岡本勝人『ナポリの春』(思潮社、2015年09月15日発行)
岡本勝人『ナポリの春』は、タイトルからわかる通り旅の詩である。松岡政則『艸の、息』もまた旅の詩だったが、うーん、旅というのはひとによってこんなに違うのか。訪れたところの違いというよりも、訪れ方(?)が違いすぎる。
「プロローグ--ケルトの地から光をさがす」という作品の書き出し。
これは旅の詩だろうか。自分の家にいて、本を読めば書ける詩ではないだろうか。岡本は旅に出てこの詩を書いたのか。家にいて書いたのか。家にいて、旅に出る前に書いたから「プロローグ」なのだろうか。
いつ、どこで書いたかによって、詩の読み方もかわってくるかもしれないが。
いつ、どこで書いたにしろ、岡本にとっては、知らない場所へ行き、知らないひとに出会う、知らないことを体験するということよりも、知っていることを組み合わせて、組み合わせることではじまる世界へ行くことが旅なのだろう。
フェノロサ、救世観音、能、パウンド、イェイツ。いくつもの固有名詞が出てくる。(能は固有名詞ではないけれど、きっとパウンドにとってもイェイツにとっても固有名詞のように感じられただろう。)その固有名詞は「ある場所/ある時間」に行けば「存在」しているわけではない。あくまで岡本の「頭」のなかで結びついてひろがる「世界」である。その「頭の中の世界」へ岡本は旅をする。
これは実際にアイルランドの地を踏み、そこで考えたことなのかもしれないが、書かれていることばにアイルランドの「固有のもの」を感じ取ることはできない。
ここからわかることは、岡本が能とケルトを結びつけ、そこにイェイツを見ているということである。イェイツによって「異化」された能。この「異化する(異化される)」という動詞は、すぐに「生かす(生かされる)」と言い直すことができる。そして、それはそのまま岡本の詩の書き方につながる。岡本は、アイルランド(ケルト)をイェイツという人間を通して把握し、そうすることでアイルランドを独特なかたちに「異化」し、「生かす」。岡本は、そのアイルランドで生きる、生かされる。
松岡が旅先で「ことば」を脱ぎ捨て、「声(肉体)」に出合い、自分の「肉体」そのものをさらに解きほぐして「地べた」から裸足で立つつのに比較すると、岡本のこの詩は「ことば」を構築することで「土地」のうえに浮かんだ建築物をつくるような運動に見えてくる。
岡本の詩は、ことばとことばが、しっかりと組み合わさり、そこに新しい場をつくり、その場がさらにことばの構築物の発展(拡大?)を促すという感じ。「肉体」を切り捨てて、「純粋精神」としての詩。
あ、つらいなあ。
岡本の詩を読むには、岡本と同じだけの「ことば」を知っていないといけない。「出典」を知っていないといけない。ことばは、その作品のなかのことばだけでは完結していない。そのことばが存在したはずの別の「テキスト」のことを知らないといけない。「間テキスト」といえばいいのか、テキストとテキストの「間」のなかに構築される建物。岡本にとって「場」は「土地」ではない。岡本にとって「場」ことば(テキスト)とことば(テキスト)の「間」であり、その「場」はそれぞれのテキストを「土台」としてつくられる。そこにできあがってくる「ことばの構築物」を楽しむには、土台のテキストを自分のものにしていないと、読んでいる方がぐらついてしまう。岡本のつくったものはがっしりした構築物なのに、読者の方ではその重さに耐えられず、ぐらぐらし、押しつぶされてしまう。
簡単に言い直すと、かっこいいけれど、難しい、わかんないよ。
それはたとえば、「月と足裏のラプソディ」のような作品に、顕著にあらわれる。(あ、これは、私がまったく理解できなかった、ということを裏返しに言っているだけなのだが。つまり、私の無知をさらけだすことになるだけなのだが……。)
これは「肉体」のことを書いているのだと思う。足裏には肉体の機能と結びついた「つぼ」がある。それは脳のように複雑だ、というのはどこかで聞いたような気がする。ここだけを読むと、岡本は「肉体」と「脳」のことを書こうとしているのかな、と思ってしまう。
ところが、次の連、
「病」が「肉体(足裏のつぼ)」とつながっているようだが、よくわからない。
詩はこのあと日蓮を呼び出し、さらにヘシオドスを始めとするギリシャ古典が次々に出てくる。アキレウスの逸話(アキレス腱の逸話)が「肉体」として出てくる。道元の「病」と結びつけるなら「死」というものが、すべての「固有名詞」をつないでいることになるかもしれない。肉体の苦悩と死。それがこれまでどのように描かれ、これからどう描くことができるか。そういうことを考えているのだろうか。
でも、これは旅に出なくても、机の上で本を開きながら作り上げることのできる世界なのではないのか。
どうやってその権化構築物をつくったかは問題ではなく、そこに出現した言語構築物としての詩のみが問題にされるべきだ、と言われそうだなあ。
それはそうなんだけれど。
こんなふうに「未練」がましく書いてしまうのは、まあ、私の無知を棚に上げて、文句を書き並べるようなものだけれど。
で、(と、ここから飛躍する)
その「無知」が非常に疑問に感じたある部分。「間奏--或るひとつの世紀の墓標 二〇一二年九月」の書き出し。
あれっ、
「画家」を「詩人」に「描く」を「書く」にすれば簡単に解決する問題じゃない? 何をためらっている? 何か「書く」世界を最初から制限していない? テキストとテキストの「間」、「間テキスト」にこだわりすぎていない? この詩には、このあと「ノイズ」とか「クールジャズ」とか「現代詩」の好みそうなことばがちりばめられるのだけれど、そういうことばを棄ててしまえば、テキストからはみだした動きがうまれるかもしれないなあ、とも思った。
「エピローグ--わたしは詩をかいていた」のなかの、
という「テキスト」を感じさせる一行よりも、
という「肉体」そのもの描写したことばの方が、私には近付きやすい。
詩集を読んだ順序が、この感想には影響しているかもしれない。松岡の詩集を読む前に読んでいたらきっと違う感想になっていただろう。「頭」の疲労具合も影響しているかもしれない。私は目が悪くて長い間読み書きをすることができないのだが、それも影響しているかもしれない。疲れを知らない「頭」のいいひとには、ゆるみのないことばが疾走するおもしろい詩集だと思う。
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岡本勝人『ナポリの春』は、タイトルからわかる通り旅の詩である。松岡政則『艸の、息』もまた旅の詩だったが、うーん、旅というのはひとによってこんなに違うのか。訪れたところの違いというよりも、訪れ方(?)が違いすぎる。
「プロローグ--ケルトの地から光をさがす」という作品の書き出し。
フェノロサが
法隆寺の救世観音をみたのは
いつのことだったろう
夫人から能の草稿をパウンドがあずかり
パウンドからイェイツが能をしったのは
--一九一三年の冬
いまから百年も
むかしのことである
これは旅の詩だろうか。自分の家にいて、本を読めば書ける詩ではないだろうか。岡本は旅に出てこの詩を書いたのか。家にいて書いたのか。家にいて、旅に出る前に書いたから「プロローグ」なのだろうか。
いつ、どこで書いたかによって、詩の読み方もかわってくるかもしれないが。
いつ、どこで書いたにしろ、岡本にとっては、知らない場所へ行き、知らないひとに出会う、知らないことを体験するということよりも、知っていることを組み合わせて、組み合わせることではじまる世界へ行くことが旅なのだろう。
フェノロサ、救世観音、能、パウンド、イェイツ。いくつもの固有名詞が出てくる。(能は固有名詞ではないけれど、きっとパウンドにとってもイェイツにとっても固有名詞のように感じられただろう。)その固有名詞は「ある場所/ある時間」に行けば「存在」しているわけではない。あくまで岡本の「頭」のなかで結びついてひろがる「世界」である。その「頭の中の世界」へ岡本は旅をする。
(われわれはたましいで生きている)
アイルランドの海のかなたには
不老国があるという
『鷹の井戸』では老人と若者が仮面をつけた
ケルトの薄明がおりてくる
井戸のそこでは
笛の音が死の水を求めて
誕生と死とこの世の愛と苦しみを輪舞させている
これは実際にアイルランドの地を踏み、そこで考えたことなのかもしれないが、書かれていることばにアイルランドの「固有のもの」を感じ取ることはできない。
ここからわかることは、岡本が能とケルトを結びつけ、そこにイェイツを見ているということである。イェイツによって「異化」された能。この「異化する(異化される)」という動詞は、すぐに「生かす(生かされる)」と言い直すことができる。そして、それはそのまま岡本の詩の書き方につながる。岡本は、アイルランド(ケルト)をイェイツという人間を通して把握し、そうすることでアイルランドを独特なかたちに「異化」し、「生かす」。岡本は、そのアイルランドで生きる、生かされる。
松岡が旅先で「ことば」を脱ぎ捨て、「声(肉体)」に出合い、自分の「肉体」そのものをさらに解きほぐして「地べた」から裸足で立つつのに比較すると、岡本のこの詩は「ことば」を構築することで「土地」のうえに浮かんだ建築物をつくるような運動に見えてくる。
岡本の詩は、ことばとことばが、しっかりと組み合わさり、そこに新しい場をつくり、その場がさらにことばの構築物の発展(拡大?)を促すという感じ。「肉体」を切り捨てて、「純粋精神」としての詩。
あ、つらいなあ。
岡本の詩を読むには、岡本と同じだけの「ことば」を知っていないといけない。「出典」を知っていないといけない。ことばは、その作品のなかのことばだけでは完結していない。そのことばが存在したはずの別の「テキスト」のことを知らないといけない。「間テキスト」といえばいいのか、テキストとテキストの「間」のなかに構築される建物。岡本にとって「場」は「土地」ではない。岡本にとって「場」ことば(テキスト)とことば(テキスト)の「間」であり、その「場」はそれぞれのテキストを「土台」としてつくられる。そこにできあがってくる「ことばの構築物」を楽しむには、土台のテキストを自分のものにしていないと、読んでいる方がぐらついてしまう。岡本のつくったものはがっしりした構築物なのに、読者の方ではその重さに耐えられず、ぐらぐらし、押しつぶされてしまう。
簡単に言い直すと、かっこいいけれど、難しい、わかんないよ。
それはたとえば、「月と足裏のラプソディ」のような作品に、顕著にあらわれる。(あ、これは、私がまったく理解できなかった、ということを裏返しに言っているだけなのだが。つまり、私の無知をさらけだすことになるだけなのだが……。)
ふだんは気にもとめない足裏だが
ほんとうは脳のように複雑で
いくつものつぼがある
つぼの位置はほぼ左右対称だ
これは「肉体」のことを書いているのだと思う。足裏には肉体の機能と結びついた「つぼ」がある。それは脳のように複雑だ、というのはどこかで聞いたような気がする。ここだけを読むと、岡本は「肉体」と「脳」のことを書こうとしているのかな、と思ってしまう。
ところが、次の連、
いまだ老いたとはいえない道元が
病のために山をおりた
生まれた京都が、終焉の地だった
「生死ぬ(しょうじ)の中に仏あれば生死なし」
五十三歳の暑い夏だった
「病」が「肉体(足裏のつぼ)」とつながっているようだが、よくわからない。
詩はこのあと日蓮を呼び出し、さらにヘシオドスを始めとするギリシャ古典が次々に出てくる。アキレウスの逸話(アキレス腱の逸話)が「肉体」として出てくる。道元の「病」と結びつけるなら「死」というものが、すべての「固有名詞」をつないでいることになるかもしれない。肉体の苦悩と死。それがこれまでどのように描かれ、これからどう描くことができるか。そういうことを考えているのだろうか。
でも、これは旅に出なくても、机の上で本を開きながら作り上げることのできる世界なのではないのか。
どうやってその権化構築物をつくったかは問題ではなく、そこに出現した言語構築物としての詩のみが問題にされるべきだ、と言われそうだなあ。
それはそうなんだけれど。
こんなふうに「未練」がましく書いてしまうのは、まあ、私の無知を棚に上げて、文句を書き並べるようなものだけれど。
で、(と、ここから飛躍する)
その「無知」が非常に疑問に感じたある部分。「間奏--或るひとつの世紀の墓標 二〇一二年九月」の書き出し。
もしわたしが画家ならば
目の前でりんごをむく
きみの姿を描くだろう
しかしそれはかなうまい
なぜならわたしは
詩というやっかいな世界にいるからだ
あれっ、
もしわたしが詩人ならば
目の前でりんごをむく
きみの姿を書くだろう
「画家」を「詩人」に「描く」を「書く」にすれば簡単に解決する問題じゃない? 何をためらっている? 何か「書く」世界を最初から制限していない? テキストとテキストの「間」、「間テキスト」にこだわりすぎていない? この詩には、このあと「ノイズ」とか「クールジャズ」とか「現代詩」の好みそうなことばがちりばめられるのだけれど、そういうことばを棄ててしまえば、テキストからはみだした動きがうまれるかもしれないなあ、とも思った。
「エピローグ--わたしは詩をかいていた」のなかの、
渦は宇宙の神秘のコンプレックスだ
という「テキスト」を感じさせる一行よりも、
生きるためにペットボトルを何度も口にかたむけたんだ
という「肉体」そのもの描写したことばの方が、私には近付きやすい。
詩集を読んだ順序が、この感想には影響しているかもしれない。松岡の詩集を読む前に読んでいたらきっと違う感想になっていただろう。「頭」の疲労具合も影響しているかもしれない。私は目が悪くて長い間読み書きをすることができないのだが、それも影響しているかもしれない。疲れを知らない「頭」のいいひとには、ゆるみのないことばが疾走するおもしろい詩集だと思う。
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谷内修三詩集「注釈」(象形文字編集室)を発行しました。
2014年秋から2015年春にかけて書いた約300編から選んだ20篇。
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リッツォス詩選集――附:谷内修三「中井久夫の訳詩を読む」 | |
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