詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

松川紀代「先祖」

2015-09-17 10:29:48 | 詩(雑誌・同人誌)
松川紀代「先祖」(「オリオン」31、2015年08月20日発行)

 松川紀代「先祖」の書き出しがおもしろい。

 きのう、先祖に会ってきた。
 なぜ先祖とわかったかというと、会うなり内臓のかたちが私と似ているような(気がした)し、指先の爪にも見覚えがあったからだ。

 「内臓のかたちが似ている」か。うーん、「内臓のかたち」って、見える? 見えない。見えないけれど、言われると見えるような気もするのだ。「内臓のかたち」なんて、外見(人間の外の形)に比べると、きっと区別がつかないなあ。私は外科医ではないので、区別ができるほど「内臓のかたち」を見ていないしねえ。「区別できない」から、瞬間的に「似ている」ということばに納得してしまうのかなあ。
 道にだれかが倒れている。腹をかかえてうめいている。あ、腹が痛いのだ。自分の肉体ではないのに、そういうことが「わかる」のに似ているかな?
 で。
 「気がした」ということばがカッコに入っている。カッコに入っているけれど、それは隠れているのではなく、カッコを突き破ってはみだしている。「気」は、「肉体」からあふれてくるものなのだろう。この「気のあらわれ方」が、たぶん、何よりも「似ている」。言い換えると「気がした」ということばこそが「内臓(のかたち)」に思えてしまう。松川の表記を見ていると、何だか、「気」がはみだした「内臓」のように思えてしまうのだ。
 ちょっと脱線するが……。
 「気」とか「こころ」、あるいは「精神」とか「魂」とかいうことばがある。「気」は「魂」にいちばん近いかな? よくわからないが、私は実は、そういうものがあるとは思っていない。
 「頭」というものにも、何かしらの疑問をもっている。
 人間は「肉体」のどこで考えるか。感じるか。「頭」で考え、「こころ」で感じる。そう言う言い方が一般的だが、もしかすると「膵臓」で考え、「盲腸」で感じているかもしれない。髪の毛や指先で「考え」たり「感じ」たりしているかもしれない。「脳」はそれを整理しているだけかもしれない。「こころ」とか「精神」とか「魂」ということばをつかって。私はそう思っている。
 「どこ」と特定できないところで動いているのが「気(気持ち/こころ/感情)」というものではないか。「肉体」の全体が微妙に交わりながら動いているのが「こころ(精神/魂)」ではないか、と思っている。
 そんなことを考えているから「内臓のかたち」(気がした)ということばに反応したのかもしれない。うまく説明できないが、うん、わかる。うーん、とってもよくわかる、と納得したのである。
 そのあとの「爪にも見覚えがあった」の「見覚え」もいいなあ。目が(肉体)が「覚えている」。覚えていることは、見れば、思い出す。思い出して、これは「だれそれの爪だ」と言うことができる。覚えていることは「つかえる」のである。この詩では、それを「つかう」ところまでいっていないが、はんぶん、つかっている。はんぶん、納得している。この感じもいいなあ。

 私は女に生まれたので、その先祖は男であるような気がした。先祖とは私の命をのばしてくれる存在だと聞いている。だから男なのだろう。

 ここには「論理」があるのか。「だから」と松川は「論理」としての「結論」を導くためのことばをつかっているが、ここには「だから」をつかえば「論理」になるという「ことばの肉体」があるだけで、実際は、こういうことを「論理」とは言わない。言わないからこそ、とてもおもしろい。
 何それ。
 そう思うとき、私は松川の「不透明なもの」に向き合っている。松川の肉体が何かを隠しているのだが、その隠しているものが見えず、ただ松川の肉体(存在)だけが見える。こういうときが、おもしろい。
 「だから」は、「内臓のかたち」のようなものである。それは「似ている」。その「似ている」ということを「つかって」、「だから男なのだろう。」という「論理(結論)」になるのだが、まあ、こんなことは、カッコ入りの「気がした」くらいのものである。

 私たちは横並びに座って、草原のほの明るい風の動きを感じていた。何かおしゃべりしたような気がするが、何を話したか今はまったく覚えていない。ただ、何か二三話しただけで満ち足りている。その先祖はいつ消えるかわからないような風情で、時々雲がさあっと流れ、草の上を光のゴムまりが走ってゆく。満ち足りるとはこのようにもの悲しく、特に人にことばを漏らすようなことではない。

 何を話したか覚えていない。けれど、話したことは覚えている。「気がする」という形で「覚えている」。「気」は「内臓」となって「肉体」のなかへ帰っていったのだ。「内臓」が動けば、きっと「思い出す」ことができる。そして「覚えている」ということができるだが、そんなことは、まえ「思い出す」必要はない。「内臓」が「満ち足り」れば、それでいい。

時々雲がさあっと流れ、草の上を光のゴムまりが走ってゆく。

 この美しい光景を「目(肉体)」が覚えていればいい。
 ほら、「見覚え」があるでしょ? 雲の動きも、光の動きも。この動きに「光のゴムまり」という「比喩」をつかったところが、松川の「肉体(個性)」をあらわしている。松川はゴムまりで遊んだことを「覚えている」。「肉体」が覚えていて、それが「光のゴムまり」という「気(魂/純化されたこころ?)」になって噴出してきたのだ。
 いいなあ、この部分。
 「だから男なのだろう」の「論理」は不透明でよくわからないが、この「ゴムまり」の「比喩」は透明で美しい。「永遠」と触れ合っている。

 詩の最終行。先祖と会ったことが、

 私の記憶には白っぽい紡錘形の内臓のあたたかみが残っている。

 あ、また「内臓」が出てきた。
 松川は「内臓」で感じたり、考えたりする詩人なのだ。「内臓のかたち」は「内臓のあたたかみ」に変わっている。「かたち」は触覚でもとらえることができるが、もっぱら視覚でとらえるのが一般的だろう。「あたたかみ」は視覚でも感じることがあるが、触覚の方が一般的だろう。その二つが、「内臓」という「場」で融合している。「ひとつ」になっている。融合して、新たに「覚えられている(記憶されている)」。この「覚えている感じ」は、また別のときに、「形」になり、「あたたかみ」になり、「気」として噴出してきて、人間を動かすのである。

異文化の夜
松川紀代
書肆山田
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする