詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

南川隆雄『傾ぐ系統樹』

2015-09-27 19:42:19 | 詩集
南川隆雄『傾ぐ系統樹』(思潮社、2015年08月31日発行)

 南川隆雄『傾ぐ系統樹』は戦中・戦後と向き合っている。そこには「時代のことば」と「肉体のことば」が交錯する。私は「肉体のことば」が濃厚にでた作品の方が好きである。「かんづめ」。

いま食べたければ自分で開けるんだね
さらりと叔母がいう

墓の台石に缶をすえて石で焼け釘をうつ
ちいさな穴ひとつ
楕円の棺のしじまがくずれ
 濁世の吐息が入り込む幽かな音
穴むかでは砂にまみれて延びていく

 墓参り。缶詰の供え物。いったん供えたあと、持って帰って食べるのだろう。そのつもりなのだが、叔母が「いま食べたければ自分であけるんだね」という。
 どうやって?
 缶切りがあれば缶切りで、ということになるが、墓場に缶切りなどない。
 南川は、釘を見つけてくる。それから石を。缶の縁に釘をあて、石で叩く。穴ができる。その穴をつないで行って、缶の蓋をあけるのだ。
 したことがあります?
 私は、ある。釘のかわりに、ドライバーをつかったこともある。石のかわりに金槌もつかう。切るとは「線」として切る以外にも方法がある。「点」をつないで行って「線」にしてしまう。時間はかかるが、たしかにそういうことはできるのだ。
 この「点」が「線」になるまでの「時間」。そこで動いている「肉体」というものは、どういうものだろうか。「食べたい」という生の欲望。本能。それが「穴(点)」をつなげば「線」になるという「智恵」となって動く。急ぎたい気持ちと、急げば急ぐほど「点」が乱れるので、もっと正確にと「肉体」を制御する力も動く。
 それを見ている叔母の視線も気になるかもしれない。「供え物さえ食べたいという、この餓鬼め」と思っているかもしれない。「じぶんで開けるんだね」というのは、私は手伝わないよ、ということでもある。
 「濁世の吐息」とは、具体的には何のことか。ことばにするのはむずかしいが、缶詰を釘をつかって開けながら、「肉体」が受け止めるすべてのものだ。そこには自分の欲望と理性さえも絡み合っている。「むかで」のように、ざわざわと動き回っている。

泉下は缶のなか それともそと
釘を梃にわずかなすき間をつくる
ほら覗いてみな こちらの世の変わりようを

 「泉下」のひとは戦争で亡くなっただれか。叔母の夫か。あるいは南川の父か。「ほら覗いてみな」と言ったのは叔母だろう。「こちらの世の変わりようを」を叔母はまざまざと感じている。こどもの南川だって、ほら、自分で缶詰を食べるために智恵を働かしている。欲望を実現するために、こんなことをしている。あさましいのか、頼もしいのか。どうとでも言うことができる。どう言うかは、そのひと次第だ。判断の基準がなくなっている。それくらい「こちらの世の変わりよう」は激しいのだ。
 南川は、その叔母のことばを「理解」しただろうか。「わかった」だろうか。いや、「ほら覗いてみな こちらの世の変わりようを」と言ったのは、そのときの南川自身かもしれない。それは南川の声かもしれない。自分の変化を、そのときの南川はもう自覚していたのかもしれない。
 どちらともいえない。でも、それを「覚えている」。そして「思い出している」。思い出して、書いている。そのことばをつかって、あのときを、いまによみがえらせている。それは、あのとき見たものよりも、もっと生々しい。

ひそと横たわる数匹のいわし
 骨まで軟らかなふしぎな味
ぜんぶ食っちまうよ
血まみれの指で汁もすくって啜る

 いわしの缶詰。その「骨まで軟らかなふしぎな味」。いまのこどもなら、かなり抵抗があるかもしれない。あまり「舌触り(歯触り)」のいいものではないだろう。けれど、あの食料難の時代、それは「骨まで」肉体にしみこんでくる。食べたすべてが肉体になるのが、食べている瞬間からわかる。うまい/まずいを超えた味だ。「骨まで」と思うとき、そこにはなくなった父か、父の兄弟(叔母の夫)の「死」も、とうぜん連想されている。それは「軟らかなふしぎな味」としか言えない。「死」を食べているのだ。だれかの死を食べて、いま、こうやって生きている。生きているというのは、だれかの死を食べることだ。
 残してはいけない。全部食べて、そして生きるのだ。
 釘でむりやりこじ開けた缶詰。その縁はぎざぎざだ。指にひっかかり、指が傷つき、血も出る。その血まみれの指で、缶詰の汁もねぶりとり、なめてしまう。そのとき感じる血は、自分の血だけではないだろう。死んでしまった人たちの血も感じるだろう。感じながら、それを全部自分の肉体にするのである。

墓場からはみ出た墓石が山門前にならぶ
墓穴をあけてももうなにも出てこない
 でも墓に入れれなかった人たちが尻の下で仮眠している

あれほどの うつつが
 いまは真昼の影絵ほどに心許ない
あれはいわしではなく なにかの生きものの指
腹をすかしたこどもは じぶんではなく
 会えなかったじぶんのこどもだったか

 墓には必ずしも「骨(遺骨)」があるわけではない。遺体(遺骨)が帰って来なかったひともいる。父か父の兄弟も、そうだったかもしれない。もしかしたら南川がそういう人間になる時代があったかもしれない。そのとき、南川のこどもは、やはり墓の前にきて供え物の缶詰を、そのあたりにある釘と石をつかってこじ開けて食べたかもしれない。
 そういうことが、もう一度、あっていいのか。
 そう問い直すとき、この詩は、「あの時代の証言」ではなく、「いまの時代の予言」になる。告発になる。


傾ぐ系統樹
南川 隆雄
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