詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

高木護「葉書」

2015-12-22 00:27:02 | 長田弘「最後の詩集」
高木護「葉書」(「ぶーわー」35、2015年10月20日発行)

 高木護「葉書」も、とてもめんどうくさい詩である。おもしろいのだが、どこがおもしろいのか、それを言おうとすると、自分の「肉体」をひっかきまわさないといけない。「風景描写の繊細なことばが、そこに書かれていない現代の人間社会への鋭い批評となっている」というような、「定型のことば」では要約できない。高木は、そんな「簡単」なこと(流通詩/流通する批評を受けいれる詩)を書いていない。
 何を書いているか。

膝の痛みで歩けないので
弁当の世話になっています
病院も人の世話になって
病院がよいをしています
なさけないです
まだ病院がよいよりも
弁当にころがっているほうがましのようです

 「近況」を書いている。近況を「なさけないです」と嘆いている。
 で、この詩の何がおもしろいか、どこがおもしろいか。
 私は二行目に出てくる「世話」がおもしろいと思った。「世話」について書きたいと思った。この「世話」は三行目にもつづけて出てくる。そして三行目の「世話」の方が「わかりやすい」。
 「世話」とは、ひとの助けを借りること、という意味だね。病院へ通うにも、自分ひとりでは通えない。ひとの助けを借りて通っている。「世話」は「名詞」だが、それが「事実」になるためには、そこに「ひと」がからんでくる。「ひと」の「肉体」が動く。だからこそ、三行目では「人との世話になっています」と、そこに「人」という「主体/動詞の主語となることのできる存在」が書かれている。
 でも、「弁当」は? 「弁当」が動いて、高木に何かをする? そんなことはない。だから、二行目の「世話」という表現は、ちょっと変。
 それなのに。
 「わかる」。「弁当の世話になる」ということばが、「わかる」。
 ひとりでは食事もつくれない。つくってくれるひともいない。だから、誰かがつくってくれた弁当を食べて生きている。それは、誰かの「世話になって」生きているということ。「弁当」の背後には人がいる。「弁当の世話になる」は「弁当をつくるひとの世話になる」ということ。その誰かが「わからない」から、そのひとのことは書かずに「弁当の世話になる」と言う。
 高木は自分のことを書きながら、同時に自分と「ひと」のことを書いているのである。「ひと(他人)」の力を借りないと何もできない。そのことを「なさけない」と言っている。「ひと」の力を借りるということは、「ひと」の時間を奪うということでもある。そういうことを気にするひとなのである、高木は。
 で、「弁当にころがっているほうがましのようです」というのは、「弁当」をつくってくれているひとと高木が直接関係しないからである。弁当を食べて、自分の家で寝転んでいるだけなら、まだいい。弁当をつくるひとは、高木ひとりのために弁当をつくっているわけではないだろう。個人的に、そのひとを「独占」しているわけではない。そのことが高木をいくらか気安くさせる。「まし」だと感じさせる。
 「病院がよい」は、どうしても誰かが高木といっしょに「同じ時間/同じ場所」にいる必要がある。高木は、気兼ねしてしまうのである。
 この「世話(する)」を、高木は次のように書きかえている。言い直している。

人さまがめんどを見ていると
なお歩けなくなってきて
足もよたよたになってきて
なお歩けなくなってきます
こうなったら
なお歩けなくなってきます

 「世話をする」は「めんどうをみる」。「世話をされる」は「めんどうをみてもらう」。「めんどう」は「手数がかかる」ということ。いつもよりも「手間」がかかる。誰かの「自由」に動く「手」を「自由」にさせないということ。
 ひとにめんどうをかけるのが「なさけない」。自分ひとりで何もできないのが「なさけない」。そしてひとにめんどうをみてもらっていると、さらに動けなくなる。そのことも「なさけない」。
 さらにそのことが「なお歩けなくなる」という肉体の変化を助長する。ひとの助けを借りていると、ひとの助けがないと歩けない状態にまで肉体がずぼらに後退する。困ったなあ。高木は「なおおあけなくなってき(きます)」を三回も繰り返している。「歩く」、自分で動くということは、高木にとっては重要なことなのだ。(これには過去の思い出、戦争の体験が関係しているのだが、それはこのあとわかる。)
 そんなことは気にしなくてもいいんだよ、とここで言ってもはじまらない。そんな「美辞」では高木は安心はしないねえ。
 そう思いながら読み進むのだが……。

戦地でふせっているとき
まったく歩けなくなって
おんぶされていましたが
こうなったら死んだほうがましだと思いましたが
そのときもなさけなくて
死んだふりをしたりもしていました
死人あつかいもされました

 いやあ。なんて言えばいいのか。なんと言っていいのかわからないが、ここがすごい。とくに最後の二行が、とても強い。
 高木には「歩けない」思い出がある。「なさけない」戦争の思い出。「なさけない」と思い、「死んだほうがまし」と思った。戦場で歩けない人間の世話をすることは、世話をするひとも死の危険にまきこむ恐れがある。自分のために誰かが死んではもうしわけない。それでは「なさけない」ということだろう。
 で、ここにも「……するより……するほうがまし」という「構文」が出てくる。比較して考えるひとなんだなあ、高木は。
 では。
 書かれていない「……するより……するほうがまし」をつけくわえてみようか。
 いま「弁当の世話になっている」のと、戦争のとき「ひとの世話になった」のと比べると、どちらが「まし」なのかな?
 高木は書いていないけれど、いまの方が「まし」。
 なんといっても「死人あつかい」をされない。
 いや、ほとんど「死人あつかい」されている、と感じて怒っているのかな? 現実に対して、怒っている。怒っているけれど、ここで怒ると「めんどう」になるので「死んだふり」をいまもしている。そうやって「死人」にならずに、生きていると、言っているのかな?
 「世話になる」ことを気にしながら「世話をするのは当然」と、ぺろりと舌を出しているのかもしれない。戦争を生き残ってきた。苦労してきた。「世話くらいしてくれよ」と言っているのかもしれない。
 こう書いてしまうと、きっと「高木に対して失礼だ」という批判が来るなあ。高木からも「抗議」が来るかもしれない。
 いろんなことを思うのだけれど、それをそのまま書くことで高木と向き合いたい。そういう気持ちになる。こんな感想で高木と向き合うと、ほんとうに「めんどう」が起きそうだが、そういう「めんどう」が生きていることなのだと思う。抗議する(怒る)というのは、高木にとっても「めんどう」だと思うが、そういう「めんどう」と「めんどう」が向きあいながら、「負けないぞ」「生きてやるぞ」と思うことが、きっと楽しい。

 この詩を読みながら、私は、「死にそう」、でも「生きている」という、「肉体」を感じた。それは「こんなに元気に、幸せに生きている」と書かれた詩よりも、強く「生きている」感じが迫ってくる。
 私が高木の「世話」をしているわけではないのだが、この詩を読むと高木を「世話」している気持ちになってくる。つまり、目の前に「肉体」として高木が見えてくる。
 そして、こんなしぶとい「肉体」を見ると、乱暴な気持ちにもなる。「こいつ、まだ死なないのか」と言ってみたい衝動に襲われる。そういわないと我慢できないという気がしてくる。人間には、何かつらいことをするには、暴力的にならないとくぐりぬけられないことがあるのかもしれない。言ってはいけないことも、言ってしまわないと自分が生きていけない。そういうこともあるかもしれない。
 そういう乱暴、冷酷を働いたあと、それでもなおそこに「生きている肉体」を見出し、その「肉体」の強さを、「思想」そのものの強さとして感じ、何か、畏怖の念に打たれる。
 あ、高木自身が、自分の「肉体」の「世話」をしているのだ、と気づく。他人が高木の「世話」をするよりもはるかに多くの時間と努力で、高木は、しぶとい「肉体」の「世話」をしている。その「世話」があまりにも熱心というか、強い何かなので、ひとはそこにまきこまれていく。ひとをまきこむために、高木は高木自身の「世話」をしている。「めんどう」を見ている。
 そこに、何とも言えない強さを感じた。

爺さんになれたぞ!
高木 護
影書房



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