ホウ・シャオシェン監督「黒衣の刺客」(★)
監督 ホウ・シャオシェン 出演 スー・チー、チャン・チェン、妻夫木聡
久々のホウ・シャオシェンの作品。カンヌで監督賞を取っている。期待して見に行ったのだが、非常にがっかりした。
中国の歴史を知らないせいもあるのだが、人物像がまったくわからない。黒衣の女は刺客で昔の許嫁を殺せと命じられている。しかし、「情」に邪魔されて殺せない。というのは、字幕だけではなかなか理解できず、予告編でそういうことが語られていたからそう思って見ているのだが、「感情」が伝わってこない。感情の起伏がわからない。
一羽で飼われている鳥が歌わない。鏡を見せたら、歌い、舞い、翌日に死んだというような中国の古い歌(?)が「心情」を代弁したりするのだが、象徴的すぎて、「映画(映像/役者の肉体)」そのものからつたわってくるものがない。ことばで説明する「意味」ではなく、役者の肉体が動くときにあらわれることばにならない不透明な説得力というものがない。
この「鏡」の話に、妻夫木聡の「鏡」を磨くシーンや、その他の鏡のシーンが「伏線」として動いているのはわかる(鏡で自分の顔を確かめる女は、単に顔を見ているのではなく、自分の心情をのぞいている。主人公ではなく、ほかの女に鏡をのぞかせ、女はいつでも自分の心情を気にしている、と間接的に説明する)が、これは「頭」でわかるのであって、肉体が反応してわかるのとは違う。スー・チーの能面のように動きのない顔から、チャン・チェンと再開したときこころがどう動いたか、導師(?)との戦いのときこころがどう動いたかを感じ取れといわれても、私にはできないなあ。
見どころがあるとしたら「映像の美しさ」ということになるかもしれない。しかし「美しい」と感じながらも、これにも私は失望した。薄っぺらい美しさだ。「美」の表現方法がひとつしかない。
ホウ・シャオシェンの映画を最初に見たのは、「童年往時」か「恋恋風塵」か。そのあと傑作の「非情城市」とつづけて見て気づいたのは「映像」のつくり方である。日本人の感覚に似ている。世界をとらえるとき「近景・中景・遠景」という感じで「遠近感」をつくる。世界を「横」に広げずに、「奥行き」で広がりをとらえる。日本と同様、台湾も島国だから、「広がり」とらえるとき、どうしても「遠近法」にしてしまうのだろう。(オーストラリアの映画では、突然「遠景」だけが広がったりする。アメリカや中国映画でもそうである。世界が広いから「近景」なんか気にしないのだ。)この方法を延々と繰り返している。
狭い室内においてさえ、「近景・中景・遠景」という遠近法をつかう。手前に壁、開かれたドアの向こうに次の部屋の室内、という方法がいちばんわかりやすい。この映画では、それに「紗」の遮りを組み合わせている。「紗」越しにひとが動く。手前と、奥、があることを常に印象づける。それは、まあ、主人公が「紗」に隠れているということをあらわしているとも言えるのだが、とてもうるさい。
屋外では、わざと焦点を近景にあわせ、中景をぼかしてしまう。「紗」にかけたようにしてしまう。そうすることで、狭い場所にも「遠近感」をつくり出している。
もっと広い「原野(山岳)」では、水墨画の技法のような手法。遠景の山は稜線が明確だが、手前の山と重なる部分は薄い色の影になる。すべてが、あまりにも「遠近法」の絵になりすぎている。これでは単調すぎる。おもしろみがない。
非情な歴史を描いているのだから、人間の非情を上回る非情な自然(風景)を描かないことには人間が生きてこない。非情なドラマのなかの、繊細な感情を描きたかったと監督は言うかもしれないけれど、退屈すぎる。
映画の半分くらいで、右隣のさらに右隣の客がひとり出ていったが、正解だなあ。さらにその直後、今度は左隣のおんなががさごそしはじめ、席を立った。お、もうひとり出て行くのか、と思ったらしばらくして戻ってきた。トイレだったのか--というようなことを思うくらい退屈な映画である。
「歴史(人事?)」とかかわりのない鏡みがきの妻夫木聡を送って行く(いっしょに旅をする)という終わり方は、「鏡の中の自分」がほんとうの自分がいる(ほんとうの自分をわかってくれたのは、人事とは関係ない妻夫木聡だけ)、ということを暗示しているのかもしれないが、うーん、くだらない「文学趣味」。あきれてしまった。
(中洲大洋3、2015年09月13日)
*
「映画館に行こう」にご参加下さい。
映画館で見た映画(いま映画館で見ることのできる映画)に限定したレビューのサイトです。
https://www.facebook.com/groups/1512173462358822/
監督 ホウ・シャオシェン 出演 スー・チー、チャン・チェン、妻夫木聡
久々のホウ・シャオシェンの作品。カンヌで監督賞を取っている。期待して見に行ったのだが、非常にがっかりした。
中国の歴史を知らないせいもあるのだが、人物像がまったくわからない。黒衣の女は刺客で昔の許嫁を殺せと命じられている。しかし、「情」に邪魔されて殺せない。というのは、字幕だけではなかなか理解できず、予告編でそういうことが語られていたからそう思って見ているのだが、「感情」が伝わってこない。感情の起伏がわからない。
一羽で飼われている鳥が歌わない。鏡を見せたら、歌い、舞い、翌日に死んだというような中国の古い歌(?)が「心情」を代弁したりするのだが、象徴的すぎて、「映画(映像/役者の肉体)」そのものからつたわってくるものがない。ことばで説明する「意味」ではなく、役者の肉体が動くときにあらわれることばにならない不透明な説得力というものがない。
この「鏡」の話に、妻夫木聡の「鏡」を磨くシーンや、その他の鏡のシーンが「伏線」として動いているのはわかる(鏡で自分の顔を確かめる女は、単に顔を見ているのではなく、自分の心情をのぞいている。主人公ではなく、ほかの女に鏡をのぞかせ、女はいつでも自分の心情を気にしている、と間接的に説明する)が、これは「頭」でわかるのであって、肉体が反応してわかるのとは違う。スー・チーの能面のように動きのない顔から、チャン・チェンと再開したときこころがどう動いたか、導師(?)との戦いのときこころがどう動いたかを感じ取れといわれても、私にはできないなあ。
見どころがあるとしたら「映像の美しさ」ということになるかもしれない。しかし「美しい」と感じながらも、これにも私は失望した。薄っぺらい美しさだ。「美」の表現方法がひとつしかない。
ホウ・シャオシェンの映画を最初に見たのは、「童年往時」か「恋恋風塵」か。そのあと傑作の「非情城市」とつづけて見て気づいたのは「映像」のつくり方である。日本人の感覚に似ている。世界をとらえるとき「近景・中景・遠景」という感じで「遠近感」をつくる。世界を「横」に広げずに、「奥行き」で広がりをとらえる。日本と同様、台湾も島国だから、「広がり」とらえるとき、どうしても「遠近法」にしてしまうのだろう。(オーストラリアの映画では、突然「遠景」だけが広がったりする。アメリカや中国映画でもそうである。世界が広いから「近景」なんか気にしないのだ。)この方法を延々と繰り返している。
狭い室内においてさえ、「近景・中景・遠景」という遠近法をつかう。手前に壁、開かれたドアの向こうに次の部屋の室内、という方法がいちばんわかりやすい。この映画では、それに「紗」の遮りを組み合わせている。「紗」越しにひとが動く。手前と、奥、があることを常に印象づける。それは、まあ、主人公が「紗」に隠れているということをあらわしているとも言えるのだが、とてもうるさい。
屋外では、わざと焦点を近景にあわせ、中景をぼかしてしまう。「紗」にかけたようにしてしまう。そうすることで、狭い場所にも「遠近感」をつくり出している。
もっと広い「原野(山岳)」では、水墨画の技法のような手法。遠景の山は稜線が明確だが、手前の山と重なる部分は薄い色の影になる。すべてが、あまりにも「遠近法」の絵になりすぎている。これでは単調すぎる。おもしろみがない。
非情な歴史を描いているのだから、人間の非情を上回る非情な自然(風景)を描かないことには人間が生きてこない。非情なドラマのなかの、繊細な感情を描きたかったと監督は言うかもしれないけれど、退屈すぎる。
映画の半分くらいで、右隣のさらに右隣の客がひとり出ていったが、正解だなあ。さらにその直後、今度は左隣のおんなががさごそしはじめ、席を立った。お、もうひとり出て行くのか、と思ったらしばらくして戻ってきた。トイレだったのか--というようなことを思うくらい退屈な映画である。
「歴史(人事?)」とかかわりのない鏡みがきの妻夫木聡を送って行く(いっしょに旅をする)という終わり方は、「鏡の中の自分」がほんとうの自分がいる(ほんとうの自分をわかってくれたのは、人事とは関係ない妻夫木聡だけ)、ということを暗示しているのかもしれないが、うーん、くだらない「文学趣味」。あきれてしまった。
(中洲大洋3、2015年09月13日)
*
「映画館に行こう」にご参加下さい。
映画館で見た映画(いま映画館で見ることのできる映画)に限定したレビューのサイトです。
https://www.facebook.com/groups/1512173462358822/
悲情城市 [DVD] | |
クリエーター情報なし | |
紀伊國屋書店 |