詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

平木たんま

2015-09-04 09:58:46 | 詩(雑誌・同人誌)
平木たんま「形見」「眠れないときは」(「つむぐ」11、2015年08月15日発行)

 平木たんま「形見」「眠れないときは」に「おにぎり」と「卵焼」が出てきた。どちらも、ごくありきたりの食べ物である。その「ありきたり」が、とてもいい。「肉体」にしっかりと結びついている。「肉体」と「おにぎり」「卵焼」がしっかり結びついているので、つくったひとと食べるひともしっかり結びついている。その「強い結びつき」がとてもいい。

すこし痩せて
蜜柑を剥く手があなたに生きうつしだ
形も色も大きさも指先の使い方また
あなたはあの世でさっぱりしていると思っていたのに
手になってこんな姿になって
この世にいたのね
あなたの握ったおにぎりはおいしかった
同じお米なのに新米のようになった

してもらいたいことがあったら
ほんとうはねと言えばいいのに
そんなつもりもないらしい
この世では言えないことなのだろう
はにかんで
骨ばっている                           (「形見」)

 「おにぎり」の前に「手」が出てくる。それも、とてもいい。
 この詩は幸福な詩ではない。悲しい詩である。「あなた」はもうこの世にいない。そして「あなたの形見(息子だろうか)」もこの世から去っていこうとしている。でも、悲しい、さびしい、だけではないものがここに書かれていて、それが私をうれしくさせる。ひとの悲しみを「うれしい」と言っていいのかどうかわからないが、私は「うれしい」といいたい。
 夫と息子、そのふたりを「手」がつないでいる。それはまた平木ともつながっている。ふたりの手をつないでいるのは、平木の「記憶」なのだ。
 蜜柑を剥く手、指先の使い方--そういうものを平木は知らず知らずに見て覚えている。「肉体」が覚えている。「手になってこんな姿になって/この世にいたのね」がとてもいい。「手」が「この世」に生き続けているというのは、うれしい。
 「肉体」が覚えていることは、自然に、ほかの覚えていることを呼び覚ます。「手」が「おにぎり」を思い出させる。「おいしい」を思い出させる。ありきたりのものが、とびきり「おいしい」ものになる。そういう不思議を引き起こす「手」。
 「おにぎり」を食べたのではなく、それをつくった「手」の何かを食べたのかもしれない。そうとは知らずに。
 息子のつくるおにぎりもきっとおいしいだろう。
 「してもらいたい」「してやりたい」ということは、なかなかことばではつたわらない。
 でも、おにぎりをつくる、蜜柑の皮をむく--そういうことのなかにも、きっと「してもらいたい」「してやりたい」何かが動いている。それを平木は「肉体」で、そのまま感じている。

こんな寒い夜中は
もしものことやら後悔やら
次から次へときれめなく浮かんでくる
涙さえ浮かび
この世でもあの世でもない空間から
抜けだせなくなる
そばに人がいたら
地のある場所にもどれるのに
目をひらくと眠気はあとかたもない

まだひとりで抜け出せる
夜が明けたら
お稲荷さんを作って届けることを考えよう
卵焼それからほうれん草のおひたし

こんな寒い夜中に目が覚めて
どうにもならないことに
引き込まれないように
卵焼のことを考えよう                 (「眠れないときは」)

 これは平木が「してやりたい」こと、「したい」こと。そして「しつづけた」こと。「肉体」で「しつづけた」ことは「肉体」が覚えている。「肉体」は「肉体」がおぼえていることを、いつでも、覚えているままに繰り返すことができる。「肉体」をつかうことができる。それも、意識せずに。
 その「無意識」。
 「無意識」になりたいのだ。
 「してやりたい」などと思わずに、つまり「無意識」で、いつも卵焼をつくりおひたしをつくり、息子に(あるいは夫に)食べさせた。ふたりはやはり「してもらいたい」「してもらっている」などとは考えずに、ただ食べた。おいしいと思いながら食べた。ふたりもまた「無意識」だった。
 「無意識」のとき、そこに、ただ「肉体」があった。「いのち」があった。しあわせが、美しさがあった。「肉体」は、それを覚えている。「しあわせ」とか「美しさ」というような抽象的なものとしてではなく、「おむすび」として「卵焼」として、覚えている。その覚えていることを、平木は、ただ繰り返そうとしている。「肉体」でつないでいこうとしている。
 「生きる」ことは切ないねえ。でも、美しいなあ、と思う。「肉体」があるということは、すばらしいことだなあ。



 詩の感想になるかどうかわからないが、私は、この世には「肉体」しかないと思っている。
 平木は「手になって(略)この世にいたのね」と書いている。よく「魂」になってこの世にいるという言い方をするが、私は「魂」よりも、平木の書いている「手になって」の方が納得ができる。
 そして、その「手」というのは、私の考えでは「夫の手」であると同時に、平木が「生み出した手(平木の手)」なのだと思う。平木が息子を産んだように、「夫の手」もまた平木が生み出したもの。平木の「肉体」を通って生まれてきたもの。
 平木と息子は「別個」の人間。けれども「血(遺伝子)」がつながっているように、何か「見えない」ものでつながっている。私は、すべての「肉体」はつながっていると思う。そのつながりを感じるとき、世界から「さびしさ」が消える。さびしくても、さびしくない、と感じる。不思議な静けさを感じる。
 平木の書いている「おにぎり」や「卵焼」には、そういうもの中心になっている。核になっている。

おばさんの花―平木たんま詩集
平木たんま
七月堂
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