詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

セオドア・メルフィ監督「ヴィンセントが教えてくれたこと」(★★)

2015-09-09 21:51:46 | 長田弘「最後の詩集」
監督 セオドア・メルフィ 出演 ビル・マーレイ、メリッサ・マッカーシーマ、ナオミ・ワッツ、ジェイデン・リーベラー

 困ったな、というのが最初の感想。困ったな、というのは、いやだな、というのと同じこと。
 ビル・マーレイの不良老人。一生懸命やっているのだけれど、問題は「不良」に見えないこと。目がどことなく寂しい。その寂しさを隠しきれない。「地」が出てしまう。映画にしろ芝居にしろ、もちろん「演技」と同時に役者の「地」を楽しむものだから、それはそれでいいのかもしれないけれど……。
 で、ビル・マーレイが介護施設を訪問するシーン。認知症の妻に会いにゆくのだけれど、あまりにも「ストーリー」になりすぎていて、おもしろくない。「善良さ」を浮き彫りにするというより、「善良さ」を描きすぎている。何より、少年をつれていくというのがよくないなあ。少年に隠れて妻に会いにゆき、そのことを少年が「発見する」という具合でないとね。
 まあ、脚本家としては、介護施設でのことを少年が聞いてまわるということろに、少年の「発見」を折り込んだつもりなのかもしれないけれど、これではまるで「子ども向け」の「粗筋映画」。
 「粗筋」だから、ついつい「ことば」で最後にもう一度説明し直してしまう。「身近な聖人」(だったかな?)というタイトルの「作文」を少年に読み上げさせてしまう。人間は「ことば」によって認識を深めていく、事実を自分のものにしていく、ということなのだろうけれど、これでは映画ではなく、「小説(物語)」になってしまう。
 もちろん、そういうことは承知で、だからこそ、少年のキャラクターを説明するのに、最初の方で本を読むシーンを組み込んでいるのだろうけれど。寝る前に、大人が子どもに本を読んで聞かせるのではなく、少年が母親にこんな本を読んでいると読んで聞かせる。手の込んだ「伏線」なのだけれど、安直というか、手をかけすぎているというか、映画であることを最初から否定している。
 ビル・マーレイは、この演技でアカデミー賞の候補になったようだけれど、これは「演技」というよりも「役のひとがら」が好かれたということだろうなあ。アカデミー賞はいつでも「演技」と、そこで「演じられている人物」の評価の区別がなくなる。だから実在の「偉大な人間(尊敬されている人間)」を演じると賞をもらいやすい。
 あ、最後の、オナミ・ワッツが赤ん坊におっぱいを飲ませようとするシーン、そのとき、ビル・マーレイがナオミ・ワッツのおっぱいが見られる(ひさびさ!)という期待に満ちた目をする。その演技だけば、とても好きだ。こういう「不良/健全」を、もっと見せてくれないとねえ。「不良」こそが「健全」な人間の姿であるということ見せてくれないと、生きる喜びがはじけてこない。
                     (ソラリアシネマ8、2015年09月09日)



「映画館に行こう」にご参加下さい。
映画館で見た映画(いま映画館で見ることのできる映画)に限定したレビューのサイトです。
https://www.facebook.com/groups/1512173462358822/

ライフ・アクアティック コレクターズ・エディション(初回限定生産) [DVD]
クリエーター情報なし
ブエナ・ビスタ・ホーム・エンターテイメント
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

安藤元雄『樹下』(2)

2015-09-09 13:36:57 | 詩集
安藤元雄『樹下』(2)(書肆山田、2015年09月05日発行)

 詩のことばは詩集のなかで呼び掛け合う。安藤元雄『樹下』の、たとえば32ページ。

行き過ぎる者たちは知らない ここに私がいて
ここに一本の樹があることを
道筋はいつかここを離れ
水場は遥かに遠く
樹がひたすらにしたたらす露は
ことごとく地に落ちる

 「道筋はいつかここを離れ」という一行はとても美しい。「道筋」自体は動くわけではない。そこを通って人が行き過ぎるということなのだが、ここにいる樹(ここにある私)には、道そのものが遠く去っていくように思える。
 ほんとうは(学校文法では?)「ここにいる私」「ここにある樹」と言わなければならないのだが、「樹」と「私」が「同一のもの(一体になった存在)」であるとき、「動詞(述語)」が無意識に入れ代わることで「一体感」そのものになるのと同じ様に、「道(筋)」と「行き過ぎる者」もまた「一体感」のなかで「動詞(述語)」を入れ換えてしまう。入れ代わってしまう。
 この「道筋はいつかここを離れ」の「道(筋)」は42-43ページの詩では、「樹」になって動く。

闇の中では樹も見えず
葉の揺らぎも見えない
風があれば葉のそよぐ気配だけはするが
むしろそれは葉よりも風の音だろう
たとえば冬 樹が
ことごとく葉を失ったあとも
風は高らかに枝を鳴らす
闇の中で私はそれを聞き 風が遠くへ
私の思念の届くよりも遥か遠くへ
樹を運んで行こうとするのだと思ってみる

 「樹」は動かない。しかし「風」が樹を運ぶ。このとき「風」と「風の音」は「行き過ぎる者」で「樹」は「道(筋)」である。そして、動いていくのは、実は「樹」でも「道」でも、あるいは「行き過ぎる者」でも「風(の音)」でもない。
 「私」であり、「私の思念」である。
 「樹」と「私」が「一体」になるとき、それはそれぞれの「内部」において「一体」にになる。「内部」とは「思念」のことである。
 安藤の「思念」が遠く遠く、遥かなところへ動いて行こうとするとき、「樹」も「道(筋)」も遥かなところまで行くのである。「道」と書かずに「道筋」と安藤が書くのは、「筋(つながり/ストーリー/思念)」の方に重心があるからだろう。

 また32ページの「水場」、「露」は37ページでは、次のようなことばと呼応する。

日が落ちても日なかの暑さは薄れない
陽炎(かげろう)が野づらに立ちこめ
遠いものをことごとく影絵にする
そこに大きな河が音もなく流れていて
水のおもてがたぶん私の目の高さにあるのを
樹の下に坐ったまま私は感ずる

 「露」はあつまり「河」となって流れ、遠く遠くへゆく。その遥か遠くで「道(筋)」と「河」は出会う。そのとき「行き過ぎる者」もまた「河(水)」と出会う。それは「私」が「河」と出会うということでもある。
 「思念」するとき、「私」は「河」であり、「行き過ぎる者」であり、また「河」の最初の一滴の「露」としての「樹」でもある。
 世界は、そんなふうにして立体的になってゆく。
 こうした変化のことを36ページでは、「奥行きを増す」と書いている。

枝の先を日が落ちて行く
赤と黄のしずくを垂らして
大きなくだものに似た日輪が
葉むらより低く
野の向うへとずり落ちて行く
飛ぶものはみなどこかの巣に帰り
世界が不意に奥行きを増す
私のためではない

 「私のためではない」。ここに「思念」はないように見える。表面的には、そう見える。しかし、そうではなく、ここでは「思念」が「私」を超えるのだ。
 「私」はすでに「樹」であり、「行き過ぎる者」であり、「道筋」であり、「風」である。「露」でもあり「河」でもある。「私」という「枠」を超えてしまっている。だから「私のためではない」というしかないのである。
 「私のためではない」。そして、もしかすると、安藤は、それは「樹のためである」と言い換えるかもしれない。「樹の下に坐ったまま」、そう考えるかもしれない。

 いま引用した36ページの詩行のあとに、もう一行、

私はただそれを目でうべなうだけだ

 という行がある。
 きのう書いたが、ここに登場する「目」は、安藤の「思念」が「目」で統合されていることを証明するかもしれない。「風音」と「聴覚」といっしょに動くことばも出てくるが、「河(水のおもて)」を「目の高さ」と「目」でとらえ直しているところも、その「証拠」のひとつといえるかもしれない。
 見えない「内部」、見えない「遥か遠く」も「目」で「見て」、それを「思念」として「筋(ストーリー)」にし、「世界の奥行き」とする。これが安藤の詩だ。


樹下
安藤元雄
書肆山田
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする