野田順子『蟻の日』(土曜美術者出版販売、2015年09月30日)
詩集を全部読み終わったあと、ふいに思い出す詩というものがある。最初に読んだときは、これは何かなあ、という奇妙なひっかかりが残る。それが何かわからないまま、最後まで読み、そのとき、ふっと思い出す詩というものがある。野田順子『蟻の日』の場合、最初に書かれている「かっぱのひみつ」が、そうした作品である。
最後の「ひみつ」ということばが、最初に読んだとき、ひっかかった。
「かっぱ」は架空の動物。その架空の動物を取り込んで、これはいったい何の寓話として書いているのか。かっぱは何の象徴なのか。そんなことを思うのだが……。
詩集を読み終わると、そうか、「ひみつ」か。かっぱではなく、「ひみつ」そのものを書きたかったのか、と気がつく。
『蟻の日』は、十分に愛された記憶のないひとの、暗い感じが漂う、不思議な詩である。怒るでもなく、悲しむでもなく、「こんなことがありました」と冷めた感情で、ねちねちと書いている。このとき、「ひみつ」は「十分に愛されなかった」という「事実」ではなく、そのときの「ねちねちとした気持ち」(そういう気持ちをもったということ)が「ひみつ」なのである。
「秘密」には二種類ある。ひとつは「聞きたい秘密」。「絶対に言ったらだめだよ」と言い、「言わない。だから聞かせて」。しかし、その「言わない」という約束は必ず破られる。それは「笑い話」として広がっていく。
もう一つは「聞きたくない秘密」。聞いても楽しくない。気が滅入る。それはカウンセリングか何かをするひとが「聞く秘密」かもしれない。『蟻の日』に書かれているのは、そういう「暗いひみつ」である。
「かっぱ」は、そういう「聞きたくないひみつ」の「比喩」、あるいは「象徴」である、と詩集を読み終わって、私は、やっと気づいた。そして、また、ほかのことにも気がついた。
この詩には「じぶん」という人間と「親友」が登場するが、この「親友」は「他人」ではないのではないか。「ふたり」ということばも出てくるが、「じぶん」と「親友」は「ひとり」の人間のことなのではないか。「じぶん」と「じぶんのなかのもうひとりのじぶん」。
「秘密」は聞かれたくないと同時に「聞いてほしい」ものである。「じぶん」ひとりで抱え込むのは、つらい。でも「聞いてもらえる」相手がいない。じぶん自身のなかに、もうひとり人間をつくりだし、そのひとに語ることで、気持ちを軽くするしかない。
最初は読み落としていたが「できたので」のはなく「できたら」。四連目は「過去」のことを書いているのではない。「仮定」のことを書いている。「仮定」なのだから、それを「仮定」するとき、そこには「親友」はまだ存在しない。「親友」は「じぶん」がつくりだしてものである。つまり、そこには「じぶん」という人間が「ひとり」いるだけである。
で、「ひみつ」とは、何か。
「かっぱ」か。「かっぱを見たこと」か。
そうではなくて、「おとなはだれも気づかない」ということ。「かっぱを見た/かっぱに見られたこと」におとなが気づかない、ではなくて、「かっぱの話はだまってる」ということにおとなは気づかない。それが「ひみつ」なのだ。
おとなは「じぶん(野田)」の体験していることに気づかない。「体験」を話さない(だまっている)ということに気づかない。それが「ひみつ」なのだ。
私は、先に、「ひみつ」そのものを書きたかったのか、と気がついたと書いた。これは、だから、おとなが気がつかなかった(おとなには話さなかった、おとなには隠していたということ)を書きたかったという意味になる。
実際、この詩集には野田がこどものときには話さなかったことが書かれている。特に、野田がおとなをどんなふうに見ていたかを書いている。このとき「おとな」は「かっぱ」である。「かっぱ」とは、野田が見たおとな、見ながら「見た」とは言わなかったおとなである。
その一例。「傷」という作品に描かれている、おとな。祖父の禿げ頭には傷がある。
引用の最後の二行は「批評」である。これが「ひみつ」、つまり「だまっていたこと」。行動は隠せない。しかし、「批評」はことばにしないかぎり(黙っているかぎり)、正確にはつたわらない。
おとなは、「じぶん(野田)」を利用して、「美しい」嘘をついている。「美しい」をおもてに出すことで、何かを隠している。そのことを見抜いている。しかし、見抜いているということを、野田は「ひみつ」にしたのである。
ここには「いま」の「ひみつ」もある。「なんなら今からやって見せようか……」という決意は「ひみつ」。そして、そういうことばが「いま」、野田の肉体を突き破って出てくるのは、それに似た決意がずーっとつづいてきたということだろう。野田の肉体は、その決意を「覚え」つづけていた。決意を「抱き」つづけていた。「かっぱ……」に出てきた「ひみつの場所」とは野田の「肉体」のことである。野田の「肉体がおぼえていること」である。
こんな陰湿な詩集は嫌いだが、こんなに陰湿な詩集、そのことば魅力的だ。すごい。何度も読み返し、「ひみつ」をじぶんのなかにためこみたいような気持ちになる。私の肉体も野田の肉体のように「ひみつの決意」を抱え込めるようになると、私はずいぶんかわるだろうなあ。おもしろくなるかも。そんなふうにはなりたくないけれど。
矛盾。
嫌いだけれど、傑作、と言わずにはいられない。
詩集を全部読み終わったあと、ふいに思い出す詩というものがある。最初に読んだときは、これは何かなあ、という奇妙なひっかかりが残る。それが何かわからないまま、最後まで読み、そのとき、ふっと思い出す詩というものがある。野田順子『蟻の日』の場合、最初に書かれている「かっぱのひみつ」が、そうした作品である。
真夏の真昼の草むらにひとりでたたずむ女の子
池からかっぱがねらってる
それ見てセミは笑ってる
だれかがかっぱにさらわれた
だれかがかっぱにさらわれた
かっぱを見た子は しばらく無口
じぶんがかっぱを見たなんて
じぶんがかっぱに見られたなんて
親友できたら打ち明け話
なんとびっくり親友も かっぱを見たことあるという
じぶんだけではなかったと ふたりで一緒にほっとする
親友の好きな男子の名前なら みんなに言っちゃう子もいるが
かっぱの話はだまってる
おとなはだれも気づかない
こうしてかっぱはいつまもひみつの場所に棲んでいる
最後の「ひみつ」ということばが、最初に読んだとき、ひっかかった。
「かっぱ」は架空の動物。その架空の動物を取り込んで、これはいったい何の寓話として書いているのか。かっぱは何の象徴なのか。そんなことを思うのだが……。
詩集を読み終わると、そうか、「ひみつ」か。かっぱではなく、「ひみつ」そのものを書きたかったのか、と気がつく。
『蟻の日』は、十分に愛された記憶のないひとの、暗い感じが漂う、不思議な詩である。怒るでもなく、悲しむでもなく、「こんなことがありました」と冷めた感情で、ねちねちと書いている。このとき、「ひみつ」は「十分に愛されなかった」という「事実」ではなく、そのときの「ねちねちとした気持ち」(そういう気持ちをもったということ)が「ひみつ」なのである。
「秘密」には二種類ある。ひとつは「聞きたい秘密」。「絶対に言ったらだめだよ」と言い、「言わない。だから聞かせて」。しかし、その「言わない」という約束は必ず破られる。それは「笑い話」として広がっていく。
もう一つは「聞きたくない秘密」。聞いても楽しくない。気が滅入る。それはカウンセリングか何かをするひとが「聞く秘密」かもしれない。『蟻の日』に書かれているのは、そういう「暗いひみつ」である。
「かっぱ」は、そういう「聞きたくないひみつ」の「比喩」、あるいは「象徴」である、と詩集を読み終わって、私は、やっと気づいた。そして、また、ほかのことにも気がついた。
この詩には「じぶん」という人間と「親友」が登場するが、この「親友」は「他人」ではないのではないか。「ふたり」ということばも出てくるが、「じぶん」と「親友」は「ひとり」の人間のことなのではないか。「じぶん」と「じぶんのなかのもうひとりのじぶん」。
「秘密」は聞かれたくないと同時に「聞いてほしい」ものである。「じぶん」ひとりで抱え込むのは、つらい。でも「聞いてもらえる」相手がいない。じぶん自身のなかに、もうひとり人間をつくりだし、そのひとに語ることで、気持ちを軽くするしかない。
親友できたら打ち明け話
最初は読み落としていたが「できたので」のはなく「できたら」。四連目は「過去」のことを書いているのではない。「仮定」のことを書いている。「仮定」なのだから、それを「仮定」するとき、そこには「親友」はまだ存在しない。「親友」は「じぶん」がつくりだしてものである。つまり、そこには「じぶん」という人間が「ひとり」いるだけである。
で、「ひみつ」とは、何か。
「かっぱ」か。「かっぱを見たこと」か。
そうではなくて、「おとなはだれも気づかない」ということ。「かっぱを見た/かっぱに見られたこと」におとなが気づかない、ではなくて、「かっぱの話はだまってる」ということにおとなは気づかない。それが「ひみつ」なのだ。
おとなは「じぶん(野田)」の体験していることに気づかない。「体験」を話さない(だまっている)ということに気づかない。それが「ひみつ」なのだ。
私は、先に、「ひみつ」そのものを書きたかったのか、と気がついたと書いた。これは、だから、おとなが気がつかなかった(おとなには話さなかった、おとなには隠していたということ)を書きたかったという意味になる。
実際、この詩集には野田がこどものときには話さなかったことが書かれている。特に、野田がおとなをどんなふうに見ていたかを書いている。このとき「おとな」は「かっぱ」である。「かっぱ」とは、野田が見たおとな、見ながら「見た」とは言わなかったおとなである。
その一例。「傷」という作品に描かれている、おとな。祖父の禿げ頭には傷がある。
祖父の傷は わたしがナイフでつけたものだという
「あのときおじいちゃんは黙って耐えていて
それだけあんたを愛していたんだよねえ」
傷は何センチもの長さで 幅と深さも一センチぐらいある
切りつけたというより肉を切りとったような感じだ
仮にわたしがひどく荒れていたとしても ここまではできないだろう
しかし家の者たちは 美しいものを見るかのような態度で
祖父のわたしへの愛情の証として傷をたたえている
引用の最後の二行は「批評」である。これが「ひみつ」、つまり「だまっていたこと」。行動は隠せない。しかし、「批評」はことばにしないかぎり(黙っているかぎり)、正確にはつたわらない。
おとなは、「じぶん(野田)」を利用して、「美しい」嘘をついている。「美しい」をおもてに出すことで、何かを隠している。そのことを見抜いている。しかし、見抜いているということを、野田は「ひみつ」にしたのである。
そもそもわたしは祖父に対して
暴力をふるいたいほどの激しい感情を抱いた覚えがない
もしもわたしが切りつけるなら 父か母が相手だったはずだ
なんなら今からやって見せようか……
ここには「いま」の「ひみつ」もある。「なんなら今からやって見せようか……」という決意は「ひみつ」。そして、そういうことばが「いま」、野田の肉体を突き破って出てくるのは、それに似た決意がずーっとつづいてきたということだろう。野田の肉体は、その決意を「覚え」つづけていた。決意を「抱き」つづけていた。「かっぱ……」に出てきた「ひみつの場所」とは野田の「肉体」のことである。野田の「肉体がおぼえていること」である。
こんな陰湿な詩集は嫌いだが、こんなに陰湿な詩集、そのことば魅力的だ。すごい。何度も読み返し、「ひみつ」をじぶんのなかにためこみたいような気持ちになる。私の肉体も野田の肉体のように「ひみつの決意」を抱え込めるようになると、私はずいぶんかわるだろうなあ。おもしろくなるかも。そんなふうにはなりたくないけれど。
矛盾。
嫌いだけれど、傑作、と言わずにはいられない。
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