豊原清明「シナリオ こころ・の・手」ほか(「白黒目」55、2015年08月発行)
豊原清明「シナリオ こころ・の・手」はことばのなかに「過去」がある。ことばが「過去」をもって動いている。つまり、生きている人間として、肉体として動いている。その「過去」は具体的にはどういうものかわからないが、「過去」があるということがわかる。実際に生きている人間(肉体)に出会ったとき、その人の「肉体」が生きている、「過去」を生きてきて、「いま/ここ」にいると感じるのと同じである。
この「声」の登場の仕方(登場のさせ方)が、また「過去」である。何かを無意識にしようとしていて、ふいに声をかけられる。その声によって、無意識から意識へ、ぐいっと引っ張られる。こういうことも、だれもが経験したことである。人間に共通する「ひとつの過去」である。
声をかけてきたひとに、何度か同じ「過去」を目撃された。そして、いま「過去」を繰り返そうとしているのか、と問われる。
その「まだ」という短いことばのなかに「過去」がかたまっている。
そして、その「過去」が「ひとつの過去」であり、「人間に共通するもの」であるからこそ、そこから石を握った真由子がふっとあらわれるとき、それは「煙草の箱を投げる赤土」ではなく、「石を投げる真由子」の肉体になる。真由子が石を握っただけで、赤土には真由子が石を投げるということが、「肉体」として、わかってしまう。「ひとつの過去」という「無意識」を通って、真由子の「肉体の運動」があらわれるのを、赤土は自分の「無意識の肉体」の動きとして、「肉体」の内部でわかってしまう。それは赤土が抑制している赤土の「肉体(欲望/本能)」でもある。わかってしまうから、「危ない。やめとけ。」ということばが行為よりも先にあらわれる。
こういう「瞬間」を豊原は説明抜きで、がしっと掴み取り、ことばにしてしまう。
そのあとの、「事故」と「逮捕劇」も必要最小限のことばで書かれている。「映画」だから、ことばはいらない。シナリオだから、「行為」の指示だけが書かれている。この省略が美しい。
「夜」の描写もおもしろい。具体的には何も書いていない。書いていないけれど、そこに「過去」があることが、わかる。そんなふうにして赤土と真由子が歩いたことは何度かあるのだ。そのときのふたりの台詞は逆だったかもしれない。きっと、逆だったに違いない。逆だけれど「ひとつの肉体」なので、区別がなくなっている。
「焼き芋屋の声がする。」というのは、唐突な「現実」の挿入だけれど、こういう現実の侵入を取り込んでしまうことを、映画では「クオリティーが上がる」と呼んだりする。虚構が現実にかわり、現実が虚構を突き破って動いていく。
「あっち」が「どっち」か、ことばだけではわからない。けれど、「過去」を抱え込んでいる「肉体」には、それが、わかる。
豊原は、こういう「肉体がわかっていること(ことば)」を書き留めるとき、とてもいきいきしている。とても美しい。
「白黒目」55には俳句、短歌も書かれている。
「捕まえてから」が強い。朝の光が転がっている石をつかみとる。浮かび上がらせる。そこから一日が始まり、夏がはじまる。石にあたる夏の強い光の始まり、それを見た記憶「過去」がふいに目の前にあらわれてくる。忘れていた「過去」(無意識になってしまっている過去)が、噴出してくるのを感じる。
「肉体」とことばが激しく拮抗している。互いを突き破ろうとしている。
豊原清明「シナリオ こころ・の・手」はことばのなかに「過去」がある。ことばが「過去」をもって動いている。つまり、生きている人間として、肉体として動いている。その「過去」は具体的にはどういうものかわからないが、「過去」があるということがわかる。実際に生きている人間(肉体)に出会ったとき、その人の「肉体」が生きている、「過去」を生きてきて、「いま/ここ」にいると感じるのと同じである。
○ 交通道路前の歩行道(朝)
赤土誠(41)が、リュックから煙草の箱をとり出して、
向うの歩道に届くように投げられるか、どうか、試している。
声「あの赤土さん…」
赤土、はっと、振り返る。
山内真由子(41)が立っている。
真由子「まだ届く?(赤土の手を見る)」
赤土、無言でベンチに座る。
煙草吸って、咳き込む。
真由子、石を握る。
赤土「危ないで、やめとけ。」
真由子、投げる。
走っている車の窓が割れる。
逮捕される、真由子。
赤土「違う! わてや。 違う! わてやって!」
○ 横断歩道(夜)
信号を渡って通る。
赤土の声「始めからこうしとったらヨカッタわ。」
真由子、じっと、窓を見つめている。
焼き芋屋の声がする。
真由子「あっちいこ!」
赤土が「過去」に何度か煙草の箱を向こう側の歩道まで投げていたことがわかる。なぜ、そんなことをするのか。ただ自分の力を確かめたいのである。こどものとき石をどこまで投げられるか確かめたくて、河に向かって(海に向かって)投げるようなものである。しかし、それは、まあ、あとからつける「理由」。別に自分の力を確かめるという明確な目的があるわけでもない。なんとなく、投げるのである。説明できる「理由」もなく、投げる。
それは、赤土の「過去」なのか。豊原の「過去」なのか。あるいは、私の「過去」なのか。「過去」というのは、どこかで混じりあっている。「ひとつの肉体」になっている。その「ひとつ」を感じさせる素早さが豊原のことばのなかにある。赤土、豊原、私(谷内)を区別している余裕を与えないスピードの剛直さが、豊原のことばのなかにある。
声「あの赤土さん…」
赤土、はっと、振り返る。
山内真由子(41)が立っている。
この「声」の登場の仕方(登場のさせ方)が、また「過去」である。何かを無意識にしようとしていて、ふいに声をかけられる。その声によって、無意識から意識へ、ぐいっと引っ張られる。こういうことも、だれもが経験したことである。人間に共通する「ひとつの過去」である。
声をかけてきたひとに、何度か同じ「過去」を目撃された。そして、いま「過去」を繰り返そうとしているのか、と問われる。
「まだ届く?」
その「まだ」という短いことばのなかに「過去」がかたまっている。
そして、その「過去」が「ひとつの過去」であり、「人間に共通するもの」であるからこそ、そこから石を握った真由子がふっとあらわれるとき、それは「煙草の箱を投げる赤土」ではなく、「石を投げる真由子」の肉体になる。真由子が石を握っただけで、赤土には真由子が石を投げるということが、「肉体」として、わかってしまう。「ひとつの過去」という「無意識」を通って、真由子の「肉体の運動」があらわれるのを、赤土は自分の「無意識の肉体」の動きとして、「肉体」の内部でわかってしまう。それは赤土が抑制している赤土の「肉体(欲望/本能)」でもある。わかってしまうから、「危ない。やめとけ。」ということばが行為よりも先にあらわれる。
こういう「瞬間」を豊原は説明抜きで、がしっと掴み取り、ことばにしてしまう。
そのあとの、「事故」と「逮捕劇」も必要最小限のことばで書かれている。「映画」だから、ことばはいらない。シナリオだから、「行為」の指示だけが書かれている。この省略が美しい。
「夜」の描写もおもしろい。具体的には何も書いていない。書いていないけれど、そこに「過去」があることが、わかる。そんなふうにして赤土と真由子が歩いたことは何度かあるのだ。そのときのふたりの台詞は逆だったかもしれない。きっと、逆だったに違いない。逆だけれど「ひとつの肉体」なので、区別がなくなっている。
「焼き芋屋の声がする。」というのは、唐突な「現実」の挿入だけれど、こういう現実の侵入を取り込んでしまうことを、映画では「クオリティーが上がる」と呼んだりする。虚構が現実にかわり、現実が虚構を突き破って動いていく。
真由子「あっちいこ!」
「あっち」が「どっち」か、ことばだけではわからない。けれど、「過去」を抱え込んでいる「肉体」には、それが、わかる。
豊原は、こういう「肉体がわかっていること(ことば)」を書き留めるとき、とてもいきいきしている。とても美しい。
「白黒目」55には俳句、短歌も書かれている。
夏石を捕まえてからけふが来る
「捕まえてから」が強い。朝の光が転がっている石をつかみとる。浮かび上がらせる。そこから一日が始まり、夏がはじまる。石にあたる夏の強い光の始まり、それを見た記憶「過去」がふいに目の前にあらわれてくる。忘れていた「過去」(無意識になってしまっている過去)が、噴出してくるのを感じる。
海を見て自由感ずる我なりて山は大きな課題となりぬ
コンビニで立ち読みという暮しにも我は慣れしや今は行かない
手の中に収まるものは手のみじつと見つめて泣いているのか
「肉体」とことばが激しく拮抗している。互いを突き破ろうとしている。
夜の人工の木 | |
豊原 清明 | |
青土社 |