高木護「葉書」(2)(「ぶーわー」35、2015年10月20日発行)
詩の感想は、書いてみないと、どうなるかわからない。書いているうちに、だんだん違うことに気がついて、ことばがずれていくことがある。書き終わったあとになって、あ、違うことを書くべきだったと思うこともある。何度でも、ああでもない、こうでもないと、ことばを突き動かしてくれる作品が、きっといい詩なのだろう。
高木護「葉書」の、この書き出しの「世話」について書きたい。とくに二行目の「弁当の世話になっています」について書きたい--そう思ってきのうも書いたのだが、思っていることは、どうも書き切れていない。
で、きょうも書く。
きのう私は、「弁当の世話になっている」を「他人の世話になっている」と同じ意味にとった。誰かがつくってくれた弁当を食べている。自分で食事をつくっていない。それは誰かの「世話になる」ということ。
でも、違うなあ。
高木は「弁当」を食うことで、自分自身の「世話をしている」。
「世話になっている」と書いているけれど、どうも「世話になっている」ということばそのとおりに受け取ってしまっては、この作品のおもしろさは味わえない。
最後の方に、
ということばが出て来る。
これは戦場で戦友の世話になったときのことが書かれている。しかし、ここには「世話」ということばが出て来ない。いま、「弁当の世話になり」、病院へ「人の世話になり」通っているのに比べると、戦場での「世話」の方がはるかに大変なのに(なんといっても、他人のいのちをまきこんでしまう)、そこでは「世話になった」とは書いていない。
なぜ?
「世話」というような簡単なことばを超える状況だから?
そうかもしれない。
しかし、こんなふうに考えることはできないだろうか。
戦場では高木は、誰よりも真剣に高木自身の「世話」をしていた。戦友も「世話」をしてくれただろうけれど、高木自身が高木を「世話」していた。死なないように「めんどうをみていた」。
ときには「死んだふり」という形で「世話」していた。
この「死んだふり」は、なかなか難しい。もしかすると、「死んだふり」をしていれば戦争をしなくてもすむ、ということもあるかもしれない。銃を撃たなくていい。ただ、隠れていればいい、ということもあるかもしれない。高木にその気持ちがあったかどうかはわからないが、戦友たちが銃を撃っている背後で、弾に当たらないようにただ隠れている。動けないのだからそうするしかないのだが、それが結果的に戦死しないように自分を「世話する」ということになったかもしれない。
「死人あつかいもされました」というのは、満足な「世話」を受けることができなかったということだろう。食事も、どうせ死ぬんだから高木にはやらなくてもいい、ということで満足にもらえなかったかもしれない。そういう形の「世話のされ方」を高木は受けいれながら、同時に「おんぶされる」という「世話」をしてもらった。「おんぶされる」という「世話」をしてもらうかわりに、食い物を満足にもらえない、つまり「死人あつかいされる」という状況を受けいれたのかもしれない。
微妙な状況で、高木は高木自身を「世話」していた。そういう「状況」を受けれいることで「生きる/死なない」という自分自身を「世話」していた。
こういう「読み方」は「誤読」を超えてしまっているかもしれないなあ。
しかし、私には、何か「世話される」だけの「弱者」としての人間ではなく、厳しい状況のなかでなんとか自分自身の「世話をする」、「生きもの」としての人間の姿をそこに感じる。「生きもの」の「本能」の「強さ」、「強者」を感じる。
自分で自分の「世話をする」。そういう「生き方」を感じる。
そういう「感じ」がわいてくるのはなぜか。
「死人あつかいもされました」の「あつかい」ということばが、何かそう感じさせるのだ。「あつかい」は「あつかう」という「動詞」として読み直すことができる。
「世話をする」も「あつかう」ということ。「病人の世話をする」は病人を病人として「あつかい」、病気から回復するように支えるということ。「あつかう」は「働きかける」でもある。冷たくいえば「処理する」ということになるかもしれないけれど。何か、「世話をする」と「あつかう」には似たところがある。
けれど、高木はそれをはっきりとつかいわけている。
戦場の記憶を語るときは「世話」とは書かずに「あつかい(あつかう)」と書いている。あるいは「おんぶされる」という具体的な「肉体」の運動として書いている。戦場では、誰も高木の「世話」をしなかったということかもしれない。「親身」ではなかったということかもしれない。戦場のルールに従って、高木を「あつかった(処理した)」。そういうルールでは死んでしまうことが多いかもしれない。高木が生きているのは、戦友たちの「あつかい」とは別に、高木自身が自分を「世話」していたからだ。
「世話」ということばをつかうとき、高木には「自分の世話をする」という動きが含まれているように思う。
それが、
この一行に潜んでいる。
人がつくってくれる弁当の世話になっている。そこには「人」が隠れている。きのうの感想ではそう書いたのだが、これは「嘘」っぽい。ここに「人」を補って読むのは「美しすぎる」と、私は感じている。
きのうは、たぶん、高木に遠慮のようなものが働いて、私はそこまで書けなかった。こんなふうに読むのは失礼だという思いが、どうしても働いてしまった。でも、きのうは、そういうことを書いたので、きょうはあえて違う読み方をするという形で感想を書き直すことができる。
詩の読み方は「ひとつ」ではない。「答え」があるわけではない。そう開き直って、私は、違うことを書くのである。
「弁当の世話になっています」ということばに「人」が出て来ないのは、そのとき高木は「人」を考慮に入れていないからである。「病院がよい」について書くとき「人の世話になって」と書くのは、そこでは「人」を省略できないからである。
「弁当」は、たしかに「人(他人)」がつくってくれたもの。「つくる」という過程では「人の世話になっている」。しかし、「弁当」は他人が「親身」になってつくったものか。あるいは、「弁当」を「食べる」ときはどうか。「人の世話になっていない」。高木は自分で食べている。(歩けない、とは書いているが手が動かせないとは書いていない。)つまり、「弁当」を「食べる」ことで、高木は「親身」になって、自分自身の「肉体(いのち)」の「世話をしている」。
「世話をする」は「食べる」と言い直すことができる。つまり、
人(他人)がしてくれるのは、「弁当を買ってきてくれる」という「世話」であり、かわりに食事をつくってれくるという「世話」ではない。その「弁当」は高木がほんとうに食べたいものではないかもしれない。けれど、高木は「与えられた」弁当で、自分の「いのち」の「世話をしている」。
「世話をする」という「動詞」は、どうしても「誰かを世話をする」という形で思い浮かべてしまうが、「他人」ではなく、「自分の世話をする」という形で動くときもある。高木は、そういう「世話をする」という「動詞」をこの詩のなかで生み出している。見えにくいけれど、そういう「動き」がこの詩にはある。
自分で自分の「いのちの世話をした」という思いがあるからこそ、「世話」というあたたかいことばではない「あつかう」ということばで、「死人あつかいもされました」という一行が動くのだと思った。
ここから逆に、前半に出てくる「世話」を「あつかい」と読み直すことができるかもしれない。「世話」ではなく「扱い」と感じ、怒りにかられているのかもしれない。そして、そんなふうに「あつかわれる」ことを「なさけない」と書いているようにも思える。何もできないことが「なさけない」のではなく、「もののように(死人のように)」「あつかわれる」。そのことが「生きているもの」として「なさけない」。それはまた、そんなふうにして「あつかう」ひとを「なさけない」と思うことでもある。そんなふうにしてしか「ひと(私/高木)」にむきあえないというのは、人間として「なさけなくはないか」。そういう「問い」も含まれていると感じる。
「世話」は「世話をされる」とも「(自分の)世話をする」とも読むことができる。「なさけない」は自分を「なさけない」と感じているとも、他人に対して「なさけない」と怒っているとも読むことができる。
どちらが「激しい誤読」なのか、わからない。
わからないけれど、私は、「自分の世話をする」、他人を「なさけなく思う」と読む方が、高木の「肉体」になった気持ちになる。
そして、そう感じたとき、不思議なことに、最終行の「死人あつかいもされました」の「あつかい」が逆に「親身」にも見えてる。表面的は「死人あつかい」したけれど、それは「比喩」的な意味。ほんとうは「親身」になって、ちゃんと高木を日本にまでつれかえっている。
ことばは読むたびに「意味」をかえる。「肉体」のちがったところを刺戟してくる。だから、楽しい。
詩の感想は、書いてみないと、どうなるかわからない。書いているうちに、だんだん違うことに気がついて、ことばがずれていくことがある。書き終わったあとになって、あ、違うことを書くべきだったと思うこともある。何度でも、ああでもない、こうでもないと、ことばを突き動かしてくれる作品が、きっといい詩なのだろう。
膝の痛みで歩けないので
弁当の世話になっています
病院も人の世話になって
病院がよいをしています
なさけないです
まだ病院がよいよりも
弁当にころがっているほうがましのようです
高木護「葉書」の、この書き出しの「世話」について書きたい。とくに二行目の「弁当の世話になっています」について書きたい--そう思ってきのうも書いたのだが、思っていることは、どうも書き切れていない。
で、きょうも書く。
きのう私は、「弁当の世話になっている」を「他人の世話になっている」と同じ意味にとった。誰かがつくってくれた弁当を食べている。自分で食事をつくっていない。それは誰かの「世話になる」ということ。
でも、違うなあ。
高木は「弁当」を食うことで、自分自身の「世話をしている」。
「世話になっている」と書いているけれど、どうも「世話になっている」ということばそのとおりに受け取ってしまっては、この作品のおもしろさは味わえない。
最後の方に、
戦地でふせっているとき
まったく歩けなくなって
おんぶされていましたが
こうなったら死んだほうがましだと思いましたが
そのときもなさけなくて
死んだふりをしたりもしていました
死人あつかいもされました
ということばが出て来る。
これは戦場で戦友の世話になったときのことが書かれている。しかし、ここには「世話」ということばが出て来ない。いま、「弁当の世話になり」、病院へ「人の世話になり」通っているのに比べると、戦場での「世話」の方がはるかに大変なのに(なんといっても、他人のいのちをまきこんでしまう)、そこでは「世話になった」とは書いていない。
なぜ?
「世話」というような簡単なことばを超える状況だから?
そうかもしれない。
しかし、こんなふうに考えることはできないだろうか。
戦場では高木は、誰よりも真剣に高木自身の「世話」をしていた。戦友も「世話」をしてくれただろうけれど、高木自身が高木を「世話」していた。死なないように「めんどうをみていた」。
ときには「死んだふり」という形で「世話」していた。
この「死んだふり」は、なかなか難しい。もしかすると、「死んだふり」をしていれば戦争をしなくてもすむ、ということもあるかもしれない。銃を撃たなくていい。ただ、隠れていればいい、ということもあるかもしれない。高木にその気持ちがあったかどうかはわからないが、戦友たちが銃を撃っている背後で、弾に当たらないようにただ隠れている。動けないのだからそうするしかないのだが、それが結果的に戦死しないように自分を「世話する」ということになったかもしれない。
「死人あつかいもされました」というのは、満足な「世話」を受けることができなかったということだろう。食事も、どうせ死ぬんだから高木にはやらなくてもいい、ということで満足にもらえなかったかもしれない。そういう形の「世話のされ方」を高木は受けいれながら、同時に「おんぶされる」という「世話」をしてもらった。「おんぶされる」という「世話」をしてもらうかわりに、食い物を満足にもらえない、つまり「死人あつかいされる」という状況を受けいれたのかもしれない。
微妙な状況で、高木は高木自身を「世話」していた。そういう「状況」を受けれいることで「生きる/死なない」という自分自身を「世話」していた。
こういう「読み方」は「誤読」を超えてしまっているかもしれないなあ。
しかし、私には、何か「世話される」だけの「弱者」としての人間ではなく、厳しい状況のなかでなんとか自分自身の「世話をする」、「生きもの」としての人間の姿をそこに感じる。「生きもの」の「本能」の「強さ」、「強者」を感じる。
自分で自分の「世話をする」。そういう「生き方」を感じる。
そういう「感じ」がわいてくるのはなぜか。
「死人あつかいもされました」の「あつかい」ということばが、何かそう感じさせるのだ。「あつかい」は「あつかう」という「動詞」として読み直すことができる。
「世話をする」も「あつかう」ということ。「病人の世話をする」は病人を病人として「あつかい」、病気から回復するように支えるということ。「あつかう」は「働きかける」でもある。冷たくいえば「処理する」ということになるかもしれないけれど。何か、「世話をする」と「あつかう」には似たところがある。
けれど、高木はそれをはっきりとつかいわけている。
戦場の記憶を語るときは「世話」とは書かずに「あつかい(あつかう)」と書いている。あるいは「おんぶされる」という具体的な「肉体」の運動として書いている。戦場では、誰も高木の「世話」をしなかったということかもしれない。「親身」ではなかったということかもしれない。戦場のルールに従って、高木を「あつかった(処理した)」。そういうルールでは死んでしまうことが多いかもしれない。高木が生きているのは、戦友たちの「あつかい」とは別に、高木自身が自分を「世話」していたからだ。
「世話」ということばをつかうとき、高木には「自分の世話をする」という動きが含まれているように思う。
それが、
弁当の世話になっています
この一行に潜んでいる。
人がつくってくれる弁当の世話になっている。そこには「人」が隠れている。きのうの感想ではそう書いたのだが、これは「嘘」っぽい。ここに「人」を補って読むのは「美しすぎる」と、私は感じている。
きのうは、たぶん、高木に遠慮のようなものが働いて、私はそこまで書けなかった。こんなふうに読むのは失礼だという思いが、どうしても働いてしまった。でも、きのうは、そういうことを書いたので、きょうはあえて違う読み方をするという形で感想を書き直すことができる。
詩の読み方は「ひとつ」ではない。「答え」があるわけではない。そう開き直って、私は、違うことを書くのである。
「弁当の世話になっています」ということばに「人」が出て来ないのは、そのとき高木は「人」を考慮に入れていないからである。「病院がよい」について書くとき「人の世話になって」と書くのは、そこでは「人」を省略できないからである。
「弁当」は、たしかに「人(他人)」がつくってくれたもの。「つくる」という過程では「人の世話になっている」。しかし、「弁当」は他人が「親身」になってつくったものか。あるいは、「弁当」を「食べる」ときはどうか。「人の世話になっていない」。高木は自分で食べている。(歩けない、とは書いているが手が動かせないとは書いていない。)つまり、「弁当」を「食べる」ことで、高木は「親身」になって、自分自身の「肉体(いのち)」の「世話をしている」。
「世話をする」は「食べる」と言い直すことができる。つまり、
膝の痛みで歩けないので(買い物に行って材料を買ってきて料理をつくれないので)
弁当を食べています/食べることで親身になって肉体のめんどうをみている
人(他人)がしてくれるのは、「弁当を買ってきてくれる」という「世話」であり、かわりに食事をつくってれくるという「世話」ではない。その「弁当」は高木がほんとうに食べたいものではないかもしれない。けれど、高木は「与えられた」弁当で、自分の「いのち」の「世話をしている」。
「世話をする」という「動詞」は、どうしても「誰かを世話をする」という形で思い浮かべてしまうが、「他人」ではなく、「自分の世話をする」という形で動くときもある。高木は、そういう「世話をする」という「動詞」をこの詩のなかで生み出している。見えにくいけれど、そういう「動き」がこの詩にはある。
自分で自分の「いのちの世話をした」という思いがあるからこそ、「世話」というあたたかいことばではない「あつかう」ということばで、「死人あつかいもされました」という一行が動くのだと思った。
ここから逆に、前半に出てくる「世話」を「あつかい」と読み直すことができるかもしれない。「世話」ではなく「扱い」と感じ、怒りにかられているのかもしれない。そして、そんなふうに「あつかわれる」ことを「なさけない」と書いているようにも思える。何もできないことが「なさけない」のではなく、「もののように(死人のように)」「あつかわれる」。そのことが「生きているもの」として「なさけない」。それはまた、そんなふうにして「あつかう」ひとを「なさけない」と思うことでもある。そんなふうにしてしか「ひと(私/高木)」にむきあえないというのは、人間として「なさけなくはないか」。そういう「問い」も含まれていると感じる。
「世話」は「世話をされる」とも「(自分の)世話をする」とも読むことができる。「なさけない」は自分を「なさけない」と感じているとも、他人に対して「なさけない」と怒っているとも読むことができる。
どちらが「激しい誤読」なのか、わからない。
わからないけれど、私は、「自分の世話をする」、他人を「なさけなく思う」と読む方が、高木の「肉体」になった気持ちになる。
そして、そう感じたとき、不思議なことに、最終行の「死人あつかいもされました」の「あつかい」が逆に「親身」にも見えてる。表面的は「死人あつかい」したけれど、それは「比喩」的な意味。ほんとうは「親身」になって、ちゃんと高木を日本にまでつれかえっている。
ことばは読むたびに「意味」をかえる。「肉体」のちがったところを刺戟してくる。だから、楽しい。
飢えの原形 (1983年) | |
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