詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

北川透「海象論B」

2015-12-09 10:34:30 | 詩(雑誌・同人誌)
北川透「海象論B」(「KYO響」9、2015年12月01日発行)

 北川透「海象論B」は「海の配分(2)」のなかの一篇。

あれは波の音ではない
貝の泣き声でもない
光る海の切っ先たちの穏やかな孤独
われらに神もけだものもなく
嵐を孕む海の感情の盛り上がりもないが

 「ない」が繰り返される。この「ない」は「否定」か。たしかに「否定」に見える。では、何の「否定」か。
 こういう読み方(問いの立て方)は詩を楽しむということとは違うような気がするが、私は詩には興味がないのかもしれない。詩を題材にいろいろ考えているが(そして「詩はどこにあるか」を問題にしているのだが……)、詩であるかどうかよりも、そのことばが人間とどうかかわっているかの方に関心があるので、こういう接近の仕方になる。
 「ない」を二回繰り返したあと「光る海の切っ先たちの穏やかな孤独」という行がくる。これは「ない」を含まない。存在がそのまま受けいれられている。
 それにつづく「われらに神もけだものもなく」には「なく」という形で「ない」が繰り返される。この「われら」と前の行の「孤独」は同じものか。「孤独」を言い直したものが「われら」か。そう読むと、「ない」はずっーと持続されていることになる。
 たぶん「孤独」が「われら」であり、「われら」が海の音を聞いているのだ。そして「……でない」「……でない」と繰り返している。それは自分が思いついたことを、「そうではない」と「否定」しているのか。
 表面的には、そう見えるが、私はつまずく。

われらに神もけだものもなく

 この「なく(ない)」は、前に書かれている「ない」と微妙に違って見える。この行は、私の読み方では、

われらに神もけだもの「の区別」もなく

 となる。そこに「区別」が省略されている。そして、この「区別」をもし前の行に補うとなるとどうなるか。

あれは波の音(として「区別」できるもの)ではない
貝の泣き声(として「区別」できるもの)でもない

 ということにならないか。
 北川は、ここでは「区別」を否定している。書かれていない「区別」こそが、この詩の「肉体(思想)」であると、私は感じる。
 「区別」というのは、いまはやりのことばで言い直すと「分節」になるかもしれない。(私は井筒俊彦を読んでいるわけではないし、井筒が「無分節」と言っていることを、勝手に「未分節」と読み替えていることもあって、「分節」という表現をつかってしまうと、ちょっとめんどうになるので、できるだけつかわないことにしているのだが、いちばん近い「概念」として「分節」を想定するのが便利だと思う。)
 この詩の書き出しで、北川は、海に向かい、そこから海を描写しようとしている。描写するということは、「区別」のないものを「区別」してつかみやすくする(理解しやすくする)ことなのだが、その最初の「区別」するときから、北川は「……ではない」と「区別」を否定する形でことばを動かしている。
 このとき、そこに存在するのは、海ではない。海とともに無意識に思い浮かぶことばではない。無意識に浮かび上がってしまうことばを「否定」する力である。無意識のことば、あるいは「常識のことば」といってもいいのかもしれないが、それを「否定」する。「否定」を通り越して、「拒絶」する。「拒絶」したところから、いままでなかったことばを動かそうとしている。その力が北川という詩人だ。
 「波の音」「貝の泣き声」というような常識的な表現、だれにでも通じることばではなく、違うことばを生み出そうとしている。分節しようとしている。北川にとっては、すでに存在することば(流通することば)は詩に値しない。だから、ここで必死になっているのだと思う。
 この「常識的な区別(分節)」に対する「異議」のようなもは、後半の行から、さらに読み取ることができる。

なにごとも一つに括ろうとするな
赤く血に染まった西方の海に沈んでいく
太陽に祈りを捧げようとするな
港を目指す希望と 地平線の奈落への欲求は
二つに分かつことができない

 北川が「拒絶」しているのは「赤く血に染まった西方の海に沈んでいく/太陽に祈りを捧げ」るという定型化したセンチメンタルということになる。そういうふうに分節された世界に入ってしまうことを「拒絶」している。
 私がこの数行で注目したのは「一つに括ろうとするな」の「一つ」と、「二つに分かつことができない」の「二つ」の違いである。
 「一つに括る」というときの「一つ」は、「一つ」ということばとはうらはらに、「分節するな(分けるな、区別するな)」ということではなく、規定のもの、確立された「一つ」のものの見方に「括ってしまうな」ということである。常識的な「分節」にしたがうな、ということである。たとえば「波の音」「貝の泣き声」というような「一つの分節の仕方」で世界を「括るな」と言っている。
 一方の「二つに分かつことができない」。ここに「分節」の「分」が「分かつ」ということばとして登場する。世界に向き合い、私たちは何かを「分節」しながら、私という存在自体を理解する。しかし、「分節」の仕方はそれぞれで違うはずだから、既存の「分節」では「分節」できないものがあるはずである。個人の「分節」の仕方は、既存の「分節」の仕方とは違う。だから「既存の分節の仕方」で世界を分節し、それにあわせることはできない。そういうことを「二つに分かつことはできない」と言っている。
 「二つに分かつことができない」は「私(北川)の世界への向き合い方は、既存の二つに分かつ方法(分節の仕方)では、分節として表現できない」と言っていることになる。自分のことば、既存のことばを破壊しながら動く自分のことばを、海に向かって動かそうとしていることになる。
 詩とは既存の分節に抵抗し、自分独自の分節を確立することであるという北川の思想(肉体)がここにくっきりと見える。

 歌謡曲なら、ことばは既存の「分節」にしたがって動く。すべてを「一つに括る」ようにして動く。ところが詩は、既存の「分節」を破壊しながら動く。だから、それが「わからない」のはあたりまえである。「わかる」というのは自分がすでに知っていることを確かめることだからである。
 しかし、「わからない」はずの詩なのだけれど、そのことばにつられてことばにならない「肉体」が反応するときがある。あ、ここが好きと瞬間的に思う。それは錯覚かもしれない。「誤読」だろう。その「誤読」をとおって、あ、他人(北川)の肉体に触れたと思う瞬間がある。こういうことを、私は「ことばのセックス」と呼んでいるのだが、そういう瞬間がどこかであれば、それで詩を楽しんだことになるのだと私は思う。
 「海の配分(2)」では、私は「砂の歳」の

記憶裂く 何言ったんだっけ ほら

 という行がとても好き。北川が何を言おうとしているのか私にはわからないが、「何言ったんだっけ ほら」というような口調で他人と会話することがある。そのときの「肉体」そのものを思い出し、あ、ここから北川に接近して行けるかな、と思う。
 これはしかしきょう書きたいことではないので、省略。






なぜ詩を書き続けるのか、と問われて
北川透
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