高橋紀子「夜想曲」、朝倉宏哉「クチナシの花」(「ヒーメロス」31、2015年11月発行)
高橋紀子「夜想曲」は、ことばが「ねちっこい」。
「どこかで」と不特定なところからはじまる。これが「ねちっこさ」を引き出す。「不特定」を「不特定」のままにしておけば、「ねちっこく」はならないだろうけれど。「不特定」を「特定」しようとすると、どうしても、「厳密さ」が必要になる。
で、この「厳密さ」を高橋は二つの方法で具体化する。いや、二つにみせかけたひとつかな?
「修飾節」の多様性が目につく。いや、簡単に言ってしまおう。「修飾語」をやたらと増やす。「湿った」薄翅、「よじれる」音、「撓められた」ざわめき、「逃げ延びる」音色など。うるさいくらいである。
この「修飾節/修飾語」は、それぞれ「動詞」派生のことばである。「湿る」「よじれる」「撓める」「逃げ延びる」。
こういうことばを読むと、「音」に対して「耳」が反応するというよりも、「肉体」全体が反応してしまう。「音」を聞いているというよりも、「音」になって「肉体」が動いていく。「肉体」が「音」になっていく感じがする。
「肉体」全体をつかって、というと、少し違って……。
「肉体」の、それこそ「どこか」わからない部分(特定することができない部分/どこでもいいが、ともかく肉体の部分)が「湿り/よじれ/撓み/(逃げ)延びる」。それは「どこか」の部分なのだが「肉体」というのは「ひとつ」だから、どこかで「つながる」。この「動詞」が異なりながら、どこまでも「つながり」になっていくというのが「ねちっこい」のである。
別のことばでいうと「頭」で整理できない。「肉体」で未整理のままつないでいくしかない。めんどうくさい。めんどうくさいけれど、これが意外とスムーズにできてしまう。それは、たぶん「湿り/よじれ/撓み/(逃げ)延びる」という「動詞」のなかに「共通感覚」のようなものがあるからだ。
これがさらに「こらえきれず」「うごめき」「伸び上がる」へとつながっていく。「こらえる」「うごめく」「伸びる」のなかには「よじれる」や「たわむ」という変化も含まれている。
「肉体」のなかに連続した曲線のような動きが感じられる。連続した曲線のようなものになろうとして「肉体」が動く。そういう動きをしながら、無意識に出てしまう「声」を感じる。「耳」で感じるのではなく「耳」以外の「肉体」で感じる。
「耳以外」を象徴するように「音色」ということばが出てくる。「音の色」。「色」は「耳」では識別しない。「目」で識別する。けれど、「音色」になると、「耳」で聞くのである。どこかで「耳/目」が融合している。
そんな感じで、一連目全体が「肉体/感覚の融合(肉体はひとつ)」を語っている。「音」をとおして「肉体の連続性」を語っている。この「連続性」を「肉体/感覚の各部分の接合(融合)点」ととらえなおすと、「ねちっこい」と感じる理由がわかる。肉体/感覚が、どこか特定できないところで、くっついて、離れない。ねばねばと、からみあっている。
この感覚を、二連目で、少しちがった形で言い直している。
聞こえた「音」が「痛み」による「声」と言い直されている。
私がおもしろいと思ったのは「踏みしめるたびに押しつぶされる」という表現。ここには「主役」が「ふたつ」書かれている。「踏みしめる」の「主語」、「押しつぶされる(踏みしめられる)」対象、つまり「補語」。
私が何かを踏みしめる。踏みつぶす。そうすると、踏みしめられた何か、押しつぶされた何かが「痛み」の「声(音)」を出す。
しかし、そうなのか。
ほかに読み方はできないか。私が何かを踏みしめる。踏みつぶす。そうすると、踏みしめられた何か、押しつぶされた何かから、「反作用」として刺戟がかえってくる。たとえば尖った石を踏む。踏みしめる。足に力を入れる。そうすると「尖った石の、その尖り」が「肉体」を刺し、「肉体」が「痛む」。高橋は、それを裏付けるように、「押しつぶされの痛み」(私ではないものの痛み)が「わたしのなかを」「駆けめぐる」とも書いている。尖ったときの足裏の「痛み」をとおして、私たちは、「石の痛み」というものを想像することができる。「肉体」で「誤読」することができる。
一連目で「肉体」の内部で「感覚」や「運動」が融合することを確認した。融合するから「ねちっこい」と感じるとも考えた。
二連目からは、こういう「感覚」がひとりの「肉体」のなかだけで起きることではなく、「肉体」と「肉体の外部の存在(他者)」とのあいだでも起きるものと考えることができる。
私は、こういう「感覚」を手がかりに、世界に存在するのは「私の肉体」のみ、と考える。尖った石を踏んだとしても、その石は「私の肉体」と連続した「肉体の一部」、「私の肉体が石という形をとってそこに存在している」と考えるのだが、まあ、これは私の「一元論」的思考であって、高橋がそう考えているかどうかはわからない。
わからないけれど、高橋のことばから、そんなことを考えながら、あ、おもしろい詩だなあ、と感じている。
この詩はさらに展開して、三連目で「踏みしめるたびに押しつぶされる痛み」は「忘れようとしても忘れられない」という「矛盾」の形で語られる。「矛盾」とは、「分節」される前の「世界」のあり方なのだ。この「矛盾」は「無/混沌」とも言い換えられる。その「無秩序」を高橋は「風を呼び寄せ風と烈しく混じり合い」と「混じり合う」という動詞のなかで表現している。
ということも書きたいのだが……。
ここで中断(保留)しておく。「わたしを産み捨てた女」ということばが二連目の「孤児」ということばと連動し、詩を「物語」にしてしまっている気がするからである。「物語」によって「詩」は説明しやすくなるが、その分だけ「詩(肉体)」の興奮が冷めるような気がする。
「詩」は「肉体の体験(興奮)」なのである。
*
朝倉宏哉「クチナシの花」は、前半がとてもおもしろい。
私は「クチナシの花になれ」という具合に読んだのだが、実は違っていた。それは後半で書かれるのだが、花をみて、花になる。そのとき花が「私の肉体」である、と考えるのは私の「一元論」の癖。朝倉は「意味」でことばを整理し直している。その「整理」の部分が「肉体」を離れるので、私の「肉体」はことばを追いかけるのをやめてしまう。
こんな抽象的なことを書いてもしようがないのだが。
まあ、「ヒメーロス」で直接、高橋と朝倉の作品を読んでください。そして、高橋の作品の前半のことばが、どれくらい濃密なものであるかを感じ取ってください。
*
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谷内修三詩集「注釈」(象形文字編集室)を発行しました。
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高橋紀子「夜想曲」は、ことばが「ねちっこい」。
どこかで
湿った薄翅のよじれる音がする
撓められたざわめきがこらえきれずに
うごめきながら逃げ延びる音色に似て
呻き声が伸び上がってくる
「どこかで」と不特定なところからはじまる。これが「ねちっこさ」を引き出す。「不特定」を「不特定」のままにしておけば、「ねちっこく」はならないだろうけれど。「不特定」を「特定」しようとすると、どうしても、「厳密さ」が必要になる。
で、この「厳密さ」を高橋は二つの方法で具体化する。いや、二つにみせかけたひとつかな?
「修飾節」の多様性が目につく。いや、簡単に言ってしまおう。「修飾語」をやたらと増やす。「湿った」薄翅、「よじれる」音、「撓められた」ざわめき、「逃げ延びる」音色など。うるさいくらいである。
この「修飾節/修飾語」は、それぞれ「動詞」派生のことばである。「湿る」「よじれる」「撓める」「逃げ延びる」。
こういうことばを読むと、「音」に対して「耳」が反応するというよりも、「肉体」全体が反応してしまう。「音」を聞いているというよりも、「音」になって「肉体」が動いていく。「肉体」が「音」になっていく感じがする。
「肉体」全体をつかって、というと、少し違って……。
「肉体」の、それこそ「どこか」わからない部分(特定することができない部分/どこでもいいが、ともかく肉体の部分)が「湿り/よじれ/撓み/(逃げ)延びる」。それは「どこか」の部分なのだが「肉体」というのは「ひとつ」だから、どこかで「つながる」。この「動詞」が異なりながら、どこまでも「つながり」になっていくというのが「ねちっこい」のである。
別のことばでいうと「頭」で整理できない。「肉体」で未整理のままつないでいくしかない。めんどうくさい。めんどうくさいけれど、これが意外とスムーズにできてしまう。それは、たぶん「湿り/よじれ/撓み/(逃げ)延びる」という「動詞」のなかに「共通感覚」のようなものがあるからだ。
これがさらに「こらえきれず」「うごめき」「伸び上がる」へとつながっていく。「こらえる」「うごめく」「伸びる」のなかには「よじれる」や「たわむ」という変化も含まれている。
「肉体」のなかに連続した曲線のような動きが感じられる。連続した曲線のようなものになろうとして「肉体」が動く。そういう動きをしながら、無意識に出てしまう「声」を感じる。「耳」で感じるのではなく「耳」以外の「肉体」で感じる。
「耳以外」を象徴するように「音色」ということばが出てくる。「音の色」。「色」は「耳」では識別しない。「目」で識別する。けれど、「音色」になると、「耳」で聞くのである。どこかで「耳/目」が融合している。
そんな感じで、一連目全体が「肉体/感覚の融合(肉体はひとつ)」を語っている。「音」をとおして「肉体の連続性」を語っている。この「連続性」を「肉体/感覚の各部分の接合(融合)点」ととらえなおすと、「ねちっこい」と感じる理由がわかる。肉体/感覚が、どこか特定できないところで、くっついて、離れない。ねばねばと、からみあっている。
この感覚を、二連目で、少しちがった形で言い直している。
足裏に刻印された 孤児 という文字を
踏みしめるたびに押しつぶされる痛みが
わたしのなかどこまでも深く駆けめぐり
いっそ わたし 炎になろうか
聞こえた「音」が「痛み」による「声」と言い直されている。
私がおもしろいと思ったのは「踏みしめるたびに押しつぶされる」という表現。ここには「主役」が「ふたつ」書かれている。「踏みしめる」の「主語」、「押しつぶされる(踏みしめられる)」対象、つまり「補語」。
私が何かを踏みしめる。踏みつぶす。そうすると、踏みしめられた何か、押しつぶされた何かが「痛み」の「声(音)」を出す。
しかし、そうなのか。
ほかに読み方はできないか。私が何かを踏みしめる。踏みつぶす。そうすると、踏みしめられた何か、押しつぶされた何かから、「反作用」として刺戟がかえってくる。たとえば尖った石を踏む。踏みしめる。足に力を入れる。そうすると「尖った石の、その尖り」が「肉体」を刺し、「肉体」が「痛む」。高橋は、それを裏付けるように、「押しつぶされの痛み」(私ではないものの痛み)が「わたしのなかを」「駆けめぐる」とも書いている。尖ったときの足裏の「痛み」をとおして、私たちは、「石の痛み」というものを想像することができる。「肉体」で「誤読」することができる。
一連目で「肉体」の内部で「感覚」や「運動」が融合することを確認した。融合するから「ねちっこい」と感じるとも考えた。
二連目からは、こういう「感覚」がひとりの「肉体」のなかだけで起きることではなく、「肉体」と「肉体の外部の存在(他者)」とのあいだでも起きるものと考えることができる。
私は、こういう「感覚」を手がかりに、世界に存在するのは「私の肉体」のみ、と考える。尖った石を踏んだとしても、その石は「私の肉体」と連続した「肉体の一部」、「私の肉体が石という形をとってそこに存在している」と考えるのだが、まあ、これは私の「一元論」的思考であって、高橋がそう考えているかどうかはわからない。
わからないけれど、高橋のことばから、そんなことを考えながら、あ、おもしろい詩だなあ、と感じている。
この詩はさらに展開して、三連目で「踏みしめるたびに押しつぶされる痛み」は「忘れようとしても忘れられない」という「矛盾」の形で語られる。「矛盾」とは、「分節」される前の「世界」のあり方なのだ。この「矛盾」は「無/混沌」とも言い換えられる。その「無秩序」を高橋は「風を呼び寄せ風と烈しく混じり合い」と「混じり合う」という動詞のなかで表現している。
ということも書きたいのだが……。
ここで中断(保留)しておく。「わたしを産み捨てた女」ということばが二連目の「孤児」ということばと連動し、詩を「物語」にしてしまっている気がするからである。「物語」によって「詩」は説明しやすくなるが、その分だけ「詩(肉体)」の興奮が冷めるような気がする。
「詩」は「肉体の体験(興奮)」なのである。
*
朝倉宏哉「クチナシの花」は、前半がとてもおもしろい。
クチナシの花はすべて散り果て
ひと月あるいはふた月も経ち
庭の一隅が青葉の茂みと化したとき
忽然と一輪だけ咲いたのである
あまりにも鮮やかな白と
あまりにも濃やかな香の
クチナシノ花がまるごと
一輪の言葉を私に告げたのである
ここしばらくはクチナシになれ と
私は「クチナシの花になれ」という具合に読んだのだが、実は違っていた。それは後半で書かれるのだが、花をみて、花になる。そのとき花が「私の肉体」である、と考えるのは私の「一元論」の癖。朝倉は「意味」でことばを整理し直している。その「整理」の部分が「肉体」を離れるので、私の「肉体」はことばを追いかけるのをやめてしまう。
こんな抽象的なことを書いてもしようがないのだが。
まあ、「ヒメーロス」で直接、高橋と朝倉の作品を読んでください。そして、高橋の作品の前半のことばが、どれくらい濃密なものであるかを感じ取ってください。
朝倉宏哉 詩選集一四〇篇 (コールサック詩文庫) | |
朝倉 宏哉 | |
コールサック社 |
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