近藤久也「おんなと釦」(「ぶーわー」35、2015年10月20日発行)
詩を読んでいると、感想がすぐにことばになって動き出す詩と、なかなか動き出さない詩がある。あ、おもしろいなあ。でも、これをどう言えばいいのだろう。よくわからない。そういう詩。近藤久也「おんなと釦」は後者である。感想が書きたいのだけれど、書けない。まあ、書かなくても、別に困るわけではないのだが。詩は感想を言わなくたって、何か問題が起きるわけでもないのだが。
うーん、「こっそり」か。なぜ、「こっそり」なのかな? 書いてないから、わからない。「おんなの留守に」だから「こっそり」なのはわかりきっているのに「こっそり」。うーん。なんとなく、ひきこまれるなあ。「こっそり」がないと、ただの釦つけだが、「こっそり」のために釦つけが釦つけではなくなっている。
釦つけ以外の「こっそり」も、そこに入ってくる。「こっそり」としたあれこれが、私の「肉体」のなかで動きだす。
「四十八年ぶり」か。ここにも引きつけられるなあ。「四十年」とか「五十年」という大雑把な区切りではない。よく「四十八年」なんて覚えているなあ。忘れられない何かがあるんだな。
何があったのかな?
わざわざシャツを着て、釦の位置を確かめているのがおかしいなあ。ほんとうに、そこまでするかな? 「四十八年」にこだわるくらい、きっちりしている人なので、こだわるのか。
「へんな糸の止め方が恥ずかしそうだ」。うーん、微妙。「糸」は人間ではないから「恥ずかしい」なんて思わないだろう。糸に感情移入しているのか。いや、自分が恥ずかしいのを糸に押しつけている。
そのあと、突然、父親のことばが出てくるのだけれど。
この飛躍の仕方が、とてもいい。「糸」という自分以外のものに「感情移入(?)」したあと、そこからさらに自分以外のものへと動いていく。突然父が出てくるのではなく、その前に「糸」というクッション(?)がある。跳躍台がある。しかも、そこでは「糸が恥ずかしい」と思うという、常識の切断がある。
というようなことを、思う間もなく。
えっ、近藤の父親って「刑務所」に入ったことがあるの? 私は、そんなことを考えてしまう。もしかすると、それは四十八年前? 刑務所に入る前に「刑務所に入ったら釦つけも自分でするんだろうか」などと言ったのだろうか。刑務所で釦つけをしている父を思い出したんだろうか。想像したんだろうか。
私は思わず、近藤になって、四十八年前の父親の姿を見る。近藤も、その父親を見ている。
見ながら……。(父を思い出しながら……。)
近藤は釦つけをしている父に自分を重ねている。釦つけをする「肉体」を重ねている。近藤の父親が刑務所で釦つけをしたかどうかはわからないが、軍隊で釦つけをしたことだけはたしかである。その、誰の助けも借りずに自分ひとりで釦つけをするときの、「こっそり」とした「肉体」に、近藤は自分の「肉体」を重ねている。軍隊での仕事は「こっそり」ではないかもしれないが、誰かにやってもらうわけではない、ひとりですることなので「こっそり」につながる部分がある。そのとき父はやはり「糸の止め方」を気にしただろうか。ほかのひとの釦のつけ方と比較して「恥ずかしい」と思っただろうか。
「ふわふわと」は父がそう言ったときの雰囲気をあらわしているのか。「刑務所」に「ひとり」で入る不安感のようなものが「ふわふわ」とした声の響きになって聞こえたということか。そうかもしれないし、そのときの父の姿を「ふわふわと」した感じで、近藤が思い出したということかもしれない。糸が恥ずかしそうだ、というのに似ていて、「主語」が微妙にずれているように感じる。「ふわふわと」は何をあらわしているか、なんて、文法は気にせずに、どっちでもいい感じで受け止めるしかないなあ。
このときおんな(父親の妻、近藤の母)は、どうしたのかなあ。やはり留守だったのかなあ。おんなのことは書かず、父だけを思い出しているのが、とてもおもしろい。このとき、近藤は思い出しているというより父になっている。「ふわふわと」、そういう状態になっている。父親の「ふわふわ」になっているのだ。
で。
前の二連のように「事実」が書かれているわけではなく、「思ったこと」が「ふわふわと」書かれている。「主語」とか「述語」がはっきりせず、「やった事のある奴とない奴と」ということばが繰り返されている。
あらゆることが、たぶん、そうなのだ。「やった事のある奴とない奴と」がいる。
そして、その「やる事」というのは「釦つけ」のようなこと。たいしたことではない。しかし誰かがしないと困ること。
そこに「こっそり」が、また登場してきている。
「こっそり」がキーワードなのだなあ。「こっそり」が、この詩の近藤の「肉体/思想」なんだなあ、と感じる。
ひとには「こっそり」することがある。
「こっそり」は「誰にも言わず」であり、したがって「誰にも知られず」なのだが。
ほんとうかな?
ちょっと、違う。
「ことば」で「誰にも言わ」なくても、「肉体」が語ってしまうものがある。
釦つけ。その糸のへんな止め方、恥ずかしそうな止め方。それを見れば、釦つけをしたのが誰だかわかる。男の手でしたのか、(なれない手がしたのか)、おんなのなれた手がしたのか。
「こっそり」は隠せない。
これは、何の感想だろうか。
父は釦つけを軍隊でやったと言った。でも、やっていないように暮らしてきた。(おんなが、妻が、釦つけをしていた。)ほんとうだろうか。父は「やった事はない」。しかし、何かの都合で「やってしまった」と言った。そのために刑務所に入った。でも、その言い分はほんとうか。
よくわからない。
しかし、たしかにひとは「やった事があるのにやっていない」と言うときもあれば、「やった事もないのにやってしまった」と言うこともある。その「嘘」のなかには、何か「こっそり」した真実がある。そのひとにしか知らない「事実」がある。
それは「言の葉(ことば)」でつきつめてもしようがない。ことばにしてしまえば「与太」になってしまう。
「ことば」にしないとき、その「こっそり」は詩になる。「こっそり」は、それぞれの「肉体」のなかにしまいこまれて、恥ずかしそうに生きていく。
もっとほかのことも考えたのだが。たとえば「こっそり」と生きている近藤は、表立って「これこれのことをやった」と主張して生きているひとに対して怒っている。それがこの詩のことばの動きを支えている、というようなことも感じたのだが、うまくことばにならない。ことばにしなくてもいいのかもしれない。私のことばは、どっちにしろ「与太」なのだから。
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詩を読んでいると、感想がすぐにことばになって動き出す詩と、なかなか動き出さない詩がある。あ、おもしろいなあ。でも、これをどう言えばいいのだろう。よくわからない。そういう詩。近藤久也「おんなと釦」は後者である。感想が書きたいのだけれど、書けない。まあ、書かなくても、別に困るわけではないのだが。詩は感想を言わなくたって、何か問題が起きるわけでもないのだが。
おんなの留守にこっそりと
裁縫箱ひっぱりだして
釦ひとつ
つけてみた
四十八年ぶりに
だから出鱈目だ
うーん、「こっそり」か。なぜ、「こっそり」なのかな? 書いてないから、わからない。「おんなの留守に」だから「こっそり」なのはわかりきっているのに「こっそり」。うーん。なんとなく、ひきこまれるなあ。「こっそり」がないと、ただの釦つけだが、「こっそり」のために釦つけが釦つけではなくなっている。
釦つけ以外の「こっそり」も、そこに入ってくる。「こっそり」としたあれこれが、私の「肉体」のなかで動きだす。
「四十八年ぶり」か。ここにも引きつけられるなあ。「四十年」とか「五十年」という大雑把な区切りではない。よく「四十八年」なんて覚えているなあ。忘れられない何かがあるんだな。
何があったのかな?
シャツ着て鏡の前に立ってみた
釦の位置が微妙にずれて
肝心なとき、靴ひもほどけているように
へんな糸の止め方が恥ずかしそうだ
(軍隊ではやったが刑務所はどやろ)
ふわふわと
死んだ父がそう言っていた
わざわざシャツを着て、釦の位置を確かめているのがおかしいなあ。ほんとうに、そこまでするかな? 「四十八年」にこだわるくらい、きっちりしている人なので、こだわるのか。
「へんな糸の止め方が恥ずかしそうだ」。うーん、微妙。「糸」は人間ではないから「恥ずかしい」なんて思わないだろう。糸に感情移入しているのか。いや、自分が恥ずかしいのを糸に押しつけている。
そのあと、突然、父親のことばが出てくるのだけれど。
この飛躍の仕方が、とてもいい。「糸」という自分以外のものに「感情移入(?)」したあと、そこからさらに自分以外のものへと動いていく。突然父が出てくるのではなく、その前に「糸」というクッション(?)がある。跳躍台がある。しかも、そこでは「糸が恥ずかしい」と思うという、常識の切断がある。
というようなことを、思う間もなく。
えっ、近藤の父親って「刑務所」に入ったことがあるの? 私は、そんなことを考えてしまう。もしかすると、それは四十八年前? 刑務所に入る前に「刑務所に入ったら釦つけも自分でするんだろうか」などと言ったのだろうか。刑務所で釦つけをしている父を思い出したんだろうか。想像したんだろうか。
私は思わず、近藤になって、四十八年前の父親の姿を見る。近藤も、その父親を見ている。
見ながら……。(父を思い出しながら……。)
近藤は釦つけをしている父に自分を重ねている。釦つけをする「肉体」を重ねている。近藤の父親が刑務所で釦つけをしたかどうかはわからないが、軍隊で釦つけをしたことだけはたしかである。その、誰の助けも借りずに自分ひとりで釦つけをするときの、「こっそり」とした「肉体」に、近藤は自分の「肉体」を重ねている。軍隊での仕事は「こっそり」ではないかもしれないが、誰かにやってもらうわけではない、ひとりですることなので「こっそり」につながる部分がある。そのとき父はやはり「糸の止め方」を気にしただろうか。ほかのひとの釦のつけ方と比較して「恥ずかしい」と思っただろうか。
「ふわふわと」は父がそう言ったときの雰囲気をあらわしているのか。「刑務所」に「ひとり」で入る不安感のようなものが「ふわふわ」とした声の響きになって聞こえたということか。そうかもしれないし、そのときの父の姿を「ふわふわと」した感じで、近藤が思い出したということかもしれない。糸が恥ずかしそうだ、というのに似ていて、「主語」が微妙にずれているように感じる。「ふわふわと」は何をあらわしているか、なんて、文法は気にせずに、どっちでもいい感じで受け止めるしかないなあ。
このときおんな(父親の妻、近藤の母)は、どうしたのかなあ。やはり留守だったのかなあ。おんなのことは書かず、父だけを思い出しているのが、とてもおもしろい。このとき、近藤は思い出しているというより父になっている。「ふわふわと」、そういう状態になっている。父親の「ふわふわ」になっているのだ。
で。
なじまぬ学校で習って以降
やった事のある奴とない奴と
だから出任せだ
死ねば死にきり
誰にも言わずこっそりと
やった事のある奴とない奴と
前の二連のように「事実」が書かれているわけではなく、「思ったこと」が「ふわふわと」書かれている。「主語」とか「述語」がはっきりせず、「やった事のある奴とない奴と」ということばが繰り返されている。
あらゆることが、たぶん、そうなのだ。「やった事のある奴とない奴と」がいる。
そして、その「やる事」というのは「釦つけ」のようなこと。たいしたことではない。しかし誰かがしないと困ること。
そこに「こっそり」が、また登場してきている。
「こっそり」がキーワードなのだなあ。「こっそり」が、この詩の近藤の「肉体/思想」なんだなあ、と感じる。
ひとには「こっそり」することがある。
「こっそり」は「誰にも言わず」であり、したがって「誰にも知られず」なのだが。
ほんとうかな?
ちょっと、違う。
「ことば」で「誰にも言わ」なくても、「肉体」が語ってしまうものがある。
釦つけ。その糸のへんな止め方、恥ずかしそうな止め方。それを見れば、釦つけをしたのが誰だかわかる。男の手でしたのか、(なれない手がしたのか)、おんなのなれた手がしたのか。
「こっそり」は隠せない。
やった事があるのにやっていないと
やった事もないのにやってしまったと
生きているみたいに
ひらひらと
言の葉あやつる奴は
たちの良くない
与太だ
これは、何の感想だろうか。
父は釦つけを軍隊でやったと言った。でも、やっていないように暮らしてきた。(おんなが、妻が、釦つけをしていた。)ほんとうだろうか。父は「やった事はない」。しかし、何かの都合で「やってしまった」と言った。そのために刑務所に入った。でも、その言い分はほんとうか。
よくわからない。
しかし、たしかにひとは「やった事があるのにやっていない」と言うときもあれば、「やった事もないのにやってしまった」と言うこともある。その「嘘」のなかには、何か「こっそり」した真実がある。そのひとにしか知らない「事実」がある。
それは「言の葉(ことば)」でつきつめてもしようがない。ことばにしてしまえば「与太」になってしまう。
「ことば」にしないとき、その「こっそり」は詩になる。「こっそり」は、それぞれの「肉体」のなかにしまいこまれて、恥ずかしそうに生きていく。
もっとほかのことも考えたのだが。たとえば「こっそり」と生きている近藤は、表立って「これこれのことをやった」と主張して生きているひとに対して怒っている。それがこの詩のことばの動きを支えている、というようなことも感じたのだが、うまくことばにならない。ことばにしなくてもいいのかもしれない。私のことばは、どっちにしろ「与太」なのだから。
オープン・ザ・ドア | |
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