというのとは少しちがう。その少しちがうところが、なんだか気持ちがいい。どんなに「似かよっても」、それはあくまでも「似かよう」。「似た」ところを起点にして、出合い、すれちがう。つまり、「もうひとり(他者)」の存在を「許す」。そういうことがあるのだと思う。
そんなことを思いながら、今度は長嶋南子「イヌ」を読む。
大男は長嶋の詩に何度も出てくる息子(わたしが生んだもの)のことかもしれない。それは小さいときは「イヌ」のようだったのかもしれない。
「いないいない ばあ」の一連目、
これは幼いときの息子でもある。息子は引き戸を何度も開けたり閉めたりして笑っている。「いないいないばあ」をしている。その幼い「肉体」の動きと長嶋の「肉体」は呼応していた。「似ている」わけではないが、その「肉体」の内部で動いているものと「かよいあう」ことができた。
今は「かよいあわず」、かといって「すれ違う」ともちがう。すれ違っても、「似かよった肉体の動き」がない。
うーん、どうする?
ここに「許す」が出てくる。この「許す」は、しかし、川島の書いている「許す」とはちがう。(川島は「許す」と明確に書いているわけではなく、また長嶋もそう書いているわけではなく、これは私の「誤読」なのだが……)。長嶋の「許す」は「受けいれる」。「もうひとり」は「自分の分身」であるという意味では川島の書いている「もうひとり」と通じるものがあるが、長嶋の「もうひとり」はほんとうに「分身」。「肉体」がわかれてしまっている「息子」。「顔」もわかっているし、「うしろ姿」ではなく「正面からの姿」もわかっている。
「イヌ」の最終連。
「許す」(受けいれる)ということは、自分自身を「客観的」に存在させることかもしれない。「客観的」に見つめなおすことかもしれない。
「もうひとり」になってしまって、そこから「ひとり(自分だけれど、自分ではない。つまり主観ではない)」をみつめる。
「やかれる」(やく)という「動詞」が、「肉体」をつないでいる。その「やかれる」は似ているのか、同じなのか。正確に考えようとするとめんどうくさい。答えをだそうとするとめんどうくさい。長嶋は、「笑い」のなかへ、ほうり出している。
「意思」を「かよわせる」かわりに、「肉体」そのものを「つないでいる」。
こんなことを書くと不謹慎と言われるかもしれないが、「やかれた」とき、長嶋の「肉体」は「もうひとりの肉体(息子の肉体)」のなかで完全に「ひとつ」になる。こういう「ひとつ」になる方法を、男は知らない。川島は知らないし、私も知らない。その完全にちがった「肉体」のあり方を、長嶋の詩を読むと感じる。
「もうひとり」について、川島の詩を呼んだとき、そこに「理想」「希望」というようなことばが紛れ込んできそうと書いたが、長嶋の場合は「現実」が紛れ込む。どんなふうに「寓話」を書こうとしても、そこを「現実」が突き破る、ということが起きる。
男と女の「肉体」はちがうんだなあ、とつくづく思う。
川島洋「配達」は、気にかかる詩である。
夜明け前 とある町角で
新聞配達人が
べつの新聞の配達とすれちがう
起きて待ち受けているひとはいないが
家々が目を覚ませば 戸口に
あたりまえのように届いている紙とインク
言葉が黙々と運ばれる未明に
似かよった息づかいと急ぎ足が
すばやい挨拶を交わす
これは一連目だが、最後の二行がとても印象的だ。同じことをしている人間の「肉体」は同じように動く。「似かよう」。そのとき、ひととひとが挨拶を交わすのではなく、その「肉体」の「息づかい」「急ぎ足」の、その動きが「声を掛け合う」。「肉体」が「肉体」をわかってしまう。「ことば」を必要としていない。「ことば」になる前の何か、というよりも「ことば」を超えてしまっている何かかもしれない。
その前に書かれている新聞配達の「情景」は川島の経験なのか、想像して書いたものなのかはっきりしないが、最後の二行によって「ほんもの」になる。私たちはけっきょく「肉体」を通じて「世界」をつかみとっているのだと思う。「肉体」が動くとき、「世界」が「ほんもの」になる。
そうしたことが書かれたあと、二連目。
だが いつももう一人いる
何を配達しているのかわからない
けっしてすれちがわないので
顔もわからない
うしろ姿だけの
配達人が
川島は「もうひとつの肉体」を感じている、と自分自身のことを書きはじめる。「新聞配達」のように、はっきりした「仕事(肉体の動き)」がわかるわけではないが、「だれか」を感じている。「感じたがっている」といった方がいいかもしれない。
「すれちがわない」「うしろ姿だけ」ということばを手がかりにすれば、その「肉体」はいつも川島の「前」にある。それを川島は追っている、ということになる。
少し意味が強すぎるかもしれない。「理想」とか「希望」というようなことばが、そこに紛れ込んできそうな気がして、これ以上は書きたくない。
前に引き返して、一連目の最後の二行は好きだなあ、ということで、この感想は終わりにしたい。
「猫の島」にも少し似たことが書かれている。
島の 車も人も滅多に通らない海ばたの道や
そこいらの石段にねそべり 猫たちは
彼ら独特のやり方で さりげなく
意思をかよわせているのだろう
で 寝てしまう
昼間はものうげに眠ってすごす
それも彼ら独特のやり方で
「ことば」を交わさない。「肉体」をそこに存在させるだけで「意思をかよわせる」。このとき「意思」というのは「かよう」ことを通して「似かよう」。「似てくる」。
「似てくる」というのは完全にひとつになるというのとは少しちがう。その少しちがうところが、なんだか気持ちがいい。どんなに「似かよっても」、それはあくまでも「似かよう」。「似た」ところを起点にして、出合い、すれちがう。つまり、「もうひとり(他者)」の存在を「許す」。そういうことがあるのだと思う。
そんなことを思いながら、今度は長嶋南子「イヌ」を読む。
うす暗くなった帰り道
すれ違ったひげ面の大男がいた
出かけるよ という
一瞬誰のことかと顔を上げる
たしかにこの男を知っている
わたしが生んだもののにおい
夜になるとわたしはイヌになる
しわだらけのイヌになって
手足や胸の内側を
かじっては何度もなく
イヌになることはだれも知らない
朝になるとちゃんと母親に戻っている
ご飯を食べるか 洗濯ものはないか
世話をやくからだになっている
しわだらけになっても
母親でいることはつらいから
昼間もイヌになる
大男は長嶋の詩に何度も出てくる息子(わたしが生んだもの)のことかもしれない。それは小さいときは「イヌ」のようだったのかもしれない。
「いないいない ばあ」の一連目、
ボールを投げる
走っていってくわえてくる
なんどもなんども繰り返す
そんなに楽しいかいチビ
これは幼いときの息子でもある。息子は引き戸を何度も開けたり閉めたりして笑っている。「いないいないばあ」をしている。その幼い「肉体」の動きと長嶋の「肉体」は呼応していた。「似ている」わけではないが、その「肉体」の内部で動いているものと「かよいあう」ことができた。
今は「かよいあわず」、かといって「すれ違う」ともちがう。すれ違っても、「似かよった肉体の動き」がない。
うーん、どうする?
ここに「許す」が出てくる。この「許す」は、しかし、川島の書いている「許す」とはちがう。(川島は「許す」と明確に書いているわけではなく、また長嶋もそう書いているわけではなく、これは私の「誤読」なのだが……)。長嶋の「許す」は「受けいれる」。「もうひとり」は「自分の分身」であるという意味では川島の書いている「もうひとり」と通じるものがあるが、長嶋の「もうひとり」はほんとうに「分身」。「肉体」がわかれてしまっている「息子」。「顔」もわかっているし、「うしろ姿」ではなく「正面からの姿」もわかっている。
「イヌ」の最終連。
ひげ面の大男が呼んでいる
とんでいってしっぽを振る
散歩に連れていって
電信柱についたにおいを思いっきり嗅がせて
ドッグフードは脂肪分の少ないものにね
すっかり世話をやかれるからだになった
もうすぐやかれるからだになる
「許す」(受けいれる)ということは、自分自身を「客観的」に存在させることかもしれない。「客観的」に見つめなおすことかもしれない。
「もうひとり」になってしまって、そこから「ひとり(自分だけれど、自分ではない。つまり主観ではない)」をみつめる。
「やかれる」(やく)という「動詞」が、「肉体」をつないでいる。その「やかれる」は似ているのか、同じなのか。正確に考えようとするとめんどうくさい。答えをだそうとするとめんどうくさい。長嶋は、「笑い」のなかへ、ほうり出している。
「意思」を「かよわせる」かわりに、「肉体」そのものを「つないでいる」。
こんなことを書くと不謹慎と言われるかもしれないが、「やかれた」とき、長嶋の「肉体」は「もうひとりの肉体(息子の肉体)」のなかで完全に「ひとつ」になる。こういう「ひとつ」になる方法を、男は知らない。川島は知らないし、私も知らない。その完全にちがった「肉体」のあり方を、長嶋の詩を読むと感じる。
「もうひとり」について、川島の詩を呼んだとき、そこに「理想」「希望」というようなことばが紛れ込んできそうと書いたが、長嶋の場合は「現実」が紛れ込む。どんなふうに「寓話」を書こうとしても、そこを「現実」が突き破る、ということが起きる。
男と女の「肉体」はちがうんだなあ、とつくづく思う。
詩の所在 (主体・時間・形)-シノショザイ シュタイ・ジカン・カタチ (∞books(ムゲンブックス) - デザインエッグ社) | |
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