詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

橋本千秋『夢の箱』

2015-09-14 09:00:39 | 詩集
橋本千秋『夢の箱』(編集工房ノア、2015年08月01日発行)

 橋本千秋『夢の箱』の詩篇には、亡くなったひとがたくさん出てくる(ように感じられる)。亡くなったひとと、静かに交流している。それは夢のようでもあるし、現実のようでもある。
 それについてはあとで触れることにして、まず、現実的(?)な詩。「濡れる木」。

新緑のブナ林を歩く。時折落ちてくる雫に首
を竦める。幹を撫でると手のひらが濡れる。
葉に溜まった雨が、雫になって幹に滴り落ち
ていく。ブナの根元に染み込んでいく。

雨の降る街角で傘も差さずに立っていた人。
雨が髪を濡らし、首筋を伝って落ちていく。
雫はもう、足元まで届いただろうか。

 ブナの木に触れて、街角で見かけた人を思い出している。あるいは逆かもしれない。街角で雨に濡れる人を見たとき、かつてブナの木に触れたことを思い出したのかもしれない。区別はない。
 違いは、ブナの木は実際に幹に触れて、雫の滴りを知った。そして、ブナの根元に雫(水分)が染み込んでいくのを、手で触って確かめたのだ。幹の根元が濡れる。土が濡れている。その「じわっ」とした冷たい感触。「見た」という視覚をこえる実感が「染み込んでいく」にある。一方、街角のひとの実際は、想像であるということだろう。「雫はもう、足元まで届いただろうか。」の「だろうか」は想像をあらわしている。
 ただ、この「想像」は「想像」だけれど、何か不思議なものを含んでいる。単に「想像」しているようには感じられない。「客観的想像」とは私には思えない。橋本自身が傘を差さずに濡れる人になっている感じがする。そして、髪を濡らし、首筋に雫が落ちるのを感じている。橋本には、そういう体験があるのかもしれない。雫が足元まで届く、ということも経験しているのかもしれない。経験があるからこそ、そこまで「想像」している。そのときの「想像」は「空想」ではなく、肉体がおぼえていることを「思い出す」ということでもある。
 で、この「思い出す」ということと、ブナの木の体験が重なる。もちろん、逆に言うこともできる。ブナの木の体験があるから、街角のひとの姿を自分の体験のように思い出すことができる。そういうこともできる。
 どちらの場合であっても、それは橋本の肉体的体験、橋本自身であるということ。「肉体」というのは、完全に「個別的」なものだからね。そういう「肉体」を思い出すとき、橋本は他人になっている。橋本の「肉体」が他人の「肉体」と重なり、その重なりの中で他人になって、濡れるということを私たちに語っている。それがおもしろい。
 この自分と他人の混じること(重なってしまうこと)を「交流」と呼ぶことができるかもしれない。そして、この「交流(自分と他人が混じること、融合すること)」というのは、橋本の詩集全体を貫くテーマになっているように思える。

 「梅雨晴間」という作品は、喫茶店かどこかの窓際にすわって人を待っている。歩道を待ち人が歩いてくる。手を振るが、見えないらしく、電話で「どこにいるの?」と問いかけてくる。「こちらから見えても、向こうからは見えない。」というのが一連目で、二連目は……。

晴れた空を見上げる。携帯電話に耳を当てる。
元気にしているかしら、別に用事はないんだ
けど、ちょっと顔を見たくてね。メモリーに
残った最後の声。向こうからは見えても、こ
ちらからは見えない。

 最後の部分が一連目とは違う動き。そして、そこに不思議なものがある。こちらからは見えないというのは、そのひとが死んでしまっているから見えない、ということ。でも携帯電話のメモリーを再生すると、まるでその人が生きているように声が聞こえる。それを聞きながら「向こうからは見える」と言い直している。これはもちろん橋本の「錯覚」なのだが、これがおもしろい。
 そうか、橋本がその人を思い出しているのではなく、その人が橋本を思い出し橋本に電話をかけてきている。そんなことは現実にはないのだけれど、そんなふうにことばを動かす。このとき、橋本はそのひとを思い出しているのではなく、そのひとに「なっている」。
 他人と交流するとき、橋本は自分ではなくなる。他人に「なる」。そして他人から橋本に呼びかけてくる。他人は、いつでも「生きている」。橋本は「交流する」のではなく、「交流される」のである。「交流する」という「動詞」はあっても、「交流される」という「受け身」の形では、ふつうはつかわれない。だから「交流される」というのは間違った言い方なのだが……。でも、「交流される」のだ。
 「主語(主体)」はあくまで他人、死者。
 「死者」が生きかえり、「交流する」ということは、もちろんありえない。そのありえないことが、「交流される」という奇妙な動詞のあり方としてなら、存在しうる。こういうことは「論理」を逸脱しているが、こんなふうに論理を逸脱してしまうところに、詩がある。ことばで説明しようとすればするほど、何か間違ってしまうしかない生々しい部分に、詩がある。

夢の箱―橋本千秋詩集
橋本千秋
編集工房ノア
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