詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

たかぎたかよし「好天、歩いていると」

2015-09-20 10:19:56 | 詩(雑誌・同人誌)
たかぎたかよし「好天、歩いていると」(「LEIDEN雷電」8、2015年09月05日発行)

 シルバーウィーク、秋の連休。
 なので、たかぎたかよし「好天、歩いていると」を読んでみる。たかぎは、きょう、この詩を書いたわけではないが、詩は書いたひとの事情なんか気にしないものである。読むひとがかってに読むものである。

林が見えます
道が縫っています どれが本道だったものやら

穂など持ってすっくと立っているのは 大気に充ちていますね
あいつは好かんなどは言わないよ 人みたいに

花はいいなあ これが色ですと
カタバミ タンポポ 大犬フグリ……

やがて褪せて でもまた次のが
エアポケットのように闇が忍んでいるからね

あ 鳥が騒ぎ出しました
大気が色を変えてからかっているのですよ 人もね ふふ

 「大気に充ちています」ということばが、広々としていて透明で、ちょっと宮沢賢治風。秋にいいかなあ、と思う。「カタバミ タンポポ 大犬フグリ……」だから、秋ではないんだけれど。まあ、気にしない。(たかぎは、気にしてほしいと言うかもしれないけれど。)
 その前の「穂など持ってすっくと立っている」の方が宮沢賢治風?
 たぶん、ふたつが呼び掛け合って宮沢賢治風なのかも。
 い、や、そのあとの「あいつは好かんなどは言わないよ」が宮沢賢治?
 あ、私は宮沢賢治を教科書で読んだくらいしか知らないのだけれど、宇宙的な広さと、垂直性(直立性?)が交錯する感じが、宮沢賢治だと思っている。
 一連目の「どれが本道だったものやら」も、時間と空間が解放されてしまって(自在になって)、ただそこに「現実の場(もの/存在)」があるという感じで、とてもうれしい。具象(具体)が抽象を突き破る感じがあって、わくわくする。
 こんなふうにしてパソコンに向かって文字を書いているのではなく、どれがほんとうの道かわからないような原っぱや林へ行って、ただ歩き回れば楽しいだろうになあ、という気持ちになる。そうすれば、私の「肉体」を突き破って、何かが動く。この詩にふさわしいことばが動くかもしれないとも思う。
 三連目の「これが色ですと」というゆったり「迂回」する感じの音もいいなあ。
 でも、四連目で「やがて褪せて」、妙にしめっぽい音で、私は、ここが嫌いなんだけれど。さらに「闇が忍んでいるからね」ということばが「意味」をひっぱってくるようで、つまずいてしまう。「自由」がなくなった感じ。

 でも。(と、もう一度言う。)

 最終連。もう一度「大気」が出てくる。「大気が色を変えて」というのは夕方、夕焼けとともに空気の色が変わることを行っているのだろうけれど「からかっている」が「無意味」でいい。
 「意味」を忘れるのが、たぶん、詩なのだ。
 「どれが本道だったものやら」を「どれが本当だったものやら」と読み替えて、「どっちでもいいじゃない」とも思う。「頭」が出会うものが「ほんもの」ではなく、「肉体」が出会ったものが「ほんとう」なのだ。歩いて、出会って、からかわれて(からかって)、それでも「生きているもの」が「好天の大気」のなかにある。

 ひとは、広々としたところで遊ばないといけないなあ。
 私は、連休も仕事だなあ……。

うつし世を縢る―詩集
たかぎたかよし
編集工房ノア
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