安藤元雄『樹下』(書肆山田、2015年09月05日発行)
安藤元雄『樹下』の作品にはタイトルがなく、書き出しの一文字が大きく印字されている。「樹」ではじまる詩が巻頭から三篇つづいている。私が引用するのは三篇目。活字の大きさをうまく反映できないので、同じ大きさで引用する。
樹の葉、その「葉先」が揺れるのを「追う」。何で「追う」かというと、次の行に出てくる「目」で追う。書き出しの「記憶」とは「目の記憶」になるだろう。安藤の感覚は「目」で統一されている。「目」が感覚を統合している、と言えるかもしれない。繊細というよりも、強靱な「目」である。その「強靱さ」が「葉先」をとらえる。
この詩に先立つ、巻頭の詩。
私は、この詩の書き出しの「背後から」にずいぶんとまどった。なぜ、「背後から」と書きはじめるのか、わからなかった。次の行の「小屋の屋根越しに」もわからなかった。実際に「目」に見えるのは「窓の前」の「葉裏の先」。
しかし、「目」は見たものを「記憶」している。そのことが先に引用した三篇目の詩でわかった。樹の位置を記憶している。樹の枝の形を記憶している。その「記憶」を抱え込んで、いま「背後」ではなく、「窓の前」の「葉裏の先」を見ている。「記憶」が「いま/目の前」にある存在をととのえている。そして、ととのえながら、焦点をしぼりこんでいる。
「目の記憶」の強さが、目の前の存在を明確にする。「目の前の存在」を「ことば」にする。
「葉裏」ということばは、単に「葉の裏側」を意味するわけではない。樹の幹の側から、言い直すと樹の内部(中心)から葉を見つめることである。安藤はいま「小屋」の「内部」にいる。「内部」をつくりだすのは「記憶」である。外部を見る、内部を見る、という複合的な記憶が、内部を「内部」にする。その「内部」から外の風景を見ている。そのとき「小屋の内部」は「樹の内部(樹の中心)」と重なっている。
安藤の「目」は対象を外から眺めるだけではなく、対象の内部からも眺める。対象の内部というのは、突然、その内部に入り込めるわけではない。対象も世界も「立体化」して把握し、そこに見えない「内部」というものをつくり出す動きがあって、はじめて内部に入り込める。そういう動きの中にも「目」は働いている。
安藤にとって「目」は世界を立体化し、内部をつくりだし、「見えない内部」を見えるようにする力である。
ここに書かれている「私」は「小屋の内部にいる私」であると同時に、「私の内部の私」でもある。樹を見ている「肉体(外形)」の「私」というよりも、樹を見ているときの「私の内部で動いている私」である。
「見えかくれする」という表現は、安藤の「目」を「誘う」のにふさわしい。「隠れる」は別なことばで言えば「見えない」。見えるのは「外部」、見えないのは「内部」。したがって、「葉裏の先」は、「私の内部の私」を「誘う」ために、わざと「樹の内部」に隠れる。つまり、「樹の内部に誘う」。
このとき、「高みから垂れた糸の先の/毛針のように」という比喩がつかわれているが、重要なのは「高み」ということばだろう。「高み」が「樹」の高さを印象づけ、さらには「樹」を超える「高さ」を誘う。つまり「天」を象徴する。
「樹」を描きながら、このとき安藤は「樹と私」という関係を超える。
安藤の「目」は、
と「時」さえ「止めて」見てしまう。「目」に見えないものに到達してしまう。「永遠(過ぎ去らない時、充実した時)」に到達してしまう。それは「目」で見たものとして再現できないから「まぼろし」と呼ばれる。
「葉の一枚一枚が別々に揺れる」というのは強靱な「目」がとらえた樹の姿だが、その「目」があってこそ、「時」も見える。そして、「時」を止めさせる。
「時が止まる」とどうなるか。
最初の引用した詩にもどる。
区別がなくなる。樹と私の区別は消え、「ひとつ(同じ)」になる。樹と私という「二つ」が「実は同じ(ひとつ)」というのは矛盾(非論理)だが、それは「時が止まる」という不可能のなかで起きる。
そして、その「同じ(ひとつ)」は「外形(外部)」のことではなく、「内部」のことなのだ。「時」も「内部」で「止まる」のだ。
「目に見えるてのひらや爪」は「外部」である。しかし、その「外部」は「肉体の内部」と連続しており、「内部」なしには存在しえないものである。樹の「葉が揺れる」のは樹の「外部」の姿である。しかし、その「葉(外部)」は樹の内部と連続しており、「外部」だけで存在しているわけではない。
あらゆる存在には「外部(外形)」と「内部」があり、それは連続している。安藤の「目」はその「連続」を見ることができる強靱な「目」である。「外部」と「内部」の連続を見る「目」には、
に見える。そして樹が内部で感じていること(思っていること)を、安藤もまた「内部」で感じている。思っている。それが樹と「同じ」になること。「ひとつ」になること。この「同じ(ひとつ)」は、樹と安藤のあいだでは、「無意識」にまでなっている。「肉体」になっている。
そのことが、詩の後半に書かれている。
気づかなくても、安藤にはそれが「わかっている」。もう「無意識」となって肉体にしみついている。だから、書くことができる。確かめる必要もない。
こうした「交感」がゆるぎのないことばで、「内部」のできごととして書かれているのが、この詩集である。
安藤元雄『樹下』の作品にはタイトルがなく、書き出しの一文字が大きく印字されている。「樹」ではじまる詩が巻頭から三篇つづいている。私が引用するのは三篇目。活字の大きさをうまく反映できないので、同じ大きさで引用する。
樹は記憶のない昔からそこにあった
物ごころついたときにはもう葉先が揺れていた
つい笑い声を立てるほどに
それを追うのが楽しかった
目に見えるてのひらや爪がたしかに私そのものであるように
葉が揺れるのは私の髪を風が吹くのと同じだろうか
樹があって 私がいて
その二つが実は同じことで (12ページ)
樹の葉、その「葉先」が揺れるのを「追う」。何で「追う」かというと、次の行に出てくる「目」で追う。書き出しの「記憶」とは「目の記憶」になるだろう。安藤の感覚は「目」で統一されている。「目」が感覚を統合している、と言えるかもしれない。繊細というよりも、強靱な「目」である。その「強靱さ」が「葉先」をとらえる。
この詩に先立つ、巻頭の詩。
樹は 私の背後から
小屋の屋根越しに枝を伸ばして
窓の前で葉裏の先を揺らす (8ページ)
私は、この詩の書き出しの「背後から」にずいぶんとまどった。なぜ、「背後から」と書きはじめるのか、わからなかった。次の行の「小屋の屋根越しに」もわからなかった。実際に「目」に見えるのは「窓の前」の「葉裏の先」。
しかし、「目」は見たものを「記憶」している。そのことが先に引用した三篇目の詩でわかった。樹の位置を記憶している。樹の枝の形を記憶している。その「記憶」を抱え込んで、いま「背後」ではなく、「窓の前」の「葉裏の先」を見ている。「記憶」が「いま/目の前」にある存在をととのえている。そして、ととのえながら、焦点をしぼりこんでいる。
「目の記憶」の強さが、目の前の存在を明確にする。「目の前の存在」を「ことば」にする。
「葉裏」ということばは、単に「葉の裏側」を意味するわけではない。樹の幹の側から、言い直すと樹の内部(中心)から葉を見つめることである。安藤はいま「小屋」の「内部」にいる。「内部」をつくりだすのは「記憶」である。外部を見る、内部を見る、という複合的な記憶が、内部を「内部」にする。その「内部」から外の風景を見ている。そのとき「小屋の内部」は「樹の内部(樹の中心)」と重なっている。
安藤の「目」は対象を外から眺めるだけではなく、対象の内部からも眺める。対象の内部というのは、突然、その内部に入り込めるわけではない。対象も世界も「立体化」して把握し、そこに見えない「内部」というものをつくり出す動きがあって、はじめて内部に入り込める。そういう動きの中にも「目」は働いている。
安藤にとって「目」は世界を立体化し、内部をつくりだし、「見えない内部」を見えるようにする力である。
私を誘おうと見えかくれする
高みから垂れた糸の先の
毛針のように (8ページ)
ここに書かれている「私」は「小屋の内部にいる私」であると同時に、「私の内部の私」でもある。樹を見ている「肉体(外形)」の「私」というよりも、樹を見ているときの「私の内部で動いている私」である。
「見えかくれする」という表現は、安藤の「目」を「誘う」のにふさわしい。「隠れる」は別なことばで言えば「見えない」。見えるのは「外部」、見えないのは「内部」。したがって、「葉裏の先」は、「私の内部の私」を「誘う」ために、わざと「樹の内部」に隠れる。つまり、「樹の内部に誘う」。
このとき、「高みから垂れた糸の先の/毛針のように」という比喩がつかわれているが、重要なのは「高み」ということばだろう。「高み」が「樹」の高さを印象づけ、さらには「樹」を超える「高さ」を誘う。つまり「天」を象徴する。
「樹」を描きながら、このとき安藤は「樹と私」という関係を超える。
身じろぎせずにその誘惑に身をまかせて
葉の一枚一枚が別々に揺れるのを眺めていると
時は止まり
あとはまぼろしのように遠い景色ばかり (9ページ)
安藤の「目」は、
時は止まり
と「時」さえ「止めて」見てしまう。「目」に見えないものに到達してしまう。「永遠(過ぎ去らない時、充実した時)」に到達してしまう。それは「目」で見たものとして再現できないから「まぼろし」と呼ばれる。
「葉の一枚一枚が別々に揺れる」というのは強靱な「目」がとらえた樹の姿だが、その「目」があってこそ、「時」も見える。そして、「時」を止めさせる。
「時が止まる」とどうなるか。
最初の引用した詩にもどる。
樹があって 私がいて
その二つが実は同じことで
区別がなくなる。樹と私の区別は消え、「ひとつ(同じ)」になる。樹と私という「二つ」が「実は同じ(ひとつ)」というのは矛盾(非論理)だが、それは「時が止まる」という不可能のなかで起きる。
そして、その「同じ(ひとつ)」は「外形(外部)」のことではなく、「内部」のことなのだ。「時」も「内部」で「止まる」のだ。
「目に見えるてのひらや爪」は「外部」である。しかし、その「外部」は「肉体の内部」と連続しており、「内部」なしには存在しえないものである。樹の「葉が揺れる」のは樹の「外部」の姿である。しかし、その「葉(外部)」は樹の内部と連続しており、「外部」だけで存在しているわけではない。
あらゆる存在には「外部(外形)」と「内部」があり、それは連続している。安藤の「目」はその「連続」を見ることができる強靱な「目」である。「外部」と「内部」の連続を見る「目」には、
葉が揺れるのは私の髪を風が吹くのと同じ
に見える。そして樹が内部で感じていること(思っていること)を、安藤もまた「内部」で感じている。思っている。それが樹と「同じ」になること。「ひとつ」になること。この「同じ(ひとつ)」は、樹と安藤のあいだでは、「無意識」にまでなっている。「肉体」になっている。
そのことが、詩の後半に書かれている。
私の背中は部厚い樹皮
葉や枝を眺めながら幹を一向に目にしないのも
自分の背中を見ることはできないからだ
ときとして こそばゆく
また うずたかく
相も変わらず樹はそこにあり
相も変わらず私を誘って葉先を揺らす
私が気づいているといないとにかかわりなく (13ページ)
気づかなくても、安藤にはそれが「わかっている」。もう「無意識」となって肉体にしみついている。だから、書くことができる。確かめる必要もない。
こうした「交感」がゆるぎのないことばで、「内部」のできごととして書かれているのが、この詩集である。
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