白井知子「コーカサスの山並」(「幻竜」22、2015年09月20日発行)
ひとは何を手がかりとして(入り口として)他者に出会うのか。白井知子「コーカサスの山並」を読みながら、私がきょう感じたのは、白井は「耳」をとおして他人とであっているということだ。安藤元雄『樹下』は、「目」で世界と出会っていたが、白井の場合は「耳」で世界と出会う。
「弦楽器の音」。その「音」は日本人の「肉体」になじみのある音ではない。白井は、それを識別し、「リュート属のタール コーカサス古来の弦楽器」と呼んでいるが、私にはそれがどんな音かわからない。わかるのは、白井がその音を識別し、しかもその楽器の名前も知っているということである。何と呼ぶか、その「音」を知っている。
書き出しの「グルジアの古都/ムツヘタの昼下がり」。何でもないことのように書いているが、白井は自分がいる「場」をきちんと「音」として語ることができる。「音」を身に着けている。「古都」とか「昼下がり」という「状況」を語る前に、固有名詞を語る。「固有の音」を語る。
すべてには名前がある。名前は「音」として存在する。「音」は消えていく。消えていくからこそ、何度も何度も繰り返し「声」にして、そのたびに、「いま/ここ」に出現させる。
そのとき「出現」してくるのは「音」だけではない。
「音(固有名詞)」の背後には「歴史(時間)」がある。その「過去」が「いま」となってあらわれてくる。そして、その「過去」というのは、白井そのひとの「過去」ではない。その土地にいるひとの「過去」である。「他人の過去」である。
「他人の過去」だけれど「末裔」という時間を含む名詞、あるいは「暮らす」「位置する」「(国境を)こえる」という「動詞」となって白井の「肉体」を刺激する。「ひとの血(父母の血)」を引き継いで生きる、暮らす(暮らしの場所、位置をきめる)、「境」をこえるというような「動き」をとおして、「他人の時間」と重なる。「他人」のなかに白井の「肉体」と共通する「時間」があり、それを、「固有名詞」の「音」を突き破って引き受ける。つまり、
ということが起きる。「指先から肩へと波だっていく」というのは、たぶん、弦楽器をひくときの指の動きに白井が反応するということだろう。無意識の「内部」で指が動き、それは「指」だけではなく「肩」の方までつたわってくる。「肩」までつたわってくるというのは、「肉体の内部」までつたわってくるというのと同じである。
これは「音楽(音)」のことではなく、スキタイ人の「歴史」(暮らし)を語っているのだが、「音色にみちびかれ」ることで、白井は、そういう「過去」へ「肉体」ごと入っている。スキタイ人になっているのだ。
スキタイ人になっているから、「スキタイの男」とわかる。「日本人」のままでは「スキタイ」がわからない。実感できない。
肉体の交わりは、声の交わりによって強くなる。声が(ことばが)交われば、肉体が交わらなくてもセックスしたにヒトシイ。声の中で「褪せることのない哀しみ 喜びのつらなり」がかたく結びつき、「蜜語」になる。
このことを白井は、
と言い直している。単に「スキタイ人(スキタイの女)」になったのではない。「一族の女」(末裔/過去をもった人間)になる。
その「一族の女」である白井に、老婆の声が飛ぶ。料理を作っている白井に檄が飛ぶ。
この檄に、白井は「意味」ではなく、「肉体」の動かし方を読み取っている。音楽を聴き、それに反応して歌ったり、踊ったりするように、「肉体」そのものが反応している。もし、実際に「肉体」を動かし、骨を火にくべないとしても、このとき白井はいっしょに叫んでいる。「声」を引き継いでいる。つまり、たぎらせている。
白井の詩のことばは、どれも強さを感じさせる。たぎっている感じがする。剛直な感じがする。
それは白井が、ことばを「意味」ではなく、「音」として受け取り、白井自身の「肉体/声」をとおして発しているからだ。どのことばも、たとえば「グルジア」「ムツヘタ」という地名さえも「聞いて知っている」ことではなく、自分の「声」で実際に何度も何度も発した「音」なのだ。
その「声」は「わたしの素のまま」と言える深みにまで到達している。「素」と言える深みから発せられ、強い「和音」となって響く。
白井が書いているのは、もう「異国」の風景(情景)ではなく、白井の「肉体」なのである。「耳」で聞いたものが、「声」を通して出現している。
ひとは何を手がかりとして(入り口として)他者に出会うのか。白井知子「コーカサスの山並」を読みながら、私がきょう感じたのは、白井は「耳」をとおして他人とであっているということだ。安藤元雄『樹下』は、「目」で世界と出会っていたが、白井の場合は「耳」で世界と出会う。
グルジアの古都
ムツヘタの昼下がり
野外の椅子の背にもたれ ワインをのんでいた
不意に 弦楽器の音色がちかづいてくる
初老の男が リュート属のタール コーカサス古来の弦楽器をかかえて歩いてくるなど 思いもよらなかった
「弦楽器の音」。その「音」は日本人の「肉体」になじみのある音ではない。白井は、それを識別し、「リュート属のタール コーカサス古来の弦楽器」と呼んでいるが、私にはそれがどんな音かわからない。わかるのは、白井がその音を識別し、しかもその楽器の名前も知っているということである。何と呼ぶか、その「音」を知っている。
書き出しの「グルジアの古都/ムツヘタの昼下がり」。何でもないことのように書いているが、白井は自分がいる「場」をきちんと「音」として語ることができる。「音」を身に着けている。「古都」とか「昼下がり」という「状況」を語る前に、固有名詞を語る。「固有の音」を語る。
すべてには名前がある。名前は「音」として存在する。「音」は消えていく。消えていくからこそ、何度も何度も繰り返し「声」にして、そのたびに、「いま/ここ」に出現させる。
そのとき「出現」してくるのは「音」だけではない。
スキタイ人の末裔 オセット人が暮らす地
グルジア領内の東に位置する南オセチア自治州
グルジアから国境をこえ
地つづきの北オセチア共和国の方角
わたしは 音色にみちびかれながら
指先から肩へと波だっていく
「音(固有名詞)」の背後には「歴史(時間)」がある。その「過去」が「いま」となってあらわれてくる。そして、その「過去」というのは、白井そのひとの「過去」ではない。その土地にいるひとの「過去」である。「他人の過去」である。
「他人の過去」だけれど「末裔」という時間を含む名詞、あるいは「暮らす」「位置する」「(国境を)こえる」という「動詞」となって白井の「肉体」を刺激する。「ひとの血(父母の血)」を引き継いで生きる、暮らす(暮らしの場所、位置をきめる)、「境」をこえるというような「動き」をとおして、「他人の時間」と重なる。「他人」のなかに白井の「肉体」と共通する「時間」があり、それを、「固有名詞」の「音」を突き破って引き受ける。つまり、
音色にみちびかれ
ということが起きる。「指先から肩へと波だっていく」というのは、たぶん、弦楽器をひくときの指の動きに白井が反応するということだろう。無意識の「内部」で指が動き、それは「指」だけではなく「肩」の方までつたわってくる。「肩」までつたわってくるというのは、「肉体の内部」までつたわってくるというのと同じである。
身体を劃する輪郭を去りがてに
騎馬の達人 スキタイ人が駈ける草原の波から波へと
渡っているのだった
これは「音楽(音)」のことではなく、スキタイ人の「歴史」(暮らし)を語っているのだが、「音色にみちびかれ」ることで、白井は、そういう「過去」へ「肉体」ごと入っている。スキタイ人になっているのだ。
わたしは 牛がひく天幕の小屋のなかへ
違和を感じることなく入り 天幕の綻びを繕ってしまう
なんという名 どんな人物の持ちものであるか知らず
ただ 猛猛しくも 未明にはあたたかなスキタイの男だということは なぜだかわかっていた
ギリシャ神話の冒険譚や
褪せることのない哀しみ 喜びのつらなりまでをも囁かれる
わたしは涼やかに応えている
蜜語は薫りだつ声だった
スキタイ人になっているから、「スキタイの男」とわかる。「日本人」のままでは「スキタイ」がわからない。実感できない。
肉体の交わりは、声の交わりによって強くなる。声が(ことばが)交われば、肉体が交わらなくてもセックスしたにヒトシイ。声の中で「褪せることのない哀しみ 喜びのつらなり」がかたく結びつき、「蜜語」になる。
このことを白井は、
いま目覚めれば
わたしは 畢竟 スキタイの女
ユーラシア大陸を家畜とともに移動していく一族の女になる
と言い直している。単に「スキタイ人(スキタイの女)」になったのではない。「一族の女」(末裔/過去をもった人間)になる。
その「一族の女」である白井に、老婆の声が飛ぶ。料理を作っている白井に檄が飛ぶ。
「かまけるな
骨を火に投げ込め
炊け もっと炊け 火を焚くのだ
よいか おまえたちの血こそ 滾りはてるほどにだ
馬の乳 蜜蜂 果実は揃ったか」
この檄に、白井は「意味」ではなく、「肉体」の動かし方を読み取っている。音楽を聴き、それに反応して歌ったり、踊ったりするように、「肉体」そのものが反応している。もし、実際に「肉体」を動かし、骨を火にくべないとしても、このとき白井はいっしょに叫んでいる。「声」を引き継いでいる。つまり、たぎらせている。
白井の詩のことばは、どれも強さを感じさせる。たぎっている感じがする。剛直な感じがする。
それは白井が、ことばを「意味」ではなく、「音」として受け取り、白井自身の「肉体/声」をとおして発しているからだ。どのことばも、たとえば「グルジア」「ムツヘタ」という地名さえも「聞いて知っている」ことではなく、自分の「声」で実際に何度も何度も発した「音」なのだ。
入りくむ山襞 峡谷 果しれぬ稜線
放牧された馬や牛 羊の群れとともに暮らしている多彩な民族
かき鳴らされるコーカサスの精霊
スキタイ人のもと しのばせてきた
わたしの素のままの声を--
その「声」は「わたしの素のまま」と言える深みにまで到達している。「素」と言える深みから発せられ、強い「和音」となって響く。
白井が書いているのは、もう「異国」の風景(情景)ではなく、白井の「肉体」なのである。「耳」で聞いたものが、「声」を通して出現している。