吉田稀「次に言うことは」(「ココア共和国」18、2015年12月01日)
吉田稀「次に言うことは」は小詩集「猫の返事」のなかの一篇。
うーん、感想を書くのが難しい。
どう言えばいいのだろう。
気に入った。何が? そうだなあ、リズムだな。
それから、ことばの微妙なずれ方。
たとえば「82円の冒険」。「82円」というのは封筒の郵便料金だねえ。はがきではない。次の行に「封筒」と言い直されているけれど、「手紙の冒険」ではなく「82円の冒険」だと、そこに一瞬、意識の断然/飛躍がある。「手紙」と書きたくなかった。でも「手紙」だとわかってもらいたい。伝えたい。
言いたいことがある。でも「直接」言ってしまうのは、何か、違うと感じている。
それは書き出しの「にばんめの目標」にもあらわれている。
「いちばんめの目標」は書かれていない。きっと「手紙を書くこと」だったのだろう。まず「手紙」を書く、それからその「手紙」を出しにゆく。まあ、その前に、「手紙」を封筒にいれる、82円切手を貼る、というようなことがあるかもしれないが、「手紙」を書いたら、「手紙」を出す。
この「手紙を出す」も「直接」は書かない。「郵便ポストに向かう」。ほかの「動詞」で言い直している。
「82円の冒険」の方は「主語」を別なものにしてみたということかな? 「手紙を書く」という「私の冒険」、あるいは「手紙の冒険」。その「私/手紙(封書)」を「82円」と言ってみる。「私/手紙」は「私/手紙」にとって重要だし、誰かにとっても重要かもしれない(重要であってほしい)。でも、関係ないひとにとっては「82円」かな? 郵便を配達するひとには「82円」であれば、それでOK。「手紙」の内容なんて、関係がない。
どこかで、自分をつきはなしている。傷つかないように気をつけている。そんな感じもあるのかな?
「いのちが少し/なくなってゆく」というのはおおげさだけれど、大事な手紙がどう受け止められるか心配。その心配の気持ちが「いのちを少し」奪ってゆく。おおげさに書くことで、逆に、軽くなる感じもする。「そんなおおげさなものじゃないじょ」という「つっこみ」が軽くするのかも。
「手紙」を書いて、それを出す。それだけのことなのに、あれこれと考えてしまう。感じてしまう。それが、つづいている。
で、
ということばになる。
この静かな持続(連続)がいいなあ。
ことばが「深刻」にならずに、どこかふわふわしている。「いのちが少し/なくなってゆく」も、病気で日々いのちが削られていくという感じではない。生きていれば、どうしたって死へ向かって生きることだから、いのちは短くなる、くらいの感じ。これだって、静かな持続だ。
そうか、82円+280円=362円か。そこには「言えなかった」ことばがあるね。それは誰かにつたわるかな? わからないけれど、私はその「言えなかったことば」がそこにあるということが、好きだなあ。わからないからこそ、「言えなかった」ではなく「言わなかった」ことばとして強く響いてくる。280円切手を買い、追加して貼る、というときの「肉体(こころ)」の動きが、ことばをとおりこして直接、聞こえる。
この詩は、このあともう一連あって、そこに「いちばんめの目標」ということばもある。「いちばんめ」を吉田はきちんと書いているのだが、「いちばんめ」があることを含めて、それは読者に任せた方がおもしろいかなあ、と私は思う。
私は「いちばんめの目標」を「手紙」と言い直したけれど、これは方便。私のことばを動かすためにしたこと。読者によっては「いちばんめの目標」は「手紙」ではないかもしれない。(そうあってほしい。)
詩なのだから、「正解」はいらない。
詩なのだから、そこにあることばに対して、ただ勝手にあれこれと思うというのが楽しい。
吉田稀「次に言うことは」は小詩集「猫の返事」のなかの一篇。
にばんめの目標の
郵便ポストへ向かうたびに
いのちが少し
なくなってゆく
それは
遠い場所へ宛てた
82円の冒険だ
封筒がポストの底に
落ちたあと
いつもわたしは
言い残したことに気づく
うーん、感想を書くのが難しい。
どう言えばいいのだろう。
気に入った。何が? そうだなあ、リズムだな。
それから、ことばの微妙なずれ方。
たとえば「82円の冒険」。「82円」というのは封筒の郵便料金だねえ。はがきではない。次の行に「封筒」と言い直されているけれど、「手紙の冒険」ではなく「82円の冒険」だと、そこに一瞬、意識の断然/飛躍がある。「手紙」と書きたくなかった。でも「手紙」だとわかってもらいたい。伝えたい。
言いたいことがある。でも「直接」言ってしまうのは、何か、違うと感じている。
それは書き出しの「にばんめの目標」にもあらわれている。
「いちばんめの目標」は書かれていない。きっと「手紙を書くこと」だったのだろう。まず「手紙」を書く、それからその「手紙」を出しにゆく。まあ、その前に、「手紙」を封筒にいれる、82円切手を貼る、というようなことがあるかもしれないが、「手紙」を書いたら、「手紙」を出す。
この「手紙を出す」も「直接」は書かない。「郵便ポストに向かう」。ほかの「動詞」で言い直している。
「82円の冒険」の方は「主語」を別なものにしてみたということかな? 「手紙を書く」という「私の冒険」、あるいは「手紙の冒険」。その「私/手紙(封書)」を「82円」と言ってみる。「私/手紙」は「私/手紙」にとって重要だし、誰かにとっても重要かもしれない(重要であってほしい)。でも、関係ないひとにとっては「82円」かな? 郵便を配達するひとには「82円」であれば、それでOK。「手紙」の内容なんて、関係がない。
どこかで、自分をつきはなしている。傷つかないように気をつけている。そんな感じもあるのかな?
「いのちが少し/なくなってゆく」というのはおおげさだけれど、大事な手紙がどう受け止められるか心配。その心配の気持ちが「いのちを少し」奪ってゆく。おおげさに書くことで、逆に、軽くなる感じもする。「そんなおおげさなものじゃないじょ」という「つっこみ」が軽くするのかも。
「手紙」を書いて、それを出す。それだけのことなのに、あれこれと考えてしまう。感じてしまう。それが、つづいている。
で、
いつもわたしは
言い残したことに気づく
ということばになる。
この静かな持続(連続)がいいなあ。
ことばが「深刻」にならずに、どこかふわふわしている。「いのちが少し/なくなってゆく」も、病気で日々いのちが削られていくという感じではない。生きていれば、どうしたって死へ向かって生きることだから、いのちは短くなる、くらいの感じ。これだって、静かな持続だ。
みんな何か言い残して
死んでゆくのだろうか
信じるひとがあったとしても
280円の
速達の切手も貼れずに
言いたかったことも
言わなかったことも
そのまま置いて
わたしもいつか
何か言い残して
死んでゆくのだろう
言えなかったことを
詩のことばに代えて
今日、280円の切手を買った
合計362円の
さらなる冒険を試みる
郵便ポストの向こう
遠い場所にいるひとを信じて
さんばんめの目標の
集荷の車を待つ
そうか、82円+280円=362円か。そこには「言えなかった」ことばがあるね。それは誰かにつたわるかな? わからないけれど、私はその「言えなかったことば」がそこにあるということが、好きだなあ。わからないからこそ、「言えなかった」ではなく「言わなかった」ことばとして強く響いてくる。280円切手を買い、追加して貼る、というときの「肉体(こころ)」の動きが、ことばをとおりこして直接、聞こえる。
この詩は、このあともう一連あって、そこに「いちばんめの目標」ということばもある。「いちばんめ」を吉田はきちんと書いているのだが、「いちばんめ」があることを含めて、それは読者に任せた方がおもしろいかなあ、と私は思う。
私は「いちばんめの目標」を「手紙」と言い直したけれど、これは方便。私のことばを動かすためにしたこと。読者によっては「いちばんめの目標」は「手紙」ではないかもしれない。(そうあってほしい。)
詩なのだから、「正解」はいらない。
詩なのだから、そこにあることばに対して、ただ勝手にあれこれと思うというのが楽しい。
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