高塚謙太郎『花嫁』(Aa計画、2015年09月15日発行)
高塚謙太郎『花嫁』は、読むとき「声」を出した方がおもしろいかもしれない。私は音読はしないので、カンで言っているだけなのだが。(黙読でも、私は、のどが疲れる。)
音が繰り返される。この引用部分でいちばんわかりやすいのは「ひかりは斜めにもたてにもすぎていく/あるとともにすぎゆく春/ひなあられもすぎゆく」の「すぎていく」のずれ。
そういう「ひととくり」の「意味」とは別に「あたる」「あると」「ある」という音、「あたる」「あると」「あられ」という変化や「にも」「にも」「ともに」「あられも」「ともに」の「も」の繰り返しも「肉体」のなかに残る。
「意味」とは無関係な、こういう音の響き具合が快く、おもしろい。
高塚は何か「意味(ストーリー)」を書こうとしているのか、どうか。よくわからない。ことばをストーリーで統一しようとしているのか、どうか。わからない。私の「感覚の意見」では、音にのってことばを動かしている、動かすことで快感を追い求めている、という印象である。音とセックスしている感じである。
で、その音からいうと(私の音の感覚、あるいは黙読したときののどや舌の動きの感じからいうと)、「日のあたるむすびめにしばらくあると」の「しばらく」はつまずいてしまう。音(本能/欲望)ではなく「意味」としてことばが動いている。セックスだったら「そこは違う。感じない」とおもわず拒絶するようなことばだ。私なら。
同じように音というよりも「意味」が動いている部分でも、たとえば
という部分の「見せ消ち」などは、音そのものとしても全体の響きを突き破っているのでおもしろい。
「のんどであったり」の「のんど」ということばも、私はつかわないが、ここでは「ん」と「っ」の無声音のリズムを響かせていておもしろいと思う。
私が引用しているのは「春らんまん」という作品なのだが、その最後の方、
「音」を中心に高塚のことばが動いていることが「意味」として書かれすぎている感じがしないでもないが、書かずにはいられなかったんだろうなあ。
「おと(音)」「声」が「耳」「舌」と言い換えられている部分、さらに「おぼえている」ということばから「ゆび」という「音/声」から離れた「肉体」への移行(ずれ、ひろがり)、さらには「匂い(嗅覚/鼻)」へとことばが動いていくことについては、私には言いたいことがたくさんある。「誤読」したいことがたくさんあるのだが、それを書きはじめると、高塚の詩から離れて行き過ぎるおそれがあるので、ここでは書かない。書くととても長くなり、めんどうくさくなる。ただ、この部分からは、いろいろなことを考えたとだけ書いておく。(いつか、私自身の考えていることがもう少し論理的になったら書いてみたいことではある。)
「意味(ストーリー)」を追うのではなく、音の響きあいの楽しさに酔えばいいのだと思った。酔うことで高塚と「一体」になれる、ことばのセックスができると思った。
「肉体」と「ことば」の関係で、少しだけ書いておくと、やはり「見せ消ち」ということばが出てくる、「夏なんです」のなかの一行、
というのはおもしろいなあ。「寝息」は自分の息ではなく、他人の息。それを聞いている「耳」は「わたし(筆者/話者)」の耳なのだが、ここに書かれている「耳(はちいさくかわいい)」は寝息を立てているひとの「耳」。けれど、「わたし」が「寝息」を「聞く」とき、「聞く」という「動詞」のなかでふたりの「耳」が融合して、区別がつかなくなる。「聞く」という「動詞」は、「みせ消ち」どころか書かれていないが、「肉体」的には「みせ消ち」状態である。「寝息」は見るものではなく聞くものである。聞こえるものである。そういう融合のあとに、「耳はちいさくかわいい」ということばがつづくと、まるで「わたし」が「寝息」をたてている人物になって、かわいい存在になっているような感じがする。実際、何か(対象)を「かわいい」というとき、そのひと自身も「かわいい」ひとになっているのだろう。
「わたし」と「他者」の「肉体」は「分離」しているがゆえに、「接続」している。こういう「矛盾」をかかえた部分にセックスの至福がある。そんな思いを刺激してくる行である。(これは高塚の詩への「感想」というよりも、私の考えていることのメモである。)
高塚謙太郎『花嫁』は、読むとき「声」を出した方がおもしろいかもしれない。私は音読はしないので、カンで言っているだけなのだが。(黙読でも、私は、のどが疲れる。)
日のあたるむすびめにしばらくあると
ひかりは斜めにもたてにもすぎていく
あるとともにすぎゆく春
ひなあられもすぎゆく
いともたやすく日はうごくが
ともにながめていた気分のさしこみに
ふたりしてある
音が繰り返される。この引用部分でいちばんわかりやすいのは「ひかりは斜めにもたてにもすぎていく/あるとともにすぎゆく春/ひなあられもすぎゆく」の「すぎていく」のずれ。
そういう「ひととくり」の「意味」とは別に「あたる」「あると」「ある」という音、「あたる」「あると」「あられ」という変化や「にも」「にも」「ともに」「あられも」「ともに」の「も」の繰り返しも「肉体」のなかに残る。
「意味」とは無関係な、こういう音の響き具合が快く、おもしろい。
高塚は何か「意味(ストーリー)」を書こうとしているのか、どうか。よくわからない。ことばをストーリーで統一しようとしているのか、どうか。わからない。私の「感覚の意見」では、音にのってことばを動かしている、動かすことで快感を追い求めている、という印象である。音とセックスしている感じである。
で、その音からいうと(私の音の感覚、あるいは黙読したときののどや舌の動きの感じからいうと)、「日のあたるむすびめにしばらくあると」の「しばらく」はつまずいてしまう。音(本能/欲望)ではなく「意味」としてことばが動いている。セックスだったら「そこは違う。感じない」とおもわず拒絶するようなことばだ。私なら。
同じように音というよりも「意味」が動いている部分でも、たとえば
かかとおとしのおとをきくと
ししおどしのかかとの声がする
いいな
これがにっぽんの春にほんの春
せんじつめればかなづかいにすぎない
口づたえの見せ消ちから
もれきこえるひそひそおもいは
やりきれずに乳房にまわすのんどであったり
やり水のまいたなでさすりそっくりかえりであったり
こん
というのはいったいいずれのおとなのか
という部分の「見せ消ち」などは、音そのものとしても全体の響きを突き破っているのでおもしろい。
「のんどであったり」の「のんど」ということばも、私はつかわないが、ここでは「ん」と「っ」の無声音のリズムを響かせていておもしろいと思う。
私が引用しているのは「春らんまん」という作品なのだが、その最後の方、
いったんわびでもいれようかとお茶をすすった
おとがまたなんともお春の
わらい声と入れかわりたちかわりわたしの耳を
さいなむのでございます
お春のおととわらい声とでございます
それはわたしの舌もしっかりとおぼえていることで
おもわず自分のゆびをくわえこんでしまいました
ああやはりあのおとだ
あのおとだ
おまけに匂いもそんな雰囲気かもしはじめるし
「音」を中心に高塚のことばが動いていることが「意味」として書かれすぎている感じがしないでもないが、書かずにはいられなかったんだろうなあ。
「おと(音)」「声」が「耳」「舌」と言い換えられている部分、さらに「おぼえている」ということばから「ゆび」という「音/声」から離れた「肉体」への移行(ずれ、ひろがり)、さらには「匂い(嗅覚/鼻)」へとことばが動いていくことについては、私には言いたいことがたくさんある。「誤読」したいことがたくさんあるのだが、それを書きはじめると、高塚の詩から離れて行き過ぎるおそれがあるので、ここでは書かない。書くととても長くなり、めんどうくさくなる。ただ、この部分からは、いろいろなことを考えたとだけ書いておく。(いつか、私自身の考えていることがもう少し論理的になったら書いてみたいことではある。)
「意味(ストーリー)」を追うのではなく、音の響きあいの楽しさに酔えばいいのだと思った。酔うことで高塚と「一体」になれる、ことばのセックスができると思った。
「肉体」と「ことば」の関係で、少しだけ書いておくと、やはり「見せ消ち」ということばが出てくる、「夏なんです」のなかの一行、
寝息をみせ消ちにして耳はいちさくかわいい
というのはおもしろいなあ。「寝息」は自分の息ではなく、他人の息。それを聞いている「耳」は「わたし(筆者/話者)」の耳なのだが、ここに書かれている「耳(はちいさくかわいい)」は寝息を立てているひとの「耳」。けれど、「わたし」が「寝息」を「聞く」とき、「聞く」という「動詞」のなかでふたりの「耳」が融合して、区別がつかなくなる。「聞く」という「動詞」は、「みせ消ち」どころか書かれていないが、「肉体」的には「みせ消ち」状態である。「寝息」は見るものではなく聞くものである。聞こえるものである。そういう融合のあとに、「耳はちいさくかわいい」ということばがつづくと、まるで「わたし」が「寝息」をたてている人物になって、かわいい存在になっているような感じがする。実際、何か(対象)を「かわいい」というとき、そのひと自身も「かわいい」ひとになっているのだろう。
「わたし」と「他者」の「肉体」は「分離」しているがゆえに、「接続」している。こういう「矛盾」をかかえた部分にセックスの至福がある。そんな思いを刺激してくる行である。(これは高塚の詩への「感想」というよりも、私の考えていることのメモである。)
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