松岡政則『艸の、息』(2)(思潮社、2015年09月20日発行)
松岡政則『艸の、息』を読むと「肉体」がざわめく。きのう、架空の「現代詩講座」のやりとりを書いてみたが、私は、講座でみんなと一緒に詩を読むのが好きである。私が意地悪で、奇妙な質問をすると、受講者の「肉体」がざわめく。その「音」が聞こえてくる。「わかる」のに、「わかっている」ということを言いたいのに、ことばにならない。それをことばにしようとするとき、「肉体」が動く。ざわめく、のである。「肉体」が松岡の「肉体」と重なり、その重なりのなかで、何かをつかもうとしている。セックスしている感じ。「ここなら一緒に感じる(気持ちがいい)かな」と「肉体」を探している感じ、「欲望」、いや「本能」を探している、その手探りの動くが「ざわめき」となって聞こえてくる。
これはひとりで読むときはどんなふうに動くか。私がひとりで松岡の詩を読んでいるときは、どう動くか。私の「肉体」はどう動いているか、ということから言い直してみると……。
きのう読んだ「漕ぐひと」。
引用の一行目の「ぐいぐい漕いでいる」はブランコをおんなの描写。二行目の「ぐいぐいぐいぐい漕いで」は、しかし、おんなの描写ではない。あることばを繰り返すとき、松岡は、そのことばで表現していることを自分自身の「肉体」で再現している。ただ再現するだけではなく、のめりこむように「肉体」のなかへ入っていく。「ぐいぐい漕いでいる」ではなく、「ぐいぐいぐいぐい漕いで」いる。「ぐいぐいぐいぐい」はおんなの「肉体」のなかで起きていることではなく、松岡の「肉体」のなかで起きている。
こういうことを指して、私は「ことばがセックスしている」と呼ぶ。(それは「ことばの肉体」がセックスしている、ということであり、「肉体がことばになって」セックスしているということである。)セックスしていると、あいての「肉体」のなかで起きている変化がわかるが、それはほんとうに「あいての変化」なのか、それとも「私がかってに妄想していること」なのか、よくわからない。たぶん、「妄想」の部分の方が強いだろう。つまり、「あいて」のことが「わかる」のではなく、セックスを通して「あいて」になってしまっている。
そういうことが松岡にも起きる。三行目の「しずかに怒っている」が、それ。
ブランコを漕いでいるおんながほんとうに「しずかに怒っている」かどうか、わからない。おんながそう言ったわけではない。松岡が、「おんな(セックスのあいて)」になってしまって、妄想し、それを語っている。ほんとうは松岡の気持ちにすぎないのに、おんなはこう感じていると思い込んでいる。
同じように、私は松岡になって、松岡が思い込んでいるように、「おんな」のこころのありようを勝手に思い込んでいる。
「思い込み」なのだけれど、こういう「思い込み」は「たいがい」あたっている。人間の「肉体」は、そんなにちがわない。それぞれが別個の「肉体」であるけれど、どこかでつながっている。「感情」や「精神」がつながっているのではなく、「肉体」そのものがつながっている。
これは松岡自身の体験でもあるし、ひとから聞いたことばでもあるだろう。(私の体験でもある。)「肉体」でつながっていることがらであり、それがたまたまこういう「ことば」になっている。「ことば」を聞く(読む)というより、ひとの「声」を聞いている感じがする。
こういう「肉体の声」というのは、なんといえばいいのか、「論理」ではない。
たとえば先日国会で成立した「戦争法」の「法律」を論理的に説明するときには何の役にも立たない。ここに書かれていることばで何かを説明し、それを発展させるということばではない。そこで「おしまい」のことばである。「肉体」のなかで「おしまい」。つまり「完結」している。
ある意味では、役に立たない。役に立たないけれど、人間がそこにいるとき、そこに「肉体」があるように、しっかり存在している。その「存在」にふれる。その「存在」とつながる、そういう感じだ。
で、そういう「完結」にふれると、あ、人間というのは自分をこんなふうに「完結」させて、ととのえることができるということが「肉体」でわかる。そこに不思議な「連帯」がある。
「漕ぐひと」には、もう一か所「繰り返し」がある。
ここでも松岡はおんなを描写しながら、「おんなの肉体」になっている。「おんなの感情(こころ)」になっている。「加減はない容赦はない」の「加減」や「容赦」は、説明しようとすると難しい。
辞書を引きたくなるかもしれない。「意味」は「辞書」で引けば出てくるが、そんな面倒なことをしなくても、「肉体」はそのことがわかっている。わかりすぎている。わかりすぎていて、説明する必要がないから説明できないのである。
こういうおもしろい現象(?)は「漕ぐひと」のように一種、抒情的というか、精神(感情)を刺激してくる「風景」とはまったく無縁の「日常」にもある。
「土徳」という作品。「ばあさまが莚をひろげて/干したぜんまいを撚っている/ぼくもしゃがんでまぜてもらう」。そして、話をするのだが……
「川」は「川」と知っている、わかっている。それで十分。それに特別な名前をつけて区別する必要がない。「川」はひとつなのである。
「加減はない容赦はない」は「ことば」は違うが、この「川」のようなもの。それは「ひとつ」。「ひとつ」なのに、面倒くさいことに「ふたつ」の言い方をされている。「加減はない」「容赦はない」は、さらに「漕いでいる」とも「ひとつ」になっている。「肉体」のなかで「ひとつ」になって結びついている。
ここから「分節/未分節」という言語理論を借用し、「川の名前(分節されたもの/学問)」を「分節」、「川」を「未分節」のものと言うこともできる。「未分節」のものが「未分節」の形で分節されてきており、そのために松岡は「「川」としか呼んだことがなあ、という」ことばに感動し(そこに詩を感じ)、そのままそれを再現しているということができる。しかし、これは私の考えというよりも単に理論を借用しあてはめてみただけのことであり……。
これを私なりに言い直すと、セックスのとき、「肉体」のつっつきかたで、あ」という声が出たり、「う」という声が出たりするが、それと同じように、「同じもの」が一瞬の反応で違う形になっているだけのことである。(この違う形になるということが大切なことだけれども、私が言いたいのは、違いよりも「ひとつ」の方。)
松岡のことばは、この「肉体」は「ひとつ」という部分を通ってきている。
その土地のひとは「川」を「川」としか呼んでいない。そういう「肉体」を生きてきている。「川」と呼ぶことでわかりあえる「肉体」がそこにある。ことばはいつでも「肉体」の都合にあわせて動いている。その「都合」を松岡は、出会うひと、出会う土地でそれぞれつかんでいる。そして「都合」にあわせている。言い換えると、セックスして、なじんでいる。そのセックスへ還るようにして、ことばを動かしている。「都合」にこそ、「現実」がざわめいている。それを松岡は聞き取り、声にしている。
それが、この詩集だ。
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支払方法は、発送の際お知らせします。
松岡政則『艸の、息』を読むと「肉体」がざわめく。きのう、架空の「現代詩講座」のやりとりを書いてみたが、私は、講座でみんなと一緒に詩を読むのが好きである。私が意地悪で、奇妙な質問をすると、受講者の「肉体」がざわめく。その「音」が聞こえてくる。「わかる」のに、「わかっている」ということを言いたいのに、ことばにならない。それをことばにしようとするとき、「肉体」が動く。ざわめく、のである。「肉体」が松岡の「肉体」と重なり、その重なりのなかで、何かをつかもうとしている。セックスしている感じ。「ここなら一緒に感じる(気持ちがいい)かな」と「肉体」を探している感じ、「欲望」、いや「本能」を探している、その手探りの動くが「ざわめき」となって聞こえてくる。
これはひとりで読むときはどんなふうに動くか。私がひとりで松岡の詩を読んでいるときは、どう動くか。私の「肉体」はどう動いているか、ということから言い直してみると……。
きのう読んだ「漕ぐひと」。
ぐいぐい漕いでいる
ぐいぐいぐいぐい漕いで
しずかに怒っている
だれとも上辺だけのつきあいで
ふつうでいるのもたいへんで
思いを口にせずに生きてきたひとなのだろう
まだ怒りたりないような
いいやもうどうでもいいような
ほんとうはおんなにもよくわからない
たいがいそんなところだ
引用の一行目の「ぐいぐい漕いでいる」はブランコをおんなの描写。二行目の「ぐいぐいぐいぐい漕いで」は、しかし、おんなの描写ではない。あることばを繰り返すとき、松岡は、そのことばで表現していることを自分自身の「肉体」で再現している。ただ再現するだけではなく、のめりこむように「肉体」のなかへ入っていく。「ぐいぐい漕いでいる」ではなく、「ぐいぐいぐいぐい漕いで」いる。「ぐいぐいぐいぐい」はおんなの「肉体」のなかで起きていることではなく、松岡の「肉体」のなかで起きている。
こういうことを指して、私は「ことばがセックスしている」と呼ぶ。(それは「ことばの肉体」がセックスしている、ということであり、「肉体がことばになって」セックスしているということである。)セックスしていると、あいての「肉体」のなかで起きている変化がわかるが、それはほんとうに「あいての変化」なのか、それとも「私がかってに妄想していること」なのか、よくわからない。たぶん、「妄想」の部分の方が強いだろう。つまり、「あいて」のことが「わかる」のではなく、セックスを通して「あいて」になってしまっている。
そういうことが松岡にも起きる。三行目の「しずかに怒っている」が、それ。
ブランコを漕いでいるおんながほんとうに「しずかに怒っている」かどうか、わからない。おんながそう言ったわけではない。松岡が、「おんな(セックスのあいて)」になってしまって、妄想し、それを語っている。ほんとうは松岡の気持ちにすぎないのに、おんなはこう感じていると思い込んでいる。
同じように、私は松岡になって、松岡が思い込んでいるように、「おんな」のこころのありようを勝手に思い込んでいる。
「思い込み」なのだけれど、こういう「思い込み」は「たいがい」あたっている。人間の「肉体」は、そんなにちがわない。それぞれが別個の「肉体」であるけれど、どこかでつながっている。「感情」や「精神」がつながっているのではなく、「肉体」そのものがつながっている。
だれとも上辺だけのつきあいで
ふつうでいるのもたいへんで
思いを口にせずに生きてきたひとなのだろう
まだ怒りたりないような
いいやもうどうでもいいような
これは松岡自身の体験でもあるし、ひとから聞いたことばでもあるだろう。(私の体験でもある。)「肉体」でつながっていることがらであり、それがたまたまこういう「ことば」になっている。「ことば」を聞く(読む)というより、ひとの「声」を聞いている感じがする。
こういう「肉体の声」というのは、なんといえばいいのか、「論理」ではない。
たとえば先日国会で成立した「戦争法」の「法律」を論理的に説明するときには何の役にも立たない。ここに書かれていることばで何かを説明し、それを発展させるということばではない。そこで「おしまい」のことばである。「肉体」のなかで「おしまい」。つまり「完結」している。
ある意味では、役に立たない。役に立たないけれど、人間がそこにいるとき、そこに「肉体」があるように、しっかり存在している。その「存在」にふれる。その「存在」とつながる、そういう感じだ。
で、そういう「完結」にふれると、あ、人間というのは自分をこんなふうに「完結」させて、ととのえることができるということが「肉体」でわかる。そこに不思議な「連帯」がある。
「漕ぐひと」には、もう一か所「繰り返し」がある。
おんなはついに立って漕ぎだした
ひざをまげ、ひざをまげ
漕ぎに漕いでいる
加減はない容赦はない漕いでいる
ここでも松岡はおんなを描写しながら、「おんなの肉体」になっている。「おんなの感情(こころ)」になっている。「加減はない容赦はない」の「加減」や「容赦」は、説明しようとすると難しい。
<質 問> 「加減はない」と「容赦はない」を自分のことばで言い換えてみて。
<受講者1> ええっ、「加減はない」は「加減はない」としか言えない。
<質 問> 「加減はない」と「容赦はない」の違いは?
辞書を引きたくなるかもしれない。「意味」は「辞書」で引けば出てくるが、そんな面倒なことをしなくても、「肉体」はそのことがわかっている。わかりすぎている。わかりすぎていて、説明する必要がないから説明できないのである。
こういうおもしろい現象(?)は「漕ぐひと」のように一種、抒情的というか、精神(感情)を刺激してくる「風景」とはまったく無縁の「日常」にもある。
「土徳」という作品。「ばあさまが莚をひろげて/干したぜんまいを撚っている/ぼくもしゃがんでまぜてもらう」。そして、話をするのだが……
川のなまえをたずねると
「川」としか呼んだことがなあ、という
学がなあけぇ知らんのよ、と笑う
「川」は「川」と知っている、わかっている。それで十分。それに特別な名前をつけて区別する必要がない。「川」はひとつなのである。
「加減はない容赦はない」は「ことば」は違うが、この「川」のようなもの。それは「ひとつ」。「ひとつ」なのに、面倒くさいことに「ふたつ」の言い方をされている。「加減はない」「容赦はない」は、さらに「漕いでいる」とも「ひとつ」になっている。「肉体」のなかで「ひとつ」になって結びついている。
ここから「分節/未分節」という言語理論を借用し、「川の名前(分節されたもの/学問)」を「分節」、「川」を「未分節」のものと言うこともできる。「未分節」のものが「未分節」の形で分節されてきており、そのために松岡は「「川」としか呼んだことがなあ、という」ことばに感動し(そこに詩を感じ)、そのままそれを再現しているということができる。しかし、これは私の考えというよりも単に理論を借用しあてはめてみただけのことであり……。
これを私なりに言い直すと、セックスのとき、「肉体」のつっつきかたで、あ」という声が出たり、「う」という声が出たりするが、それと同じように、「同じもの」が一瞬の反応で違う形になっているだけのことである。(この違う形になるということが大切なことだけれども、私が言いたいのは、違いよりも「ひとつ」の方。)
松岡のことばは、この「肉体」は「ひとつ」という部分を通ってきている。
その土地のひとは「川」を「川」としか呼んでいない。そういう「肉体」を生きてきている。「川」と呼ぶことでわかりあえる「肉体」がそこにある。ことばはいつでも「肉体」の都合にあわせて動いている。その「都合」を松岡は、出会うひと、出会う土地でそれぞれつかんでいる。そして「都合」にあわせている。言い換えると、セックスして、なじんでいる。そのセックスへ還るようにして、ことばを動かしている。「都合」にこそ、「現実」がざわめいている。それを松岡は聞き取り、声にしている。
それが、この詩集だ。
艸の、息 | |
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ご希望の方は、
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なお、「谷川俊太郎の『こころ』を読む」(思潮社、1800円)と同時購入の場合は2000円(送料込)、「リッツォス詩選集――附:谷内修三 中井久夫の訳詩を読む」(作品社、4400円)と同時購入の場合は4500円(送料込)、上記2冊と詩集の場合は6000円(送料込)になります。
支払方法は、発送の際お知らせします。