四元康祐『詩人たちよ!』(思潮社、2015年04月25日発行)
四元康祐『詩人たちよ!』に、少し気になる表現がある。わざわざ書こうとしているのだから「少し」ではな、とてもかもしれないのだが。
巻頭の「初めに言葉・力ありき」。ゲーテの「ファウスト」、ダンテの「神曲」を題材にしている。そこに井筒俊彦の「言語哲学」が出てくる。その59ページ。
私は井筒俊彦の文章をあまり知らない。「分節/未分節」については、いま流行の「言語哲学用語」らしく、しょっちゅう見かける。私も知ったかぶりをしてついつい借りてしまうのだが……。
私が疑問に思ったのは、
(1)井筒は、「分節Ⅰの言語」「分節Ⅱの言語」と詩を関係づけて何か書いているのだろうか。ダンテやゲーテをテキストにして言及しているのだろうか。同じことを言っているのだろうか。
(2)四元は、井筒の「言語理論」を借りてきて、自分の解説を補強しているのだろうか。井筒の理論があてはまるから、四元の解説も正しいと言おうとしているのか。
これは「意地悪」な見方かもしれないけれど、こんな疑問をもつのは、
(3)「散文から詩」への変質という四元が言うとき、それは詩を「特権化」することにならないか。
と思うからである。井筒も詩を「特権化」しているのかな? 詩のことばが「分節Ⅱ」のことばであると呼んでいたのかな? 散文には「分節Ⅱ」のことばは存在しないと言っていたのかな? それが気になるからである。
もうひとつ、同じ59ページ、先の引用よりも前に出てくる。
こう書くとき、四元はキリスト教徒? 仏教哲学者? 仏教徒? どちらの立場? もし四元に自分の「立場」が明確にあるのなら、なぜ、ここでふたつの「世界観」を取り上げたのだろう。自分の「立場」の「世界観」で押し通さないのだろう。
私は宗教については何も知らないが、イスラム教では「世界」はどうとらえられているのだろうか。キリスト教でも仏教でもない、小さな(信者の少ない)宗教では、どうとらえられているのだろうか。
「文学」というのはきわめて個人的なことがらだと思う。自分の「立場」をどちらであるか書かずに、キリスト教と仏教だけを取り上げて、その「世界観」を書いても四元の考えを書いたことにはならないのではないだろうか。
どこに四元の考えが書かれているのだろうか。
井筒の言語理論が詩の定義にあてはまるというのが四元の考え方なのか。そうだとすれば、それは四元が考えた定義になるのか、それとも井筒が考えた定義になるのか。それが、どうも私にはわかりにくい。
そして、その「わかりにくさ」に反して、そこに書かれている「理論/論理」そのものは、とてもわかりやすい。その「理論/論理」に賛成するかどうかは別にして、詩の分析としてとてもよくわかる。
でも、それが、何と言うか、とても「疑問」なのである。信じていいかどうか、わからない。
こういう疑問をもつのには、また別の理由もある。
四元は中原中也のことについても書いている。「感傷的なダダイスト・中也」のなかに、次の文章がある。
ここに書かれている「名辞以前の世界」というのは、井筒の書いている「未分節の世界」のことではないのだろうか。「名辞」とは「ことば」という意味だろう。「ことば以前の世界」に「全体」がある。「名辞以前の世界」について、井筒は何も言っていないのだろうか。「名辞以前の世界」について井筒は何と言っているのだろうか。(四元の好きな谷川俊太郎は、これを「未生のことば」という具合に言っていると思う。)
「井筒理論」が四元の基本的な考え方(ことばに対する出発点)なら、なぜ、四元は、中也について書くときに「分節Ⅱの言語」を持ち出さないのだろうか。それが疑問である。(ほかの伊藤比呂美、多和田葉子について書いた文章でも、「井筒理論」を出せばいいのに、と不思議に思うのだが……。)
逆に、中也の詩に長く親しんでいたのなら、「名辞以前の世界」という視点から「ファウスト」「神曲」の世界をとらえ直せばいいのに。なぜ、四元は「名辞以前の世界」という考え方を持続させて「ファウスト」「神曲」を読まなかったのか。「名辞以前の世界」を持続していけば、四元の「肉体」があらわれてきただろうに、と思う。
で、こういうことを書くのには、もうひとつ「理由」がある。
伊藤比呂美、多和田葉子などについて書かれた文章は、「初めに言葉・力ありき」に比較すると、とても「わかりにくい」。しかし結論は何? 要約しにくい。
「初めに言葉・力ありき」の方の「結論」は、「分節Ⅰの言語から分節Ⅱの言語へ、私たちの慣れ親しんだ言葉でいえば、「散文から詩」への変質です。」に要約されている。「分節Ⅱの言語が詩である」というのが「結論」である。
ほかの文章では、そんな簡単に「結論」を言えない。けれど「結論」などなくても、そこには詩人に向き合っている四元がいるということが、「わかる」。四元が何を考えたか要約できないけれど、四元が四元自身の「肉体」で詩人に向き合って、その瞬間瞬間にことばを動かしているということが「わかる」。四元が見える。
四元自身の「翻訳体験」(外国語と出合い、日本語と折り合いをつけるときの、ことばになりにくい何か、あいまいだけれど、抵抗感のあるあれこれ)を動かしながら、伊藤、多和田に向き合っていることが「わかる」。四元の「肉体」が「わかる」。そこに生きている、存在しているということが「わかる」。
「初めに言葉・力ありき」では四元の「肉体」ではなく、「井筒理論」が見えた。ただし、それはほんとうに「井筒理論」であるかどうか、私は知らない。井筒が同じことを「ファウスト」「ダンテ」について言うかどうか、わからない。「井筒理論」が見えた、というかわりに、四元の「頭」が見えた、ということもできるかもしれない。
私は「頭」が見える文章よりも、「肉体」が見える(「肉体」を感じる)文章が好きだというだけのことかもしれない。
四元康祐『詩人たちよ!』に、少し気になる表現がある。わざわざ書こうとしているのだから「少し」ではな、とてもかもしれないのだが。
巻頭の「初めに言葉・力ありき」。ゲーテの「ファウスト」、ダンテの「神曲」を題材にしている。そこに井筒俊彦の「言語哲学」が出てくる。その59ページ。
表層言語から深層言語へ、井筒理論にいう分節Ⅰの言語から分節Ⅱの言語へ、私たちの慣れ親しんだ言葉でいえば、「散文から詩」への変質です。
私は井筒俊彦の文章をあまり知らない。「分節/未分節」については、いま流行の「言語哲学用語」らしく、しょっちゅう見かける。私も知ったかぶりをしてついつい借りてしまうのだが……。
私が疑問に思ったのは、
(1)井筒は、「分節Ⅰの言語」「分節Ⅱの言語」と詩を関係づけて何か書いているのだろうか。ダンテやゲーテをテキストにして言及しているのだろうか。同じことを言っているのだろうか。
(2)四元は、井筒の「言語理論」を借りてきて、自分の解説を補強しているのだろうか。井筒の理論があてはまるから、四元の解説も正しいと言おうとしているのか。
これは「意地悪」な見方かもしれないけれど、こんな疑問をもつのは、
(3)「散文から詩」への変質という四元が言うとき、それは詩を「特権化」することにならないか。
と思うからである。井筒も詩を「特権化」しているのかな? 詩のことばが「分節Ⅱ」のことばであると呼んでいたのかな? 散文には「分節Ⅱ」のことばは存在しないと言っていたのかな? それが気になるからである。
もうひとつ、同じ59ページ、先の引用よりも前に出てくる。
なにしろこの世界は、キリスト教においては一にして全なるものであると同時に、仏教哲学では「無」とも「空」とも呼ばれているのですから。
こう書くとき、四元はキリスト教徒? 仏教哲学者? 仏教徒? どちらの立場? もし四元に自分の「立場」が明確にあるのなら、なぜ、ここでふたつの「世界観」を取り上げたのだろう。自分の「立場」の「世界観」で押し通さないのだろう。
私は宗教については何も知らないが、イスラム教では「世界」はどうとらえられているのだろうか。キリスト教でも仏教でもない、小さな(信者の少ない)宗教では、どうとらえられているのだろうか。
「文学」というのはきわめて個人的なことがらだと思う。自分の「立場」をどちらであるか書かずに、キリスト教と仏教だけを取り上げて、その「世界観」を書いても四元の考えを書いたことにはならないのではないだろうか。
どこに四元の考えが書かれているのだろうか。
井筒の言語理論が詩の定義にあてはまるというのが四元の考え方なのか。そうだとすれば、それは四元が考えた定義になるのか、それとも井筒が考えた定義になるのか。それが、どうも私にはわかりにくい。
そして、その「わかりにくさ」に反して、そこに書かれている「理論/論理」そのものは、とてもわかりやすい。その「理論/論理」に賛成するかどうかは別にして、詩の分析としてとてもよくわかる。
でも、それが、何と言うか、とても「疑問」なのである。信じていいかどうか、わからない。
こういう疑問をもつのには、また別の理由もある。
四元は中原中也のことについても書いている。「感傷的なダダイスト・中也」のなかに、次の文章がある。
中也の詩論のうちでもっとも有名なものは「「これが手だ」と、「手」といふ名辞を口にする前に感じてゐる手、その手が深く感じられてゐればよい」(「芸術論覚え書」)だが、これなども短歌的な認識論と言えなくはない。(略)名辞以前の世界、言うに言われぬ感慨、失われてしまった全体性、それをもどかしげに指し示す仕草は終生中也につきまとった。
ここに書かれている「名辞以前の世界」というのは、井筒の書いている「未分節の世界」のことではないのだろうか。「名辞」とは「ことば」という意味だろう。「ことば以前の世界」に「全体」がある。「名辞以前の世界」について、井筒は何も言っていないのだろうか。「名辞以前の世界」について井筒は何と言っているのだろうか。(四元の好きな谷川俊太郎は、これを「未生のことば」という具合に言っていると思う。)
「井筒理論」が四元の基本的な考え方(ことばに対する出発点)なら、なぜ、四元は、中也について書くときに「分節Ⅱの言語」を持ち出さないのだろうか。それが疑問である。(ほかの伊藤比呂美、多和田葉子について書いた文章でも、「井筒理論」を出せばいいのに、と不思議に思うのだが……。)
逆に、中也の詩に長く親しんでいたのなら、「名辞以前の世界」という視点から「ファウスト」「神曲」の世界をとらえ直せばいいのに。なぜ、四元は「名辞以前の世界」という考え方を持続させて「ファウスト」「神曲」を読まなかったのか。「名辞以前の世界」を持続していけば、四元の「肉体」があらわれてきただろうに、と思う。
で、こういうことを書くのには、もうひとつ「理由」がある。
伊藤比呂美、多和田葉子などについて書かれた文章は、「初めに言葉・力ありき」に比較すると、とても「わかりにくい」。しかし結論は何? 要約しにくい。
「初めに言葉・力ありき」の方の「結論」は、「分節Ⅰの言語から分節Ⅱの言語へ、私たちの慣れ親しんだ言葉でいえば、「散文から詩」への変質です。」に要約されている。「分節Ⅱの言語が詩である」というのが「結論」である。
ほかの文章では、そんな簡単に「結論」を言えない。けれど「結論」などなくても、そこには詩人に向き合っている四元がいるということが、「わかる」。四元が何を考えたか要約できないけれど、四元が四元自身の「肉体」で詩人に向き合って、その瞬間瞬間にことばを動かしているということが「わかる」。四元が見える。
四元自身の「翻訳体験」(外国語と出合い、日本語と折り合いをつけるときの、ことばになりにくい何か、あいまいだけれど、抵抗感のあるあれこれ)を動かしながら、伊藤、多和田に向き合っていることが「わかる」。四元の「肉体」が「わかる」。そこに生きている、存在しているということが「わかる」。
「初めに言葉・力ありき」では四元の「肉体」ではなく、「井筒理論」が見えた。ただし、それはほんとうに「井筒理論」であるかどうか、私は知らない。井筒が同じことを「ファウスト」「ダンテ」について言うかどうか、わからない。「井筒理論」が見えた、というかわりに、四元の「頭」が見えた、ということもできるかもしれない。
私は「頭」が見える文章よりも、「肉体」が見える(「肉体」を感じる)文章が好きだというだけのことかもしれない。
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