詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

須藤洋平『真っ赤な傘を突き刺して』(2)

2015-09-02 14:21:54 | 長田弘「最後の詩集」
須藤洋平『真っ赤な傘を突き刺して』(2)(思潮社、2015年07月30日発行)

 須藤洋平『真っ赤な傘を突き刺して』について、もう一度書く。「サバイバルスキル」という作品。

私たちは落ち合い実家へと向かった。半分水に浸かった車で。
橋がおちたところが多々あり、遠回りをしなければならず、
そのうちに夜も更けてしまった。前方に見える灯りはどうやら体育館のもののようだった。
避難者はざっと百人はいただろうか。
レトルトの麻婆丼に涙し(食して泣いたのは初めてのことだった)
ポカリスウェットで全身を浸し、一週間ぶりに布団に入ることができた。
(それでも寒さに突き刺されたようだった)
私はしばらく眼を閉じてみたが眠気は一向にやってこない。

 東日本大震災のときの、避難の様子を書いている。一語一語、ことばが強い。ゆるみというものがない。なぜだろう。「肉体」と「精神(意識)」が強く絡み合っているからである。
 一行目は、きのう読んだ「ケダモノ」の書き出しと動揺に「倒置法」である。この一行はなぜ「倒置法」なのか。「実家へ向かった」、実家へ向かうという肉体の動き、意識がいちばん重要だからである。車が半分水に浸かっている、ということは実家へ向かうという動きに遅れてやってくる。よくみると車は水に浸かっている。いや、よく見なくたって車が水に浸かっているのだが、そんなことを問題にしている場合ではない。実家へ向かう(帰る)ことがいちばん大事であり、そのために車を選んだ、その車がたまたま水に浸かっていた、ということなのだ。
 阪神大震災を体験した季村敏夫は『日々の、すみか』(書肆山田)で「出来事は遅れてあらわれる」と書いた。その「遅れてあらわれる」が須藤の、この一行にも刻み込まれている。
 時系列からいうと地震が起きた。津波がきた。車が浸水した。何人かの家族の無事を確認した。一緒に車に乗って実家へ向かった、ということになる。しかし、ここでは、まず実家に向かった、ということが書かれる。それから車の様子が書かれる。車が水に浸かった方が時間的には先なのに、実家に向かうという行為のあとに、遅れてやってくる。大地震があって、津波があって、車が水浸しになった、ということが、「事実」して、「いま」のなかに出現してきて、「いま」を「過去」と結びつける。ああ、この車は津波で水をかぶったのだという「出来事」が、もういちど「ことば」として「やってくる」。そして「肉体」に刻み込まれる。車が津波の水をかぶったときは、まだそれは車と津波の関係であり、須藤にとっては「出来事」ではなかった。実際に車に乗って実家に向かうとき、「出来事」は「事実」になって、須藤の「いま」にぶつかってくる。そんなふうにして「事実」は「人間の出来事」になる。
 それにつづく行(ことば)も同じである。須藤が車で実家に向かうことよりも前に、津波で橋は落ちている。しかし、その「事実/出来事」が、実家へ帰るという動きのなかに、いま、大地震から「遅れて」やってくる。私たちはすべて「遅れて」出来事を知るのである。「肉体/ことば」は「遅れて」何かを自分の「出来事」にする。その「出来事」が自分のものになったとき、「遠回りをしなければならず」という「出来事」があらたに発生する。この新たな出来事の発生もまた「遅れて」発生する、「遅れてやってくる」と言い直すことができる。「そのうちに夜も更けてしまった」も同じである。須藤たちを追いかけて夜がやってくる。夜さえ「遅れてやってくる」。遅れてやってくるのに、それが「いま」を邪魔して、「いま」がその先へ進めさせてくれない。つまり、簡単に実家に帰れないということが生じる。
 この一連の動きが、何と言えばいいのか、非常に「粘っこい」文体(ことばの運動)で描かれている。この「出来事が遅れてやってくる」ということと粘っこい文体は密接な関係にある。たとえば、

橋がおちたところが多々あり、遠回りをしなければならず、

 この一行の前半は「理由」を書いている。「最初にわたろうとした橋が落ちていて、その次の橋も落ちていたために」ということなのだが、その「理由」をあらわすことば「……のために」を省略し、「多々あり」と「事実」だけを書き、それを追いかけて「遠回りしなければならなかった」とつなげる。「遠回りした」ではなく、「しなければならなかった」と、そこに「影響(遅れてあらわれるもの)」をつないで、文章としてつないでしまう。

橋が多々おちていたために、遠回りをした

 という文章と比較してみるとわかりやすいかもしれない。「理由(原因)」があって「結果」が生じるのではない。「事実」があって、そのことをあとから(遅れて)振り返ってみると、その影響を受けたことがわかる。「影響」によって、「原因」の「大きさ」をはっきりと理解する。つまり、「肉体」で受け止めて、それをことばにすることによって、そこで起きた「出来事」がどういうものであったか、意識のなかに「遅れて」刻み込まれる。
 この「遅れ」を、須藤は「遅れ」のまま、ぐいぐいとひきずるようにたぐりよせる。「遅れ」をなんとしても「いま」に引き寄せる。その力が「粘着力」になっている。「理由」を先に書いて、それから結果を書く、というのはことばにとって「経済的」な書き方ではあるが、それでは「事実」ではなくなる。「……なので、……した」というのは、「言い訳」のような文体である。ととのいすぎている。「出来事」は「言い訳」のようには、ととのえることができない。

レトルトの麻婆丼に涙し(食して泣いたのは初めてのことだった)

 この一行の書き方も、また「遅れ」をそのまま書いている。麻婆丼を食べて泣いた。そのあとに「食して泣いたのは初めて」という「ことば(意識)」がやってきて、麻婆丼を食べて泣いたということを「出来事」にする。

ポカリスウェットで全身を浸し、一週間ぶりに布団に入ることができた。
(それでも寒さに突き刺されたようだった)

 この二行では、「寒さ」という「出来事」がやはり「遅れて」やってくる。「寒さ」は布団に入る前からあった。しかし、布団に入ることによってはじめて「寒い」と言えるようになった。それまでは「寒い」は、怖くて言えなかった。そういうことが、ことばと一緒に生まれてくる。
 「出来事」は「ことば」が「やってきて」、はじめて「出来事」になる。「ことば」が「やってくる」までは何が起きたかわからない。
 
 これは逆に言えば、「ことば」によって、「出来事」を生み出すということでもある。その「生み出す」という動きが、粘り強く、再現されている。
 私たちは、さまざまな情報をとおして東日本大震災があったことを知っている。しかし、その知っているは「わかっている」ということとは違う。
 被災者がたいへんな思いをした(している)ということは「知っている(つもりになっている)」。しかし、「わかっている」わけではない。「わかる」ことはできない。「わかる」ということは、それを「つかえる」ということ。つまり、自分のことばで言い直すことができるということ。そんなことは、私にはできない。
 「分節/未分節」という「便利なことば」がある。私は、そのことばをつかうと、どうも「世界」が簡単に整理されすぎてしまう気がして、いまはつかわないようにしているのだが……。
 須藤は、自分の体験したことを「分節」して「出来事」として整理しているのではない。「未分節」の震災直後の状況を「分節」して語り直しているのではない。自分の「肉体」で「出来事」を生み出しているのだ。須藤は大震災を「わかっている」から、それをもう一度「生み出す」ことができるのだ。

橋がおちたところが多々あり、遠回りをしなければならず、

 これは、橋が落ちていたという「世界」そのものの「混沌」から、「遠回りをする」という「肉体の運動」を「生み出す」ことなのだ。「遠回りする」という自分を「生み出し」、生まれ変わって、動くということなのだ。
 「分節する」というのは単なる「認識(ことば/言語学)」の問題ではなく、「肉体」そのもののことだ。「世界」が変わるのではなく「人間(肉体/いのち)」そのものが変わること。「生み出す」ということは「生まれ変わる」こと。そして、それはいつでも「最初の肉体」から「遅れてあらわれる」。「生む肉体」があって、そのあとで「生まれる肉体」がある。

 ちょっと脱線したかもしれない。

 自分の「肉体/ことば」をとおして「出来事」を生む。自分を「生む」。「ことば」をとおして生まれ変わる。
 そういうことができる「肉体/ことば」を生きている須藤は、後半にとてもおもしろい「いのち」を書いている。
 避難した体育館の天上、その鉄骨のあいだにバレーボールがいくつも挟まっている。

あの挟まったバレーボールが落ちてきて人々の頭に当たったらどうだろう。
「アイサー!」
「ホヤサー!」
そんな映像が頭に浮かびにやりとし、眼を閉じ開くと、
朝になっていた。

 眠れなかった須藤が、一瞬、眠っている。その一瞬は、熟睡である。
 つらい状況のなかで、須藤は「生き抜いていく人間」を生み出している。「アイサー!」「ホヤサー!」という掛け声を私ははじめて聞いたが(知ったが)、須藤の「肉体」がなじんでいる掛け声なのだろう。そういう声を発しながら、避難した人たちがいっしょになってバレーボールをする。そういうことができる。そういう人間を「ことば」で生み出しながら、須藤はその夜を生き抜いた。 
 あ、すばらしい。美しい。人間がいきているということは輝かしい。
 須藤のことばは、こういう人間を生み出すことができる。
 須藤は避難者を「肉体」として「わかっている」。だから、そこから生きる人間を生み出すことができる。

真っ赤な傘突き刺して
須藤洋平
思潮社
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