斎藤健一「郊外」(「乾河」74、2015年10月01日発行)
斎藤健一の詩に触れるたびに、そのとき私が感じたことをどう書けばいいのか、とまどってしまう。書いてあることが、わかる。けれど、わからない。その「わかる」と「わからない」をつないでいるもの、切断しているものをどう書いていいのかとまどう。
「郊外」という作品。
わからない(知らない)ことばは何一つない。ひとつひとつの文(句点「。」で区切られたことば)は、それぞれ完結している。わかる。けれど、そこで「断絶」し、そのあと次の文へ動くとき、そこにあるのが「接続」なのか、さらなる「断絶」なのか、あるいは「飛躍」なのか、よくわからない。
別なことばで言うと「ストーリー」にならない。「時間」の流れにならない。ことばを「肉体」で追いかけるとき、そこに自然に「肉体」の運動が生まれ、それが「ストーリー(意味)」になるのだが、斎藤のことばは、そういうことを拒んでいる(ように見える。)
そして、不思議なことに、その「拒絶」を私はいいなあ、と感じるのだ。そこにひとりの人間がいるという感じが伝わってきて、妙に寂しさと安心を覚える。
他者に頼らない。ただ斎藤とことばとの関係があるだけだ。その関係を他人(私)がどう読もうが関係ない、という潔さのようなものがある。潔癖を感じる。
こんなことは、いくら書いても「批評」にはならないし、「感想」でもないのだが。
具体的に感じたことを書いてみる。
これは花火の描写。いろいろな色があるが斎藤は「桃色」に目を止めた。私は色よりも「染まる」という「動詞」がおもしろいと思った。花火について、その色について、「染まる」とは、私は、言わない。書いてあることはわかるが、そこに、私と斎藤との「ずれ」のようなものがある。「ずれ」はそのまま斎藤という人間がそこにいる、私とは違った人間がいるということを教えてくれる。
「染まる」というのは「変化」。斎藤は花火の色の中に「変化」を見ているのだな、と思う。
硝子越しに花火を見ているのだろうか。「染まる」のは「花火」ではなく窓ガラスかもしれない。そして花火を見ている斎藤の顔(目)かもしれない。花火の変化ではなく、斎藤の「肉体」の変化が、書き出しの文に、遅れて反映しているのかもしれない。「靴下よりもつめたい」というのは不思議な表現である。斎藤の「肉体」の冷えが、「つめたい」ということばとぶつかっている。あたたかさのための靴下が肌に触れた瞬間につめたい(靴下があたたかいのは、はいた人間の体温をためこむから。最初からあたたかいわけではない)と感じる、その肉体感覚が、肉体がそこにあるということを強調する。
その衝突の中に「硝子」がやってくる。
このあとは、「硝子」越しの世界がつづく。「硝子」は「レンズ」と通じる。
硝子窓越しに、区切られたフレームのなかで花火を見ているのは、写真師が写真を撮るときの様子に似ているかもしれない。斎藤は「写真師」という人間を出すことで、彼に自分の「肉体」を重ねている。自分を「比喩」にし、対象化している。
硝子のこちら側(部屋のなかは)暗い。それは古い写真機をかまえる写真師に似ている。「シャッターを切る」は「眼鏡」を「とじる」と言い直されるが、同時に「上顎をとじる」とも言い直される。「上瞼」ではなく「上顎」。なぜだろう。私はつまずくが、つまずきながら「肉体」が「目」から「顔」全体へと広がった、押し広げられた感じを覚える。
これはシャッターを切った瞬間に、写真機の内部で起きる「光の切断」(光の分離)のようなことを書いているのだろうか。「楕円形」。焦点がふたつある。
世界が、ふたつにわかれていく。
「花火」を見ていたとき、そこには斎藤の「肉体」と、斎藤の「外部(の世界)」があった。「花火」を見ているということを意識するとき(写真師になって、外部を把握するとき)、その「外部」に向き合うようにして、斎藤の「肉体」の「内部」に、花火とは別の「外部」が生まれる。それは「外部」であると同時に、斎藤の「内部(記憶)」と交錯する。
どこの場所だろう。不明だが、その不明よりも「細長く」と中途半端に終わっている、そのことばの形が気になる。一瞬長いコンクリートの床(廊下?)が目に浮かぶが、それは「廊下」という知っていることばになる寸前に中断され、
と別なものに焦点があてられる。「花火」の光っては消える光のせいで、照らされているものが違うということか。それは「現実」の斎藤のいる場所の風景のようにも見えるが、私は斎藤の「記憶の風景」(斎藤の肉体が覚えている風景)のように感じてしまう。
光っては消える花火のように、斎藤の記憶が光っては消える。「細長く。」につづいて「や。」と、また中途半端な形でことばが終わる。
何が起きているのだろう。
「上顎をとじる」ということばに対して、「記憶がひらく」という感じで「ひらく」という「動詞」を補って読みたい。
「ひらく」は存在がその形に姿をあらわす、存在をひらいてみせる、ということ。それが、花(花火)がひらいて見えるように、見えるということ。
これも、斎藤の「肉体」が覚えている記憶、記憶がいま花のようにひらいて、そこに存在している。ことばの「脈絡」は、そこに書かれていない「ひらく」という動詞の動きにある。最初の
の「染まる」も「ひらく」と読み直すことができるかもしれない。「桃色にひらく花火。」
そして、そうであるなら、記憶が「ひらく」ということは、記憶に斎藤の「肉体」が「染まる」ということと同じである。「染まる」ことで、「過去(記憶)」そのものになる。「過去(記憶)」が、そして「いま」になる。「いま」「過去」の区別がなくなり、ここに存在する。
とじられていた記憶が(存在が)、次々に「ひらく」。「いま」が「過去」に「染まる」。そこに存在から存在への「切断」と「接続」がある。そして、その切断/接続、過去/いまの、交錯が「世界」であり、その世界は……
「ひろい」のである。
「ひらく」は「ひろい」という「用言」のなかに隠れて、詩はとじられる。
最初、斎藤は硝子窓から、外の花火を見ていた。その窓硝子が、いま、「鏡」にかわっている。鏡に映るのは斎藤と、その背後。斎藤と、過去というふうに読み直すと、
そういう「断片」が「過去の記憶の断片」として、もういちどよみがえってくる。「過去」が「いま」となって、動きはじめる。「過去」を思い出している斎藤の肉体が静かに感じられる。その肉体はどこかへ動いていくというのではなく、「いま/ここ」にあって、「ひらく」「染まる」という動きを生きている。世界を「ひらく」「染まる」という動詞のなかで確認している肉体の孤独を感じる。
私の読み方は「誤読」以外の何ものでもないだろう。
こういう「誤読」を斎藤のことばは許してくれるが、同時に、きっぱりと拒んでもいる。私の「誤読」に染まらずに、斎藤のことばは、そこに最初から同じ姿で、ただ存在している。
その強靱さに、私はいつもひかれてしまう。
この強靱さは、私が何を言おうとゆるがない。だから、私は、何回でも「誤読」を繰り返す。そのことばを楽しむ。
*
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斎藤健一の詩に触れるたびに、そのとき私が感じたことをどう書けばいいのか、とまどってしまう。書いてあることが、わかる。けれど、わからない。その「わかる」と「わからない」をつないでいるもの、切断しているものをどう書いていいのかとまどう。
「郊外」という作品。
桃色に染まる花火。靴下よりはるかにつめたい硝子。写
真師は黒い布の中。眼鏡と同時に上顎をとじる。無色の
光は楕円形である。コンクリートの床は細長く。四角い
額縁や置時計や。ザラ紙に午前十時と書いてある。セロ
ファンと包まれた桔梗。理髪店の鏡に似せてひろいのだ。
わからない(知らない)ことばは何一つない。ひとつひとつの文(句点「。」で区切られたことば)は、それぞれ完結している。わかる。けれど、そこで「断絶」し、そのあと次の文へ動くとき、そこにあるのが「接続」なのか、さらなる「断絶」なのか、あるいは「飛躍」なのか、よくわからない。
別なことばで言うと「ストーリー」にならない。「時間」の流れにならない。ことばを「肉体」で追いかけるとき、そこに自然に「肉体」の運動が生まれ、それが「ストーリー(意味)」になるのだが、斎藤のことばは、そういうことを拒んでいる(ように見える。)
そして、不思議なことに、その「拒絶」を私はいいなあ、と感じるのだ。そこにひとりの人間がいるという感じが伝わってきて、妙に寂しさと安心を覚える。
他者に頼らない。ただ斎藤とことばとの関係があるだけだ。その関係を他人(私)がどう読もうが関係ない、という潔さのようなものがある。潔癖を感じる。
こんなことは、いくら書いても「批評」にはならないし、「感想」でもないのだが。
具体的に感じたことを書いてみる。
桃色に染まる花火。
これは花火の描写。いろいろな色があるが斎藤は「桃色」に目を止めた。私は色よりも「染まる」という「動詞」がおもしろいと思った。花火について、その色について、「染まる」とは、私は、言わない。書いてあることはわかるが、そこに、私と斎藤との「ずれ」のようなものがある。「ずれ」はそのまま斎藤という人間がそこにいる、私とは違った人間がいるということを教えてくれる。
「染まる」というのは「変化」。斎藤は花火の色の中に「変化」を見ているのだな、と思う。
靴下よりはるかにつめたい硝子。
硝子越しに花火を見ているのだろうか。「染まる」のは「花火」ではなく窓ガラスかもしれない。そして花火を見ている斎藤の顔(目)かもしれない。花火の変化ではなく、斎藤の「肉体」の変化が、書き出しの文に、遅れて反映しているのかもしれない。「靴下よりもつめたい」というのは不思議な表現である。斎藤の「肉体」の冷えが、「つめたい」ということばとぶつかっている。あたたかさのための靴下が肌に触れた瞬間につめたい(靴下があたたかいのは、はいた人間の体温をためこむから。最初からあたたかいわけではない)と感じる、その肉体感覚が、肉体がそこにあるということを強調する。
その衝突の中に「硝子」がやってくる。
このあとは、「硝子」越しの世界がつづく。「硝子」は「レンズ」と通じる。
写真師は黒い布の中。眼鏡と同時に上顎をとじる。
硝子窓越しに、区切られたフレームのなかで花火を見ているのは、写真師が写真を撮るときの様子に似ているかもしれない。斎藤は「写真師」という人間を出すことで、彼に自分の「肉体」を重ねている。自分を「比喩」にし、対象化している。
硝子のこちら側(部屋のなかは)暗い。それは古い写真機をかまえる写真師に似ている。「シャッターを切る」は「眼鏡」を「とじる」と言い直されるが、同時に「上顎をとじる」とも言い直される。「上瞼」ではなく「上顎」。なぜだろう。私はつまずくが、つまずきながら「肉体」が「目」から「顔」全体へと広がった、押し広げられた感じを覚える。
無色の光は楕円形である。
これはシャッターを切った瞬間に、写真機の内部で起きる「光の切断」(光の分離)のようなことを書いているのだろうか。「楕円形」。焦点がふたつある。
世界が、ふたつにわかれていく。
「花火」を見ていたとき、そこには斎藤の「肉体」と、斎藤の「外部(の世界)」があった。「花火」を見ているということを意識するとき(写真師になって、外部を把握するとき)、その「外部」に向き合うようにして、斎藤の「肉体」の「内部」に、花火とは別の「外部」が生まれる。それは「外部」であると同時に、斎藤の「内部(記憶)」と交錯する。
コンクリートの床は細長く。
どこの場所だろう。不明だが、その不明よりも「細長く」と中途半端に終わっている、そのことばの形が気になる。一瞬長いコンクリートの床(廊下?)が目に浮かぶが、それは「廊下」という知っていることばになる寸前に中断され、
四角い額縁や置時計や。
と別なものに焦点があてられる。「花火」の光っては消える光のせいで、照らされているものが違うということか。それは「現実」の斎藤のいる場所の風景のようにも見えるが、私は斎藤の「記憶の風景」(斎藤の肉体が覚えている風景)のように感じてしまう。
光っては消える花火のように、斎藤の記憶が光っては消える。「細長く。」につづいて「や。」と、また中途半端な形でことばが終わる。
何が起きているのだろう。
「上顎をとじる」ということばに対して、「記憶がひらく」という感じで「ひらく」という「動詞」を補って読みたい。
無色の光は楕円形「にひらく・の」である。コンクリートの床は細長く「ひらく」。四角い額縁や置時計や「他のものも、かたちとしてひらく」。
「ひらく」は存在がその形に姿をあらわす、存在をひらいてみせる、ということ。それが、花(花火)がひらいて見えるように、見えるということ。
ザラ紙に午前十時と書いてある。セロファンと包まれた桔梗。
これも、斎藤の「肉体」が覚えている記憶、記憶がいま花のようにひらいて、そこに存在している。ことばの「脈絡」は、そこに書かれていない「ひらく」という動詞の動きにある。最初の
桃色に染まる花火
の「染まる」も「ひらく」と読み直すことができるかもしれない。「桃色にひらく花火。」
そして、そうであるなら、記憶が「ひらく」ということは、記憶に斎藤の「肉体」が「染まる」ということと同じである。「染まる」ことで、「過去(記憶)」そのものになる。「過去(記憶)」が、そして「いま」になる。「いま」「過去」の区別がなくなり、ここに存在する。
とじられていた記憶が(存在が)、次々に「ひらく」。「いま」が「過去」に「染まる」。そこに存在から存在への「切断」と「接続」がある。そして、その切断/接続、過去/いまの、交錯が「世界」であり、その世界は……
理髪店の鏡に似せてひろいのだ。
「ひろい」のである。
「ひらく」は「ひろい」という「用言」のなかに隠れて、詩はとじられる。
最初、斎藤は硝子窓から、外の花火を見ていた。その窓硝子が、いま、「鏡」にかわっている。鏡に映るのは斎藤と、その背後。斎藤と、過去というふうに読み直すと、
コンクリートの床は細長く。四角い額縁や置時計や。ザラ紙に午前十時と書いてある。セロファンと包まれた桔梗。理髪店の鏡
そういう「断片」が「過去の記憶の断片」として、もういちどよみがえってくる。「過去」が「いま」となって、動きはじめる。「過去」を思い出している斎藤の肉体が静かに感じられる。その肉体はどこかへ動いていくというのではなく、「いま/ここ」にあって、「ひらく」「染まる」という動きを生きている。世界を「ひらく」「染まる」という動詞のなかで確認している肉体の孤独を感じる。
私の読み方は「誤読」以外の何ものでもないだろう。
こういう「誤読」を斎藤のことばは許してくれるが、同時に、きっぱりと拒んでもいる。私の「誤読」に染まらずに、斎藤のことばは、そこに最初から同じ姿で、ただ存在している。
その強靱さに、私はいつもひかれてしまう。
この強靱さは、私が何を言おうとゆるがない。だから、私は、何回でも「誤読」を繰り返す。そのことばを楽しむ。
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リッツォス詩選集――附:谷内修三「中井久夫の訳詩を読む」 | |
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