詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

野村喜和夫「新潟即興」

2015-12-30 09:49:12 | 詩(雑誌・同人誌)
野村喜和夫「新潟即興」(「hotel第2章」37、2015年12月01日発行)

 野村喜和夫「新潟即興」の一連目。

西脇の
新潟に行って
新潟の
稲穂をみた

 三行目の「新潟の」は何だろう。
 これは、別の「問い」のたて方をした方がいいのかな?
 なぜ野村は三行目に「新潟の」と書いたのか。「新潟の」と書かないと、四行目の「稲穂」は「新潟の稲穂」にはならないのか。つまり、

西脇の
新潟に行って
稲穂をみた

 と書いたとき、それは「意味」が違ってくるのか。「新潟の稲穂」ではなく「秋田の稲穂」になるのか、「富山の稲穂」になるのか。
 文法的(?)には、そんなものになりはしない。つまり、「新潟の」と書かなくても「新潟の稲穂」である。
 それでは、なぜ、そんな不経済なことばのつかい方をしたのか。
 三行目の「新潟」は単なる「土地」をあらわしているのではないのだ。ほんとうは「西脇の新潟」なのである。つまり、

西脇の
新潟に行って
西脇の新潟の
稲穂をみた

 あるいは、

西脇の
新潟に行って
西脇の
稲穂をみた

 と言った方が正確かもしれない。
 野村にとって「新潟」は北陸の一地名ではない。「土地」ではない。あくまで西脇がいて、はじめて「新潟」という名前になる「場」なのである。
 では、なぜ、一連目、

西脇の
稲穂をみた

 と書かなかったか。
 「西脇」は野村の「肉体」にぴったり重なり、「西脇の目」になっている。その目は意識化されていない。だから省略されている。

西脇の目のみた
稲穂をみた

 なのである。
 だから、二連目、

まあたらしい新幹線の駅に降り立つと
土地の豊穰の
女神の化身の
ようなひとが出迎えてくれた

 これは、

まあたらしい新幹線の駅に降り立つと
土地の「西脇の」豊穰の
女神の「西脇の」化身の
ようなひとが出迎えてくれた

 「豊穰の女神」は西脇の詩集のタイトルである。そして、四行目の「ひと」はたとえそれがだれであろうと「西脇」そのものである。

土地の「西脇の」豊穰の
女神の「西脇の」化身の
ようなひと「になって西脇」が出迎えてくれた

 である。
 ここからもう一度一連目にもどると。

西脇の
新潟に行って
稲穂の
西脇をみた

 であり、

西脇の
新潟に行って
稲穂の「なかにある」
西脇「の目」をみた

 でもある。
 野村は新潟へ行った新潟など見ていない。新潟へ行って、西脇に会っている。西脇の「肉体」を体験している。
 これはまた別の言い方ができる。
 途中を省略して、ちょうど詩のなかほどあたり。

あむばるわりあ

の西脇なら
「人間の生涯は
茄子のふくらみに写っている」というところ

 ここで野村は「西脇なら」……「というところ」と、西脇の思いを想像しているが。「文法上」は「想像」なのだが。
 野村は想像などしていない。西脇になっている。
 「にしわきなら」の「なら」は「過程」ではなく、強調である。それまで省略されてきた「無意識の西脇」をくっきりと浮かび上がらせるために、わざと「仮定する」という具合に、精神を動かし、ことばを強調している。豊穰の女神はカッコのなかに入っていなかったが、ここでは「茄子」がカッコのなかに入っている。
「人間の生涯は/茄子のふくらみに写っている」は西脇のことばと口調(リズム)を真似したものではなく、野村が西脇になったときに動いたことばなのである。そうやって、こんどは野村は「西脇の精神」を動かしているのである。
 その「ことば」のなかで、ここが野村、ここが西脇という区別はない。
 区別はないのだけれど。

とろり
とした湯につかり
ひとりでかんずりと地酒を楽しんで
何も考えなかった
はだかのすべすべの肌の女子がいくたりか出たり入ったり
して夢の敷居を濡らし
眠れない

 私の西脇は「すべすべの肌の女子」ということばは書かないが、野村の西脇/西脇の野村は、そう書くのだ。
 私の西脇は、もっと野蛮である。
 その違いに、へええ、おもしろいなあと声が出てしまう。

野村喜和夫詩集 (現代詩文庫)
野村 喜和夫
思潮社
コメント
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