詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

長嶋南子「神経」、井川博年「ポケットに手をつっこんで」

2015-09-26 12:50:25 | 詩(雑誌・同人誌)
長嶋南子「神経」、井川博年「ポケットに手をつっこんで」(「zero」2、2015年09月15日発行)

 長嶋南子「神経」は歯の神経のことから書きはじめているのだが……。

歯医者は痛む歯の神経を
よじれた針のようなもので抜く
抜かれて神経は
くねくね身をよじり
外気に触れたとたんに絶命する

神経にさわると
からだのどこかが痛み出す
気が小さいわたしは
神経にさわることが
起きないように
殻に閉じこもっていた

 二連目で「神経」は「比喩」になる。歯の神経のような「肉体」ではなく、ここでは「気に障る」というときの「気」に近いものが書かれている。「肉体」に対して「精神」といえるかな?
 「殻」は自分という「殻(枠)」。これも「比喩」だね。

男が遊びにこなくなった
出かけるところも仕事もない
なにもすることがないので
殻から舌をだし
神経のない歯をなめている

 うーん、これはちょっと「分類」が難しい。
 「殻から舌をだし」の「殻」って何だろう。「比喩」? 自分という「殻」? 「神経のない歯」というのは「肉体(現実)」だけれど、「舌」というのも「肉体(現実)」なのだが、「殻」が何を指すか、よくわからない。つまり、言い換えがきかない。
 で、一瞬、何か、変な気持ち(よくわからない気持ち)になるのだが、「舌」で「神経のない歯をなめる」という「肉体」の動きがわかってしまう(自分でも、そういうことをしたことがあることを思い出してしまう)ので、ことばにひっぱられてしまう。
 わからないのに、わかったような気持ちになってしまう。
 「舌をだす」の「だす」という「動詞」もわかるけれど、もしかすると、この「出す」という「動詞」が「比喩」なのかな?
 「舌をだす」。どういうときに? 失敗したときに、「あっ、やっちゃった」という感じ。別に「心底」その失敗に気落ちしているわけではない。
 あるいは、何かに口をはさむことを「口を出す」というが、それも「舌をだす」の一種かな?
 何もすることがない。だから「舌」を動かす。ことばを動かす。詩を書く?
 かもね。

 そして最終連。

息子はナイフで牡蠣の殻をこじあけ
レモンをふって食べる
バカ それはわたしの舌だよ

 また「現実」と「比喩」が交錯する。息子が牡蠣を食べる。このときの「殻」は「現実」の殻。牡蠣は殻に閉じこもって、身を守っていた。それをこじ開けて、息子が食べている。
 それを見ながら長嶋は、「あ、自分は牡蠣のようなものだな」と思っている。自分の殻に閉じこもって、そのまま生きていたかった。でも息子がいる。息子のめんどう(世話)をみなければいけない。殻に閉じこもってばかりはいられない。口も出す。(舌も出す?)息子が長嶋の「殻」をこじ開けるのではないが、長嶋からすれば「こじ開けられた」に等しいのかもしれない。
 息子の世話をすることを、息子に食べられる、と「比喩」で語っている。「すねをかじられる」という「比喩」(慣用句)の言い直しかな?
 で、「牡蠣」なので「すね」ではなく「舌」。
 おまえは「わたしを舌を食べてるんだよ、バカ」と、まあ「殻(詩)」のなかで言っているんだねえ。

 というような具合にこの詩を読んでくると。

 「現実」と「比喩」、「肉体」と「比喩」がどこかで融合していて、区別をはっきりつけることができないことがわかる。
 まあ、こういうことは、きっと区別をする必要がないんだろう。
 どっちがどっち? わからない。それぞれが勝手に「誤読」しながら、うん、わかる、といえばいいのだ。
 「牡蠣の身って、たしかに舌に似ているね」「やめろよ、そんな言い方。気持ち悪くなるじゃないか」「舌も歯ブラシで磨いた方がキスするとき清潔感があるよ」「ちょっと不潔な方がなまなましくてエロチックだよ」とか「生牡蠣にはやっぱりレモンがいいねえ」「スダチもいいよ」「私は焼いたのでないと、だめ」とか言ったり、「歯医者はやっぱりこわいね」「歯を抜いたあとの歯茎ってつるっとしているね」とか、長嶋の書いていることを無視して、自分が知ってていること(体験し、肉体で覚えていること)をテキトウに話して脱線していく。こういうときの「肉体感覚(肉体のざわめき)」というのは、私は好きだなあ。そういう「場」で、長嶋の詩を読みたい。
 長嶋は、そんな「場」で自分の詩が読まれる(読者の、なまの声、詩とは無関係に「体験」を語ることばが暴走していく)のを体験したことがあるかな?



 井川博年「ポケットに手をつっこんで」には、長嶋が書いているような「自分の肉体が暴走する」ようなことばを引き出す要素がない。読みながら、読んでいる方の「肉体」が暴走するというようなことはない。井川のことば、長嶋とはちがったものを引き出す。

考えごとをしていると
ポケットをまさぐる癖がある。
いま来ているコートには
右のポケットには底に穴が空いていて
左のポケットには小さな紙屑が入っている。
歩きながらポケットに手をつっこんで
右のポケットの穴をまさぐり
左のポケットの紙屑をいじっている。

 こういうことは、だれもが体験している(きっと)。そのとき自分で「まさぐる」「いじる」という「動詞」をことばにしているかどうかはわからない。「つっこむ」という「動詞」も、まあ、ことば(意識)にはしないだろうなあ。で、その「動詞」の使い方が正しいかどうかも考えず、こういうことをしたことがあるなあ、井川は私と同じ人間なんだなあと「親近感」を覚えたりする。
 長嶋の体験にも、自分の体験と通じるものがあるだろうけれど、「歯の神経を抜く」なんてことは「親近感」をもって「そうだなあ」というのとは違う。親近感がありすぎて(生々しすぎて)そんなことわざわざ言うなよ、という感じが近いかな?
 井川のことばは「肉体」の「底」までえぐらない。「肉体の神経」をえぐらない、といえば違いがわかりやすくなるか。
 では、何を井川のことばはひっぱり出すか。
 右と左のポケットから美空ひばりの「東京キッド」の歌(歌詞)をひっぱり出し、

ひばりは美空だと空を見上げると
できたてのパンのような雲が浮かんでいる

 という「比喩」を動かす。「比喩」とは、いまそこにあるものを、そこにないないものを借りて動くことばであり、それはしたがって、次のように動いていく。

ほかほかのパンなんて
あの頃は匂いすら嗅いだこともなかった
薄いコッペパンに脱脂粉乳の給食
なにしろ進駐軍の時代だったからな

 「肉体」は「嗅ぐ」しか動かない。あとは「脱脂粉乳」「進駐軍」というような「時代のことば」が動く。井川は個人的な「肉体」というよりも「時代のことば」を書き、その「時代」を共有しようとする。「個人の肉体」の体験のようであって、それは「時代の体験」(時代の証言)である。
 詩が、「時代の証言」になるとき、その詩は「個人の体験」より共有しやすい。けれど、そこには何か危険が潜んでいると思う。「時代の証言」であってもいいのだろうけれど、それを「個人」の側へ引き寄せる必要があると思う。「時代」を「ひとりの肉体」として突き破らないと、危ないことになる、と思う。
 これは、最近の「政治」を思ってのことなのだけれど……。

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