佐々木洋一「箒(ほうき)」(「ササヤンカの村」24、2016年01月発行)
佐々木洋一「箒(ほうき)」は一行が一連の形で書かれている。(一行空きの形で書かれている。)
という具合。
行空きをとってしまうと、
となってしまう。
「意味」はかわらないかもしれない。けれど読んだときの印象が違う。ことばのリズムが違ってしまう。
一行空きがあると、読む呼吸が違ってくる。ゆったりしてくる。「意味」を追いかけるというよりも、その一行一行で、いったん世界が完結していく感じがする。「意味」がいったん捨てられて、ことばが再び動き出す感じ。
もし「意味」をつなげるとしたら、書かれていることばを追いかけるだけでは不十分なのかもしれない。一行空きの、間合いの感覚を味わう必要があるのかもしれない。
その「間合い」に何があるのだろう。
これは、「箒が立てかけられている」状態の描写。私は、わざと「立てかけられている」と書き直して説明したのだが、「立てかけてある」と「立てかけられている」は、ほんとうは違う。どちらも「主語」が省略されているのだが、「立てかけてある」というときは、主語は想定されている。「私が」箒を立てかけた、その箒がそのままの状態にある。「立てかけられてある」と「受け身」の場合は、「誰かが」立てかけたのだが、その「誰か」のことは無視して、ただ箒の状態を示している。「誰が」を問題にしないで、ただ「状態」だけを問題にするとき、日本語では「受け身」の形で書くことが多い。(と、私は感じている。)
なぜ、こんなことにこだわるかといえば。
この省略された「私が」という主語こそが間合いにあって、それが行と行をつないでいると感じるからだ。つまり、
この行の「足元」と関係してくる。誰の「足元」? 私は「箒の足元」と思って読むのだが、同時に、それは箒を見ている「私(佐々木)」の「足元」と重なっている。
箒は足元を「むずかゆい」と感じるか。感じるかもしれないが、箒はそう語るわけではないので、わからない。その「わからない」ことを佐々木は佐々木の「肉体(足元)」の感覚で語っている。あの状態は「むずかゆい」という「肉体」が覚えている感覚を思い出させる、と。
そして、そう読み直すとき、その箒は、どうしても佐々木が「立てかけた」ものでないとうまくつながらない。たとえ誰か知らないひとが立てかけたものであっても、その「足元がむずかゆい」と感じたとき、佐々木は箒を「立てかけた」ひとの「肉体」になっている。
「立てかけた」ひとが意識から除外されているとき、つまり「立てかけられている」と表現がはじまったなら、「足元がむずかゆい」という「肉体」を含むことばは動きにくい。自分の手で箒を立てかける。自分の「肉体」と箒が接触したからこそ(連続したからこそ)、箒の「足元(細かく枝分かれした部分、柄とは反対の部分)」が何かを感じているのがわかる。箒は、その箒をつかったひとの「肉体」になっているのである。
そういう書かれていないこと(ことば)を感じ取る時間のために、一行空きの間合い、余白が必要だ。
で、次に
ここでは「むずかゆい」が「くすぐっている」ということばで言い直されている。「くすぐっている」の主語は「木の実、花びら、木の葉」であるが、この「くすぐっている」を「くすぐられている」と読み返すと、「くすぐられている」のは「箒の肉体(佐々木の肉体につながっているもの)」になる。
「むずかゆい」と「くすぐられ、こそばゆい」は違う。違うけれど似ているかもしれないなあ。軽い違和感。不快にまではならない、妙な感じ。からだを動かして(よじって)、その刺激から逃げたい感じ。
「足元がむずかゆい」のは「足元がくすぐられる」からだ。
「私」ということばを隠しながら、つまり佐々木の存在を隠しながら、「肉体」の感覚だけは、箒のなかに残している。
三行を、省略されたことばをカッコで補いながらしつこく言い直せば、そんな具合になるかもしれない。しかし、こんなふうにしつこくことばにしてしまっては、詩ではなくなるね。だから佐々木は「空白」で余分なものを吹き払って、ことばを簡単にしている。簡単にしているために、何か「論理(意味)」の連続性が弱くなっている。
ただし。
その弱くなった部分に「肉体」が隠れるように忍び込んでいるので、書かれていることばが「肉体」のどこかを刺戟する。
「むずかゆい」「くすぐっている」
「むずかゆい」「くすぐっている(くすぐられている)」ということばのなかで、そのことばをつなぐ間/間合い(余白)のなかで、箒が箒ではなく、佐々木の「肉体」になる。
さらに「ころげた」「くちた」「かわいた」という「動詞」が「肉体」を刺戟する。「ころげる」「くちる」「かわく」の「主語」は「私(佐々木)」ではないが、そういう「動詞(動詞派生の修飾語/連体形)」が「肉体」を刺戟する。「動詞」によって、そこに書かれている「もの」がより身近になる。現実になる。
箒が書かれているのに、感じるのは「肉体」なのである。「肉体」が箒になって、そこで起きている世界を受け止めている。
こういうことが、さらに言い直されていく。
「みみたぶのようにかゆい」がいったい何のことか、別のことばで言い直すことは私にはできない。つまり、何を言いたいのか、私にはわからない。わからないのだけれど、わっ、いいなあ。「みみたぶかゆい」というときの「みみたぶ」の感じを思い出してしまう。
箒に「みみたぶ」なんてないから(足元なら、地面に触れる方を足と読み直すことができるが)、それが箒のこととは思えない。ただ自分の「肉体」の「みみたぶ」で、ここに書かれている「みみたぶ」を感じる。
つまり、箒なのに、それはもう箒ではなく、私は箒になって、世界を感じているということ。
まいるね。どう説明していいかわからなくなる。でも、なんだか楽しい。「肉体」が世界を楽しんでいる。
途中を省略して、最後を引用しておこう。
*
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佐々木洋一「箒(ほうき)」は一行が一連の形で書かれている。(一行空きの形で書かれている。)
箒が立てかけてある
足元がむずかゆい
ころげた木の実やくちた花びらやかわいた木の葉がくすぐっている
という具合。
行空きをとってしまうと、
箒が立てかけてある
足元がむずかゆい
ころげた木の実やくちた花びらやかわいた木の葉がくすぐっている
となってしまう。
「意味」はかわらないかもしれない。けれど読んだときの印象が違う。ことばのリズムが違ってしまう。
一行空きがあると、読む呼吸が違ってくる。ゆったりしてくる。「意味」を追いかけるというよりも、その一行一行で、いったん世界が完結していく感じがする。「意味」がいったん捨てられて、ことばが再び動き出す感じ。
もし「意味」をつなげるとしたら、書かれていることばを追いかけるだけでは不十分なのかもしれない。一行空きの、間合いの感覚を味わう必要があるのかもしれない。
その「間合い」に何があるのだろう。
箒が立てかけてある
これは、「箒が立てかけられている」状態の描写。私は、わざと「立てかけられている」と書き直して説明したのだが、「立てかけてある」と「立てかけられている」は、ほんとうは違う。どちらも「主語」が省略されているのだが、「立てかけてある」というときは、主語は想定されている。「私が」箒を立てかけた、その箒がそのままの状態にある。「立てかけられてある」と「受け身」の場合は、「誰かが」立てかけたのだが、その「誰か」のことは無視して、ただ箒の状態を示している。「誰が」を問題にしないで、ただ「状態」だけを問題にするとき、日本語では「受け身」の形で書くことが多い。(と、私は感じている。)
なぜ、こんなことにこだわるかといえば。
この省略された「私が」という主語こそが間合いにあって、それが行と行をつないでいると感じるからだ。つまり、
足元がむずかゆい
この行の「足元」と関係してくる。誰の「足元」? 私は「箒の足元」と思って読むのだが、同時に、それは箒を見ている「私(佐々木)」の「足元」と重なっている。
箒は足元を「むずかゆい」と感じるか。感じるかもしれないが、箒はそう語るわけではないので、わからない。その「わからない」ことを佐々木は佐々木の「肉体(足元)」の感覚で語っている。あの状態は「むずかゆい」という「肉体」が覚えている感覚を思い出させる、と。
そして、そう読み直すとき、その箒は、どうしても佐々木が「立てかけた」ものでないとうまくつながらない。たとえ誰か知らないひとが立てかけたものであっても、その「足元がむずかゆい」と感じたとき、佐々木は箒を「立てかけた」ひとの「肉体」になっている。
「立てかけた」ひとが意識から除外されているとき、つまり「立てかけられている」と表現がはじまったなら、「足元がむずかゆい」という「肉体」を含むことばは動きにくい。自分の手で箒を立てかける。自分の「肉体」と箒が接触したからこそ(連続したからこそ)、箒の「足元(細かく枝分かれした部分、柄とは反対の部分)」が何かを感じているのがわかる。箒は、その箒をつかったひとの「肉体」になっているのである。
そういう書かれていないこと(ことば)を感じ取る時間のために、一行空きの間合い、余白が必要だ。
で、次に
ころげた木の実やくちた花びらやかわいた木の葉がくすぐっている
ここでは「むずかゆい」が「くすぐっている」ということばで言い直されている。「くすぐっている」の主語は「木の実、花びら、木の葉」であるが、この「くすぐっている」を「くすぐられている」と読み返すと、「くすぐられている」のは「箒の肉体(佐々木の肉体につながっているもの)」になる。
「むずかゆい」と「くすぐられ、こそばゆい」は違う。違うけれど似ているかもしれないなあ。軽い違和感。不快にまではならない、妙な感じ。からだを動かして(よじって)、その刺激から逃げたい感じ。
「足元がむずかゆい」のは「足元がくすぐられる」からだ。
「私」ということばを隠しながら、つまり佐々木の存在を隠しながら、「肉体」の感覚だけは、箒のなかに残している。
「私が立てかけた」箒が立てかけ「たままの状態になっ」て「そこに」ある
「箒の」足元がむずがゆい「のを、箒を立てかけた私が、箒のかわりに感じている」
「箒の足元を」ころげた木の実やくちた花びらやかわいた木の葉がくすぐっている「のだが、その箒の足元が感じることを、私の足元が感じることのように、感じる。木の実や、花びら、木の葉が足に触れるとくすぐられたように感じる。かさこそ。その感じはくすぐったいのだが、なんだかむずかゆいに似ている」
三行を、省略されたことばをカッコで補いながらしつこく言い直せば、そんな具合になるかもしれない。しかし、こんなふうにしつこくことばにしてしまっては、詩ではなくなるね。だから佐々木は「空白」で余分なものを吹き払って、ことばを簡単にしている。簡単にしているために、何か「論理(意味)」の連続性が弱くなっている。
ただし。
その弱くなった部分に「肉体」が隠れるように忍び込んでいるので、書かれていることばが「肉体」のどこかを刺戟する。
「むずかゆい」「くすぐっている」
「むずかゆい」「くすぐっている(くすぐられている)」ということばのなかで、そのことばをつなぐ間/間合い(余白)のなかで、箒が箒ではなく、佐々木の「肉体」になる。
さらに「ころげた」「くちた」「かわいた」という「動詞」が「肉体」を刺戟する。「ころげる」「くちる」「かわく」の「主語」は「私(佐々木)」ではないが、そういう「動詞(動詞派生の修飾語/連体形)」が「肉体」を刺戟する。「動詞」によって、そこに書かれている「もの」がより身近になる。現実になる。
箒が書かれているのに、感じるのは「肉体」なのである。「肉体」が箒になって、そこで起きている世界を受け止めている。
こういうことが、さらに言い直されていく。
ついぞ庭先に子どもの声は上がらない
しろ蝶が崩れかけたしら壁に慌てふためく
花は惚(ほう)けてやさしい
惚けてやさしいものはみみたぶのようにかゆい
「みみたぶのようにかゆい」がいったい何のことか、別のことばで言い直すことは私にはできない。つまり、何を言いたいのか、私にはわからない。わからないのだけれど、わっ、いいなあ。「みみたぶかゆい」というときの「みみたぶ」の感じを思い出してしまう。
箒に「みみたぶ」なんてないから(足元なら、地面に触れる方を足と読み直すことができるが)、それが箒のこととは思えない。ただ自分の「肉体」の「みみたぶ」で、ここに書かれている「みみたぶ」を感じる。
つまり、箒なのに、それはもう箒ではなく、私は箒になって、世界を感じているということ。
まいるね。どう説明していいかわからなくなる。でも、なんだか楽しい。「肉体」が世界を楽しんでいる。
途中を省略して、最後を引用しておこう。
かしこまった洗濯物
古い竹竿にしがみつく女郎蜘蛛
箒が立てかけてある
立てかけたまま惚けている
足元がまたむずかゆい
惚けたところにひき蛙が二匹隠れている
![]() | アンソロジー 佐々木洋一 (現代詩の10人) |
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