冨岡郁子「しゃれこうべ」、夏目美知子「セイタカアワダチ草やヒメジョオンやら」(「乾河」74、2015年10月01日発行)
きのうは書きすぎた。詩を壊してしまった。きょうはなるべく少なく書いてみよう。
冨岡郁子「しゃれこうべ」。
最終連がとてもおもしろい。コロンは女の頭蓋骨? カランは男の頭蓋骨? と読むのは、私が男だからだろうか。女は、すり寄る方が男の頭蓋骨と思うだろうか。冨岡は、どう読んだのだろう。
一連目の四行目の「空間」が、また、とてもおもしろい。「離れすぎず近からず」というのは「距離」のこと。だから、微妙な「距離」を置いて、でも「意味」は同じ。
でも、「空間」の方がはるかにおもしろい。「距離」は二つの頭蓋骨のあいだだけを指し示すのに対し、「空間」はそのまわりも含んでしまう。「線」であらわすことのできる「距離」ではなく、「面」としての「空間」。あ、「空間」は「立体」なのだけれど……。
「まわり」というものがあるから、最後の「すり寄る」というのも効果的なのかもしれない。単に二つの頭蓋骨の問題ではなく、なんとなく「まわり」の人間(ふたりをとりまく人間関係)のようなものが、見える。ふたりを見ている視線になって、その「空間」のなかに入り込んでしまう。
*
夏目美知子「セイタカアワダチ草やヒメジョオンやら」。その書き出し。
このあと「言葉と現実に差はある」という具合にして、夏目の「思い」が語られるのだけれど、その思っていることよりも、思いはじめの、ことばを探している感じの部分が自然でとてもいい。「美しい」ということばが三回も出てくるのは、すこし安易かもしれないが、その「安易」がいい。気楽に考えはじめている。気楽にことばを動かしはじめている。かまえていない、自然がそこにある。
特に、
これがいい。ことばを探す前に「肉体」が「木漏れ日」に反応している。ことばでとらえるよりも「何倍も美しい」。それは「肉体」でつかむしかない。
もちろん両腕を広げたからといって、木漏れ日の美しさをつかまえることができるわけではない。「同化する」と夏目は書くが、「同化」できるわけでもないかもしれない。それでも「両腕を広げ」るのである。自分を広げるのである。
ここに「ことば」にならない「ことば」がある。
冨岡の書いている「すり寄る」に通じるものがある。
「肉体」の領域をはみだすものがある。
「両腕を広げ」ても、人間は「肉体」より大きくなれない。頭蓋骨は自分自身では「すり寄る」ことはできない。その不可能が、ことばによって、すばやく乗り越えられる。この瞬間が、詩なのだ。
きのうは書きすぎた。詩を壊してしまった。きょうはなるべく少なく書いてみよう。
冨岡郁子「しゃれこうべ」。
しゃれこうべが二つ
白い地面に
離れすぎず近からず
微妙な空間を置いて
転がっている
どこかに光があるのだろう
地面はまばゆく白く輝き
二つはそれぞれ
影をうすく作って
カラン
コロン と呼応している
それが
コロンが
まるで
カランの方へ
すり寄るように
頭を少しかしげて
最終連がとてもおもしろい。コロンは女の頭蓋骨? カランは男の頭蓋骨? と読むのは、私が男だからだろうか。女は、すり寄る方が男の頭蓋骨と思うだろうか。冨岡は、どう読んだのだろう。
一連目の四行目の「空間」が、また、とてもおもしろい。「離れすぎず近からず」というのは「距離」のこと。だから、微妙な「距離」を置いて、でも「意味」は同じ。
でも、「空間」の方がはるかにおもしろい。「距離」は二つの頭蓋骨のあいだだけを指し示すのに対し、「空間」はそのまわりも含んでしまう。「線」であらわすことのできる「距離」ではなく、「面」としての「空間」。あ、「空間」は「立体」なのだけれど……。
「まわり」というものがあるから、最後の「すり寄る」というのも効果的なのかもしれない。単に二つの頭蓋骨の問題ではなく、なんとなく「まわり」の人間(ふたりをとりまく人間関係)のようなものが、見える。ふたりを見ている視線になって、その「空間」のなかに入り込んでしまう。
*
夏目美知子「セイタカアワダチ草やヒメジョオンやら」。その書き出し。
「木漏れ日」と言う言葉は美しい
そこから想起される情景も美しい
けれど、初夏の午後
道幅いっぱいの木漏れ日の中に実際に立った時
それは何倍も美しかった
両腕を広げ、同化する
その幸せな時間につける名はない
このあと「言葉と現実に差はある」という具合にして、夏目の「思い」が語られるのだけれど、その思っていることよりも、思いはじめの、ことばを探している感じの部分が自然でとてもいい。「美しい」ということばが三回も出てくるのは、すこし安易かもしれないが、その「安易」がいい。気楽に考えはじめている。気楽にことばを動かしはじめている。かまえていない、自然がそこにある。
特に、
両腕を広げ、
これがいい。ことばを探す前に「肉体」が「木漏れ日」に反応している。ことばでとらえるよりも「何倍も美しい」。それは「肉体」でつかむしかない。
もちろん両腕を広げたからといって、木漏れ日の美しさをつかまえることができるわけではない。「同化する」と夏目は書くが、「同化」できるわけでもないかもしれない。それでも「両腕を広げ」るのである。自分を広げるのである。
ここに「ことば」にならない「ことば」がある。
冨岡の書いている「すり寄る」に通じるものがある。
「肉体」の領域をはみだすものがある。
「両腕を広げ」ても、人間は「肉体」より大きくなれない。頭蓋骨は自分自身では「すり寄る」ことはできない。その不可能が、ことばによって、すばやく乗り越えられる。この瞬間が、詩なのだ。
H(アッシュ)―冨岡郁子詩集 | |
冨岡 郁子 | |
草原詩社 |