詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

ホウ・シャオシェン監督「黒衣の刺客」(★)

2015-09-13 20:02:55 | 映画
ホウ・シャオシェン監督「黒衣の刺客」(★)

監督 ホウ・シャオシェン 出演 スー・チー、チャン・チェン、妻夫木聡

 久々のホウ・シャオシェンの作品。カンヌで監督賞を取っている。期待して見に行ったのだが、非常にがっかりした。
 中国の歴史を知らないせいもあるのだが、人物像がまったくわからない。黒衣の女は刺客で昔の許嫁を殺せと命じられている。しかし、「情」に邪魔されて殺せない。というのは、字幕だけではなかなか理解できず、予告編でそういうことが語られていたからそう思って見ているのだが、「感情」が伝わってこない。感情の起伏がわからない。
 一羽で飼われている鳥が歌わない。鏡を見せたら、歌い、舞い、翌日に死んだというような中国の古い歌(?)が「心情」を代弁したりするのだが、象徴的すぎて、「映画(映像/役者の肉体)」そのものからつたわってくるものがない。ことばで説明する「意味」ではなく、役者の肉体が動くときにあらわれることばにならない不透明な説得力というものがない。
 この「鏡」の話に、妻夫木聡の「鏡」を磨くシーンや、その他の鏡のシーンが「伏線」として動いているのはわかる(鏡で自分の顔を確かめる女は、単に顔を見ているのではなく、自分の心情をのぞいている。主人公ではなく、ほかの女に鏡をのぞかせ、女はいつでも自分の心情を気にしている、と間接的に説明する)が、これは「頭」でわかるのであって、肉体が反応してわかるのとは違う。スー・チーの能面のように動きのない顔から、チャン・チェンと再開したときこころがどう動いたか、導師(?)との戦いのときこころがどう動いたかを感じ取れといわれても、私にはできないなあ。
 見どころがあるとしたら「映像の美しさ」ということになるかもしれない。しかし「美しい」と感じながらも、これにも私は失望した。薄っぺらい美しさだ。「美」の表現方法がひとつしかない。
 ホウ・シャオシェンの映画を最初に見たのは、「童年往時」か「恋恋風塵」か。そのあと傑作の「非情城市」とつづけて見て気づいたのは「映像」のつくり方である。日本人の感覚に似ている。世界をとらえるとき「近景・中景・遠景」という感じで「遠近感」をつくる。世界を「横」に広げずに、「奥行き」で広がりをとらえる。日本と同様、台湾も島国だから、「広がり」とらえるとき、どうしても「遠近法」にしてしまうのだろう。(オーストラリアの映画では、突然「遠景」だけが広がったりする。アメリカや中国映画でもそうである。世界が広いから「近景」なんか気にしないのだ。)この方法を延々と繰り返している。
 狭い室内においてさえ、「近景・中景・遠景」という遠近法をつかう。手前に壁、開かれたドアの向こうに次の部屋の室内、という方法がいちばんわかりやすい。この映画では、それに「紗」の遮りを組み合わせている。「紗」越しにひとが動く。手前と、奥、があることを常に印象づける。それは、まあ、主人公が「紗」に隠れているということをあらわしているとも言えるのだが、とてもうるさい。
 屋外では、わざと焦点を近景にあわせ、中景をぼかしてしまう。「紗」にかけたようにしてしまう。そうすることで、狭い場所にも「遠近感」をつくり出している。
 もっと広い「原野(山岳)」では、水墨画の技法のような手法。遠景の山は稜線が明確だが、手前の山と重なる部分は薄い色の影になる。すべてが、あまりにも「遠近法」の絵になりすぎている。これでは単調すぎる。おもしろみがない。
 非情な歴史を描いているのだから、人間の非情を上回る非情な自然(風景)を描かないことには人間が生きてこない。非情なドラマのなかの、繊細な感情を描きたかったと監督は言うかもしれないけれど、退屈すぎる。
 映画の半分くらいで、右隣のさらに右隣の客がひとり出ていったが、正解だなあ。さらにその直後、今度は左隣のおんなががさごそしはじめ、席を立った。お、もうひとり出て行くのか、と思ったらしばらくして戻ってきた。トイレだったのか--というようなことを思うくらい退屈な映画である。
 「歴史(人事?)」とかかわりのない鏡みがきの妻夫木聡を送って行く(いっしょに旅をする)という終わり方は、「鏡の中の自分」がほんとうの自分がいる(ほんとうの自分をわかってくれたのは、人事とは関係ない妻夫木聡だけ)、ということを暗示しているのかもしれないが、うーん、くだらない「文学趣味」。あきれてしまった。 
                        (中洲大洋3、2015年09月13日)





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こたきこなみ「空っ茶かみかぜ明日こそ」

2015-09-13 09:20:58 | 長田弘「最後の詩集」
こたきこなみ「空っ茶かみかぜ明日こそ」(「幻竜」22、2015年09月20日発行)

 詩は不思議である。書き方にきまりがないせいだろうか、「幅」が非常に広い。「現代詩手帖」を拠点とする「現代詩」の書き手がいる一方、そういう世界とは無縁なところで書いているひともいる。
 きのう読んだ、阪井達生『おいしい目玉焼きの食べ方』のなかのことばは、どちらかというと「現代詩手帖」ではあまりみかけないことばの運動である。ことばの運動の可能性を切り開くという類のものではないかもしれない。けれど、私は、何かひっかかる。「現代詩ではない」と、感想を書かずにそのままにしておくのは「もったいない」感じがする。そこに書かれていることば、ことばのなかで動いているものを引き継いで、ほかのことばを動かしてみたいという気持ちになる。
 そういう作品を、きょうも読んでみる。
 こたきこなみ「空っ茶かみかぜ明日こそ」は「神々たそがれ七十年」というタイトルでくくられた作品のうちの一篇。「七十年」は「戦後七十年」を踏まえている。こたきの体験を描いている。こたきの家で「隣組常会」が開かれた。

「この戦争は負けだね」こう言い放ったのはウチのお婆ちゃん
皆は一瞬息をのんだ 立ち聞きされたら大変だ ややあって
「そうですか やっぱり負けですかね」と商店のおやじさん
お茶を配るのは二年生の私で駄菓子の配給もなくがっかりだった
「負けるだなんてとんでもない 非国民です」うわずった声は母さんだった「大和魂がありますカミカゼが吹きます」
日頃おとなしい母が言い募る 隣の小母さんが驚いて顔を見る

 というようなことが書かれていて、その最後にこたきの「感想」が書かれている。その「感想」に、私はうなってしまった。

戦後多くの真相を知ったが私は一度だけ国の強権ぶりに感謝した
あの 口答えひとつ許されなかった姑に初めて母は反発できたのだ
国を味方にして 母の一生に一度の自己主張であった

 この「感想」を、どう思えばいいのだろうか。どう「定義」すればいいのだろうか。「定義」などしなくてもいいのだけれど……、うーん。
 おもしろいなあ。
 嫁・姑の「関係」のなかで、母は姑に口答えできなかった。姑は絶対だった。そういう関係は、どこの家庭でもあった。母は一度だけ姑に口答えをした。そのときの「口答え」は、いまの常識から言えば間違った認識である。「おかあさん、あなたは間違っていた。国にだまされていた」と、いまなら言える。
 けれども、こたきはここで

国の強権ぶりに感謝した

 と書いている。その「感謝した」という「動詞」が何とも言えない。どう言っていいか、わからない。おもしろい。
 母親は(母親だけではなく、多くの国民は)、国にだまされていた。だました国に対して「感謝する」(感謝した)というのは、変である。「国民」はいわば犠牲者なのだから。
 しかし、「批判を許さない国」の存在(考え方、ことば)が、気弱な母親を強くしている。母がほんとうに「カミカゼ」を信じていたかどうかはわからないが、絶対的な「ことば」を支えにして、母は姑に反論した。母に反論する力を与えてくれた。母は一度でいいから反論したかった。その機会を待っていた。そして、その望みをそのときにかなえた。そこに「喜び」のようなものがある。そしてそれは、こたきの喜び(願いの実現)だったかもしれない。お婆ちゃん、おかあさんをいじめないで。おかあさん、お婆ちゃんの言いなりにならないで、お婆ちゃんに勝って、と思いつづけていた。それが、いま、実現している。その「喜び」がここにある。「おかあさん、大好き」という気持ちが、ここにある。「大好き」が実現した(?)ので、国に「感謝」している。
 この「感謝」は、大きな「世界」からは否定される「こころのあらわし方」である。「論理的」には「意味」のない「感謝」である。「倫理的」には、と言い直してもいいかもしれない。「倫理的に無意味」。こんなときに「感謝」ということばをつかうのは、理にかなっていない。
 でも、「感謝」する。
 こたきにとっては、国の問題などどうでもいい。戦争の問題もどうでもいい。大好きな母親をいじめる(?)姑に反撃するということが大事なのだ。母親が姑に向かって反論し、一歩も譲らない。そこに「信頼できる母親」が存在する。
 母親にとって、子どもがどんな間違ったことをしようが、「子どものしていることは絶対に正しい」と子どもを味方する(信頼する)ように、子どももまた「母親は絶対に正しい」と信頼したいのだ。「絶対的な正しさ」のなかで母と子はしっかりと結ばれるものなのだから。他人が見て「間違っている」と判断しようが、そんなことは関係ない。他人の判断などにはまどわされない「つながり」がある。その「強いつながり」を、こたきは、このときにつかんだ。「大好き」という「強い感情」は、こういうところから生まれている。

 これを、どう引き継いで行くか。

 難しくて、私には、これ以上書けない。
 特に、いまの状況(「戦争法案」を国会が可決しようとしている状況)を考えると、ことばが動かない。母親を支えた「国の強権」は、もちろん間違っている。「国」を弁護することはできないし、したがって「国に感謝する」ということも、あってはならないことである。でも、それは「戦争」のことを考えるとそうなのであって、母親への「愛情」のことを考えると、それは事情が違うのである。
 私たちはどこかで「論理的」ではない何か、「倫理的」ではない何かにつながっている。「論理」や「倫理」とは違うところでも生きている。そして、それを的確にあらわすことばを知らない。「間違い」を通してしか言い表すことのできない何かが人間にはある。「気持ち」は簡単にことばになってくれない。
 「論理的」には「間違い」である。けれど、その「間違い」のなかにある、「間違い」とは別の、「論理」とは無関係に動くこころの動き。「だって、お母さんが好きなんだ」というときの、「だって」としか言えない何か。そのことばにはならない、人間の「こころの動き」。詩を読みながら、そういう「つながり」とつながり(変な言い方だが……)、ことばを動かしていけたらいいなあ、と思う。

 「論理」や「倫理」という、頭で整理したものではどうすることもできない何かに、私は「つまずく」のが好きである。つまずかせてくれる「ことば」が好きである。



幻野行
こたき こなみ
思潮社
コメント (1)
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