監督 エドワード・ズウィック 出演 トビー・マグワイア、リーブ・シュレイバー、ピーター・サースガード
チェスをするひとは、みんな神経質なのだろうか。神経を病んでしまうのだろうか。そんな印象が広がってしまうと困るだろうなあ、ということが気になった。
最初はトビー・マグワイアの姿が克明に描かれる。あらゆることに敏感に反応してしまう。集中できない、といらだつ姿が描かれる。トビー・マグワイアは、もともと陽気な顔をしていないので、その気になって見てしまうなあ。
いちばんおもしろいなあと思ったのが、トビー・マグワイアの神経質がリーブ・シュレイバーに「伝染(感染?)」してしまう場面。
トビー・マグワイアが物音のしない卓球室で試合をしたいと言い張り、リーブ・シュレイバーがそれに応じる。そして試合がはじまると、それまで神経質な様子はみせなかったリーブ・シュレイバーがささいなことを気にしはじめる。座っている椅子が震動するという。「高周波(?)の震動」だと言う。椅子をひっくりかえして、椅子の脚をまわしてみたりする。
これをトビー・マグワイアが落ち着いてみている。「こいつ、乱れはじめたぞ」という感じで、冷やかに見ている。「自分と同じだ」というのではなく、「自分以下だ」という感じ。そして、ここから二人の力関係が逆転するのだが……。
うーん。
もしかすると、トビー・マグワイアの神経質は芝居? 嘘?
たしかに神経質なところはあるんだろうが、ほんとうは「頑丈」かもしれない。神経質を装うと「自己主張」が通る、ということに気づき、それを利用しているのかもしれない。演技しつづけているのかもしれない。
リーブ・シュレイバーとの対戦よりも前、はじめての「大会」に出るとき、時間切れ寸前になって姿をあらわす。これも緊張からぎりぎりまで動けなかったというよりも、相手の集中力を乱すための「作戦」のような気がする。
自分のペースに相手を引きずり込む、といえばいいのかもしれない。
マネージャーの弁護士、トレーナー(練習相手?)の神父、妹や母親さえもまきこんで「芝居」をする。いや、妹はトビー・マグワイアと「ぐる」だったかもしれない。母親も「ぐる」だったかもしれない。
最初にブルックリンのチェス道場(?)へ行くときも、そこへ連れていったのは母親だ。母親がトビー・マグワイアのこと(演じているのは子役)を説明する。それは、いま思えば母親の「演技指導」でチェスすることを演じているという感じすらする。トビー・マグワイアは、父親と離婚した(?)母親を憎んでいる。それは憎しみであると同時に、母親への甘えというか、愛情の飢えが別の形になってあらわれている、という感じだ。
全員を、だまし、自分の得意の「場」にひきずりこみ、そこで「勝負」をする。
リーブ・シュレイバーは、その「芝居/勝負」の最大の犠牲者だろうなあ。相手の「迫真の演技」に影響され、「神経質」という「病」に感染してしまう。
そう思えてならない。
特に、「第6局」。語り種になっている試合らしいが、「負け」を悟ったリーブ・シュレイバーが立ち上がり、拍手をする。ふつうは、負けた方が握手の手を差し出す。そういうやり方を跳び越えて、拍手をしてトビー・マグワイアをたたえる。
このとき、トビー・マグワイアが驚いた表情をみせる。このときだけ、「ほんとう」のトビー・マグワイアがあらわれる、という感じだ。「えっ、悔しくないのか。負けても気にならないのか」。
きっと気にならない。
リーブ・シュレイバーは、このとき悟ったのだ。負けたのではない。トビー・マグワイアが、自分の能力を乗り越えて、別の次元に到達したのだ。しかし、それは「自力」で到達したのではない。リーブ・シュレイバーがいたからこそ、トビー・マグワイアはその次元に到達できたのだ。「第6局」は、いわば「ふたり」でつくりあげた「完成品」なのである。そういう喜びがリーブ・シュレイバーの表情にあふれている。
だから、といえばいいのか。
トビー・マグワイアは結局、負けたのである。対戦結果はトビー・マグワイアが勝っているのだが、「人生」に負けた。「人間」として負けた。
映画は、トビー・マグワイアの「破滅」を試合後の様子として語っているが、その「破滅」さえ、「芝居」にみえてしまう。「ほんとう」をどうあらわしていいかわからず、苦悩している姿に見えてしまう。
もし、私がいま書いたようなことを、この映画が狙っているのだとしたら★4個の作品だが、よくわからない。私の深読み/誤読かもしれない。ほんとうは、そう読みたいんだけれど。
(天神東宝スクリーン4、2015年12月27日)
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