詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

松岡政則『艸の、息』

2015-09-22 15:02:04 | 詩集
松岡政則『艸の、息』(思潮社、2015年09月20日発行)

 私は詩を読むときはたいていひとりで読んでいるが、複数のひとと読むとおもしろい詩がある。松岡政則『艸の、息』はひとりで読むより、だれかと一緒に読んだ方がはるかに楽しい詩集である。
 「漕ぐひと」はブランコを漕いでいる「中年の地味なおんな」を描いている。「現代詩講座@リードカフェ」で、受講者と一緒に読むと、読むとこんな感じになる。

ぐいぐい漕いでいる
ぐいぐいぐいぐい漕いで
しずかに怒っている
だれとも上辺だけのつきあいで
ふつうでいるのもたいへんで
思いを口にせずに生きてきたひとなのだろう
まだ怒りたりないような
いいやもうどうでもいいような
ほんとうはおんなにもよくわからない
たいがいそんなところだ

<質  問> 知らないことば、わからないことばってある?
<受講者1> ない。
<受講者2> とてもよくわかる。こういう人を見たことがある。
<質  問> では、最後の「たいがい」って、言い直すと、どうなる?
<受講者2> ええっ、「たいがい」は「たいがい」。
<受講者3> 「たいてい」「おおよそ」「てきとう」
<質  問> 「正確」ではない、100パーセントではない、ということ?
<受講者3> 100パーセントではない。
<質  問> では、その前の行の「よくわかる」の「よく」は言い直せる?
<受講者4> 「よく」は「よく」。
<受講者3> 「わかる」を強調している。
<質  問> なぜ、「よく」わかる、と「よく」をつけて強調したのかなあ。
<受講者1> よくわかったから。
<質  問> 100パーセントわかった? 
       よくわかったのに、なぜ、「だいたい」?
       矛盾していない?

 こんなふうに質問すると、受講者のあいだに、困惑が広がる。なぜ、こんな簡単な詩なのに、こんな面倒くさいことを聞かれる? この「困惑」のなかに、ひとりひとりがくっきりと見えてくる。これが、実に楽しい。「意味」ではなく、ひとりひとりの「肉体」が動いている。
 うまく言い直せない。松岡の書いていることばを、そのまま反復してしまう。「丸飲み」にしてしまう。逆に、読んでいて、まるごと松岡のことばに飲まれてしまう感じと言えばいいのかな?
 詩って、べつに面倒なことを考えなくても、そのまま「丸飲み」して、「これが好き」と言うだけで十分じゃない?
 あ、そうなんだけれど、私は意地悪で聞くのである。

<質  問> では、「ぐいぐい漕いでいる」の「ぐいぐい」は?
<受講者1> 「ぐいぐい」は「ぐいぐい」。
<受講者2> 力をこめて。
<質  問> 力をこめるって、どういうこと?
<受講者1> ええっ、力をこめるは力をこめる。
<質  問> どこに? どんなふうに?
<受講者4> ブランコが下がってくるとき、からだをつんのめるようにして。
<質  問> そんなふうに漕いだことある?
<受講者4> ある。
<質  問> したことあるから、わかるんだね。
       なんとなく、「肉体」でわかる。
       「肉体」が何かを思い出すんだね。

 ことばで説明しようとすると、なんだかめんどうくさい。言い直す必要がない。言い直さなくても「わかる」。それは、ことばを「頭」で理解しているからではなく、「肉体」で受け止めているからだ。「肉体」が反応している。
 ブランコをぐいぐい漕いでいるのは、おんな。それは他人。詩を書いている松岡でもない。その他人が「わかる」。読んでいる読者の「肉体」がブランコを漕ぐという「肉体」の動きをそのまま「わかる」。自分ではブランコを漕いでいないのに、漕いでいる気持ちなってしまう。「ぐいぐい」と漕ぐ。そのときの「肉体」の動きを思い出してしまう。どこに、どんなふうに、どれくらい力を入れたか、とういようなことはめんどうくさくて言い切れないが「ぐいぐい」で全部「わかる」。
 そこから松岡は、「しずかに怒っている」以下のことを想像している。

<質  問> この想像、どう思う?
<受講者1> その通りだと思う。
<受講者2> さっき言ったけれど、こういうひと見たことがある。
<受講者4> いるよね。
<質  問> でも、ほんとうに怒っている? 聞いてみた?
<受講者3> そんなこと、知らないひとに聞けない。
<質  問> じゃあ、どうして怒っているが正しいと言える?
<受講者3> ええっ、……。

 私は意地悪だから、こんな質問をする。受講者は即座には答えないけれど、なぜ「わかる」かといえば、自分で、どうしようもない怒りを、そんなふうにして発散したことがあるからだ。「肉体」がそれを覚えているからだ。ブランコを漕いだかどうかはわからない。坂道を駆け上ったのかもしれない。道端の草を薙ぎ倒したのかもしれない。台所で汚れ物を洗ったかもしれない。いつもと違う感じで、何か力を込めて。「肉体」のなかから何かを押し出すような気持ちで。「ぐいぐい」。
 「ぐいぐい」は何かを押し出そうとする感じなのだ、と私なら言い直す。ただ、即座に、そういうことばにはたどりつけない。何度も自分の「肉体」が覚えていることを思い出す。そうして、押し出しても押し出しても、まだ何かが「肉体」のなかに残っているという、いやな感じも思い出す。それがだんだん「もうどうでもいいや」というような気持ちに変わってくるのも思い出す。
 これは「正解」ではない。「正確」ではない。「おんな」がそう言ったわけではない。でも、「だいたい」そんなところだ。「だいたい」なのに、それを「よく」わかると言える。それは「おんな」のことが「よく」わかるのではなく、自分のこととして「よく」わかるのだ。おんなのひとの感じていることは、だいたい「こんなこと」。それに反応している自分の気持ちが「よく」わかる。このとき、読者(私)、そして詩人の松岡は「おんな」そのものになっている。「おんな」と一体になって、区別がない。
 「わかる」というのは、だれかと「一体」になってしまうこと。「一体」になってしまうと、ついつい「よく」わかる、と思い込む。
 この「一体になる」ことを、松岡は別のことばで言っている。「野歩き」という作品を読む。

どっくん、どっくん
つよい脈動のある土地だ
ゆだんのならない引きもある
近づくとはどういうことをいうのか
ここには善し悪しの境目がない
どうしていいのかわからないお辞儀をする
おおもとに定まって
艸の時間になるのをまつ
そうやって野っぱらをひろげるのだ
それ以外に思いつかない
木苺のしろい花
からだのなかがあかるくなる
土地をうたがわないこと
境がないを生きること

 「境目がない」「境がない」。これが「一体」である。
 知らない土地、知らないひと。そこでは何を行動の基準(規範)にしたらいいのか、「どうしていいのか」わらかない。でも、ひとにであったら「お辞儀をする」。「肉体(身振り)」で挨拶をする。これは人間の「おおもと」の姿。そうやって、「肉体」と「肉体」がつながっていく。私はあやしいものではありません、が「挨拶」の基本。お辞儀はそのはじまり。それが、野に艸がひろがっていくように、他人の「肉体」のなかにひろがっていくのを「まつ」。「肉体」がつながるのを「まつ」。
 「漕ぐひと」を思い出そう。
 松岡は、ブランコを漕ぐひと(おんな)を見ていた。それは見ることを通して、「松岡の肉体」が「おんなの肉体」につながるのを「まつ」ということなのだ。見ているあいだに「ぐいぐい」という「肉体」の動かし方を感じる。それにあわせて松岡のなかの「ぐいぐい」が動きはじめる。そうして、おんながほんとうに怒っているかどうかはわからないのに、松岡が怒りをかかえて「肉体」がいらいらしたときのことを思い出し、「だれとも上辺だけのつきあいで/ふつうでいるのもたいへんで/思いを口にせずに生きてきた」というようなことも思い出す。このとき松岡は「おんな」との「境(境目)」をなくしている。おんなだけではなく、まわりにいる多くのひととの「境(境目)」のないところを生きている。
 この詩集のことばは、そういう「境(境目)」のないところをくぐって動きはじめたことばで書かれている。「肉体」をくぐりぬけたことばで書かれている。

 (松岡の詩については何度も書いてきたので、今回は、少しちがった視点から書いてみた。結果として同じことを書いたことになるかもしれないけれど。)

艸の、息
松岡政則
思潮社

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