阪井達生『おいしい目玉焼きの食べ方』は認知症の母親のことを書いている。特別にかわったことが書いてあるわけではないのだが、おもしろい。
「ボケはありません」という作品。
まるで「とんち話」である。するりと逃げていき、それが論理的なので、追及のしようがない。「そうですね」としか言えない。安倍の国会答弁より、はるかに「高級」である。知性を感じる。
ほんとうに認知症?
たしかに「ボケ」とは言えないなあ。というか、こんなに「論理的」に応答できるのに「認知症」と言っていいのだろうか。
「論理的」に反応することと、「認知症」は別の問題なのか。「脳」の、つかう部分が違うのだろうか。「脳」というのは有機的に結びついていないのだろうか。
こういう作品に対して、どう感想を書いていいのかわからないのだが、あ、こういうことってあるなあ、と思う。私は実際に「認知症」のひとと向き合ったことはないのだが、こういうひとっているなあ、と思う。こういう「認知症のひと」がいるというのではなく、こういう具合に「反論」できるひとがいるなあ、という感じ。「認知症」であるか、どうかを通り越して、「こういうひとがいる」という感じ。そして、その「ひと」が見える。阪井の書いている母親は「認知症」なのかもしれないが、その「認知症」という「枠」を突き破って、母親の中から「新しい母親(ほんとうは、隠されていた母親)」が生まれてくる感じなのかなあ。
阪井は、たぶん(きっと)、「おかあさん、ばかなこと言うんじゃないよ」という感じで母親を見ている。でも、どこが「ばかなこと」なのかは、よくわからない。「まっとうなこと」にしか見えない。求められる答えを答えないということが「ばか」なのか。求められる答えを答えれば、「正しい」のか。
従順じゃない、自分の言うことを聞いてくれない、という「いらいら」を「ばか」と呼んでいるだけかもしれない。他人を「ばか」と呼ぶとき、ひとは自分を「正しい(ばかではない)」と言いたいだけなのかもしれない。
考えはじめると、ちょっと難しい問題にぶつかってしまう。詩を読んでいるだけなのだから、そこまでは深入りせずに、うーん、おもしろい。こんなひとがいる、そのひとが目の前にいるように描き出すことばは楽しい、というところで止めておく。
何かあったら、もう一度考えよう。
と、思いながら読んでいくと「おいしい目玉焼きの食べ方」。
「認知症」の母は「マナー」にのっとった食べ方を忘れている。「忘れている」ということを指して「認知症」と呼ぶことはできるかもしれない。でも「認知症」だからといって何もできないことではない。卵焼きを食べることができる。それも「おいしい食べ方」で食べることができる。このときの「おいしい」は母親にとって「おいしい」ということである。母親は「食べ方」を発見したというよりも「おいしい」を発見している。
その「おいしい」は、たぶん母親が「肉体」で覚えていたこと。実際に崩れた卵焼きを舐めたのかどうかはわからないが、何かを舐めたことがあって、舐めるとおいしいということを覚えていて、それをつかっているのだ。「おいしい」が、どういうことか、「わかっている」のだ。「わかっている」ことを肉体をつかって、実践している--と、しつこく書いてしまうと、私の考えている「わかる」と「知る」の違い、「おぼえる」と「つかう」の関係など、「肉体」の問題になってしまうけれど……。阪井は、これを「ややこしい」ことにはせずに、ただ母親の姿を「描写」することでおしまいにしている。
で。
この詩のおもしろいのは。
「母は おいしい/目玉焼きの食べ方を発見したのだ」と阪井は書くのだが、この「発見」は母親の発見というよりも、阪井自身の「発見」だね。
「発見」は「発明」とちがって、すでに、そこにあること。「そこ」というのは、この詩の場合、ちょっとややこしいが「肉体」の内部。「肉体」が「おいしい」をおぼえていて、その「おいしい」を「おいしい」と感じたとき、どんなふうに「肉体」をつかったかをおぼえていて、そのおぼえている通りに、「肉体」を動かし、やっぱりこうするとおいしいということを再確認している。その再確認があまりになまなましいので「発見」したと思い込むだけで、実際は、そういう「食べ方」は、いつでも、どこでも見ることができるはずのものである。ただひとは「マナー」を前面に出して、そういう「食べ方」と「おいしい」を隠している。
母親が、その「おいしい食べ方」を「発見した(思い出した)」とき、それは母親が「発見」したというよりも、阪井が「発見」したのである。
母親がベロベロと皿を舐めている。崩れた卵焼きを食べている。この姿は、眼で見て、確認できる。けれど、そうやって食べたとき「おいしい」かどうか、それは母親が「おいしい」と言わないかぎり、確認できない。「わからない」。けれど、阪井には、それが「おいしい」と「わかる」。
これは道に誰かが倒れて腹を抱えてうめいているのを見たとき、あ、この人は腹が痛いのだと「わかる」のと同じである。他人の肉体の内部で起きていることが「わかる」。それが「わかる」のは、そういう「肉体の動き」を自分自身が「おぼえている」からである。自分が覚えていることを「発見」しているのである。
最後の行の「発見」には、そういう意味がある。
阪井は母の姿を見て、阪井自身がかつて皿をベロベロなめて、おいしいと思ったことを思い出している。過去を発見している。その阪井をたしなめた母の姿とことばも。
「発見」ということばは「おおげさ」かもしれない。でも、「おおげさ」ではない。「発見」ということばは、誰もが知っているので「おおげさ」には感じられないかもしれない。でも、これは「おおげさ」と感じなければならない、「大事」なことである。
この詩に「発見」ということばがなければ、この作品は詩にならない。
阪井の作品は、だれもが日常的につかうことばが、日常とおなじような感じでつかわれている。そこに書かれていることも、私たちが日常でみかけることがらである。「認知症の母親」ということばが引き寄せる「情報」は阪井がここに書いている以上のものである。阪井は、私たちの知っている「情報」だけで詩を書いているようにも見える。しかし、よく見ると、少し違う。この「少し違う」は、どうしても見過ごしてしまうし、また通りすごしてしまう。
私の感想は、阪井の書いていることを深く耕し直すというものではないけれど、あ、おもしろいと感じ、そこに立ち止まったということだけは書いておきたい。
「えんぴつがあれば」という作品。
この「心に強く残しておきたい」も、「発見」と同じ様に、とても美しい。この作品を中心に阪井の詩について書けば、また違った感想になる。この詩も好きだが、私は、母を描いたことばの方が不透明で、なまなましくて、やさしさがあふれていて好きだ。
「ボケはありません」という作品。
「今日は 何曜日ですか」
今は仕事も家事もしていません
もう何曜日は ないんです
「昨日は何を食べましたか」
食事はおいしく食べています
これでもお肉が大好きです
「それで 何を食べましたか」
ですから 全部食べています
食べてしまったので なくなっています
まるで「とんち話」である。するりと逃げていき、それが論理的なので、追及のしようがない。「そうですね」としか言えない。安倍の国会答弁より、はるかに「高級」である。知性を感じる。
ほんとうに認知症?
あんた 役所の福祉の人やな
物忘れはありません
頭だって はっきりして
ボケはありません
私の悪口 書類に書いたら
あかんで
たしかに「ボケ」とは言えないなあ。というか、こんなに「論理的」に応答できるのに「認知症」と言っていいのだろうか。
「論理的」に反応することと、「認知症」は別の問題なのか。「脳」の、つかう部分が違うのだろうか。「脳」というのは有機的に結びついていないのだろうか。
こういう作品に対して、どう感想を書いていいのかわからないのだが、あ、こういうことってあるなあ、と思う。私は実際に「認知症」のひとと向き合ったことはないのだが、こういうひとっているなあ、と思う。こういう「認知症のひと」がいるというのではなく、こういう具合に「反論」できるひとがいるなあ、という感じ。「認知症」であるか、どうかを通り越して、「こういうひとがいる」という感じ。そして、その「ひと」が見える。阪井の書いている母親は「認知症」なのかもしれないが、その「認知症」という「枠」を突き破って、母親の中から「新しい母親(ほんとうは、隠されていた母親)」が生まれてくる感じなのかなあ。
阪井は、たぶん(きっと)、「おかあさん、ばかなこと言うんじゃないよ」という感じで母親を見ている。でも、どこが「ばかなこと」なのかは、よくわからない。「まっとうなこと」にしか見えない。求められる答えを答えないということが「ばか」なのか。求められる答えを答えれば、「正しい」のか。
従順じゃない、自分の言うことを聞いてくれない、という「いらいら」を「ばか」と呼んでいるだけかもしれない。他人を「ばか」と呼ぶとき、ひとは自分を「正しい(ばかではない)」と言いたいだけなのかもしれない。
考えはじめると、ちょっと難しい問題にぶつかってしまう。詩を読んでいるだけなのだから、そこまでは深入りせずに、うーん、おもしろい。こんなひとがいる、そのひとが目の前にいるように描き出すことばは楽しい、というところで止めておく。
何かあったら、もう一度考えよう。
と、思いながら読んでいくと「おいしい目玉焼きの食べ方」。
半熟の目玉に
フォークを刺すものだから
持ち上がらず
黄身は皿の上に流れ出した
母はいきなり 手でつかんで
口に入れた
流れ出した黄身を
皿を持ち上げ
ベロベロと舐め始めた
パンをちぎって拭くものよ
野菜で絡め取るのも一つの方法
教えてくれたのは母だった
テーブルマナーなんかいらない
母は おいしい
目玉焼きの食べ方を発見したのだ
「認知症」の母は「マナー」にのっとった食べ方を忘れている。「忘れている」ということを指して「認知症」と呼ぶことはできるかもしれない。でも「認知症」だからといって何もできないことではない。卵焼きを食べることができる。それも「おいしい食べ方」で食べることができる。このときの「おいしい」は母親にとって「おいしい」ということである。母親は「食べ方」を発見したというよりも「おいしい」を発見している。
その「おいしい」は、たぶん母親が「肉体」で覚えていたこと。実際に崩れた卵焼きを舐めたのかどうかはわからないが、何かを舐めたことがあって、舐めるとおいしいということを覚えていて、それをつかっているのだ。「おいしい」が、どういうことか、「わかっている」のだ。「わかっている」ことを肉体をつかって、実践している--と、しつこく書いてしまうと、私の考えている「わかる」と「知る」の違い、「おぼえる」と「つかう」の関係など、「肉体」の問題になってしまうけれど……。阪井は、これを「ややこしい」ことにはせずに、ただ母親の姿を「描写」することでおしまいにしている。
で。
この詩のおもしろいのは。
「母は おいしい/目玉焼きの食べ方を発見したのだ」と阪井は書くのだが、この「発見」は母親の発見というよりも、阪井自身の「発見」だね。
「発見」は「発明」とちがって、すでに、そこにあること。「そこ」というのは、この詩の場合、ちょっとややこしいが「肉体」の内部。「肉体」が「おいしい」をおぼえていて、その「おいしい」を「おいしい」と感じたとき、どんなふうに「肉体」をつかったかをおぼえていて、そのおぼえている通りに、「肉体」を動かし、やっぱりこうするとおいしいということを再確認している。その再確認があまりになまなましいので「発見」したと思い込むだけで、実際は、そういう「食べ方」は、いつでも、どこでも見ることができるはずのものである。ただひとは「マナー」を前面に出して、そういう「食べ方」と「おいしい」を隠している。
母親が、その「おいしい食べ方」を「発見した(思い出した)」とき、それは母親が「発見」したというよりも、阪井が「発見」したのである。
母親がベロベロと皿を舐めている。崩れた卵焼きを食べている。この姿は、眼で見て、確認できる。けれど、そうやって食べたとき「おいしい」かどうか、それは母親が「おいしい」と言わないかぎり、確認できない。「わからない」。けれど、阪井には、それが「おいしい」と「わかる」。
これは道に誰かが倒れて腹を抱えてうめいているのを見たとき、あ、この人は腹が痛いのだと「わかる」のと同じである。他人の肉体の内部で起きていることが「わかる」。それが「わかる」のは、そういう「肉体の動き」を自分自身が「おぼえている」からである。自分が覚えていることを「発見」しているのである。
最後の行の「発見」には、そういう意味がある。
阪井は母の姿を見て、阪井自身がかつて皿をベロベロなめて、おいしいと思ったことを思い出している。過去を発見している。その阪井をたしなめた母の姿とことばも。
「発見」ということばは「おおげさ」かもしれない。でも、「おおげさ」ではない。「発見」ということばは、誰もが知っているので「おおげさ」には感じられないかもしれない。でも、これは「おおげさ」と感じなければならない、「大事」なことである。
この詩に「発見」ということばがなければ、この作品は詩にならない。
阪井の作品は、だれもが日常的につかうことばが、日常とおなじような感じでつかわれている。そこに書かれていることも、私たちが日常でみかけることがらである。「認知症の母親」ということばが引き寄せる「情報」は阪井がここに書いている以上のものである。阪井は、私たちの知っている「情報」だけで詩を書いているようにも見える。しかし、よく見ると、少し違う。この「少し違う」は、どうしても見過ごしてしまうし、また通りすごしてしまう。
私の感想は、阪井の書いていることを深く耕し直すというものではないけれど、あ、おもしろいと感じ、そこに立ち止まったということだけは書いておきたい。
「えんぴつがあれば」という作品。
僕はえんぴつが好きだ
サラサラと
どこにでも書けて
すぐに消せるから
ぼくの思いつきや空想は
すぐ変化してしまうので
強いボールペンの字より
消しゴムで消しながら また書いて
心に強く残しておきたいから
この「心に強く残しておきたい」も、「発見」と同じ様に、とても美しい。この作品を中心に阪井の詩について書けば、また違った感想になる。この詩も好きだが、私は、母を描いたことばの方が不透明で、なまなましくて、やさしさがあふれていて好きだ。
おいしい目玉焼きの食べ方 | |
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