詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

長嶋南子「犬殺し」

2015-12-10 12:05:43 | 詩(雑誌・同人誌)
長嶋南子「犬殺し」(「Zero」3、2015年12月10日発行)

 詩はいままでつかわれなかったことばといっしょに動いている。新しいことばである。だから、それは「わかりにくい」。「わからない」ことの方が多い。そういう「わからない」ことばを、どう理解するか。「動詞」に結びつけて、自分の「肉体」で反芻するとき、その「意味」のようなものがわかる。
 でも、問題は、それ以前にあるかもしれない。「わからない」ことばといっても、ことばはすでに存在している。存在していないことばは、造語。造語で詩を書く人はいないなあ。(あ、いるかな?)で、何が「わからないことば」、それが「わからない」ということもある。
 たとえば、長嶋南子「犬殺し」。

屋根の修理に杉山さんがきている
母はいつも夕飯を出す
犬殺しだという杉山さん
輪っかにした針金で野犬をとらえ
首をしめる

父を失くしたばかりの母のところに
なんだかんだとすぐにくる
たばこ臭いからだ
流れ者のきょうじょうもち
杉山さん 後家殺し

飼い犬のマルは杉山さんがくると
縁の下に入ってしまう
マルはみそ汁のぶっかけご飯ばかりで
わたしがつくったご飯しか食べない

母の財布からお金をぬきとり
宝来館で映画をこっそり見る
映画のなかの女は男を殺し
お金をいっぱい手に入れる

ジステンバーで死んだマル
たくさん稼いで次のイヌには
いいものいっぱい食べさせてやる
いい寄る男ができたら
いいものいっぱい食べさせてやる
杉山さん 寄っておいでよ

 「きょうじょうもち」が「わからない」かもしれない。あ、私はわからないのだけれど。長嶋もはっきりとわかっていないかも。ひらがなで、音だけ書いているから。だから、これは「わからない」に含めない。(辞書をひけば、それらしいことばが見つかるかもしれないが、気にしない。)こういう辞書をひかなければならない「新しいことば」に「詩」はない。知っているのけれど、知らなかった、そうだったのかと気づかされてくれることばにこそ「詩」がある。
 この詩、「きょうじょうもち」をほうり出したまま、どう読むか。
 先に書いたように、私は「動詞」を中心に読む。「きている(来る)」(飯を)出す」「とらえる」「首を絞める(殺す)」「入る」「食べない(食べる)」「ぬきとる」「見る」「(手に)入れる」「死んだ(死ぬ)」「食べさせて/やる」「寄る」など、いろいろある。
 どの「動詞」がこの詩を動かしているか。詩の「中心の動詞」はどれか。
 「動詞」だけを見ていては、どうもわからない。そこで詩の全体を見渡してみる。そうすると四連目だけ、少し、変。「杉山さん」が出てこない。そこでは「杉山さん」が描かれていない。かわりに「わたし」の「秘密」が書かれている。
 ここに、この詩の「中心」になるものがありそう。
 何かな?
 私は「動詞」とそのものではないが、「見る」の上につけられた「こっそり」が一種の「動詞」のように思えた。四連目に一回だけ出てくることばだが、この「こっそり」は「こっそり/見る」の直前の「ぬきとり」にもつけることができる。「こっそり/ぬきとり」。ひとにわからないように動き時の「動詞」の「わからないように」という動きをあらわしている。
 そして、あ、この詩には「こっそり」がたくさん隠されているのだと気がついた。屋根の修理にきている杉山さんは「こっそり」ではない。けれど、母が夕飯を出すのは「こっそり」だ。

母はいつも「こっそり」夕飯を出す

 別に「こっそり」出さなくてもいいのだが、きっと「こっそり」。だれに対して「こっそり」か。「わたし(長嶋)」に対してではない。「わたし」はいっしょに夕飯を食べるだろうから「こっそり」はありえない。「こっそ」は「世間」に対してである。「世間に知られないように」夕飯を出すのである。
 二連目の二行目も

なんだかんだとすぐに「こっそり」くる

 もちろん、この「こっそり」は夕飯と同様世間にばれているけれど、やっぱり「こっそり」という気持ちがある。
 「後家殺し」といううわさは、もちろん「こっそり」と言われるものである。誰もが知っているが「こっそり」。なぜって、実際に杉山さんが後家とセックスしているところをだれも見たことはない。想像である。想像であるが、確信でもある。「犬殺し」ほどはっきりしていないが、まあ、だれにでもわかっている。野犬を簡単にとらえるように、後家を簡単にとらえて自分のものにしてしまう「能力」へのやっかみもあるかもしれないなあ。うらやましい気持ちを「こっそり」隠しながら「後家殺し」という。
 三連目では「こっそり」は「わたしが「こっそり」つくったご飯」かもしれない。マルはそれを「こっそり」食べるのかもしれない。何かしら、そこには「共犯」のようなものが動いている。家族に知られているけれど、「わたし」とマルは「こっそり」とそうするのである。「こっそり」生きていると互いに感じるのである。

 何度も何度も隠される「こっそり」。これは、何をあらわしているのかなあ。
 欲望だと思う。
 何かをしたい、という欲望というよりも、「こっそり」したいという欲望。することよりも「こっそり」に重きがある。
 後家さんとセックスしたい、新しい男とセックスしたい。「こっそり」と。これは「世間に知られずに」というのとも少し違うかも。セックスしていること(自分の充実)は知られたい。みせびらかしたい。でも、それは相手の「想像力」のなかだけでの「事実」といえばいいのかな? 「こっそり」とということばとはうらはらに、「こっそり」のなかでは「欲望」はあからさまに動いている。「事実」が「こっそり」と、その「欲望」のうしろに存在している。
 「母の財布から(こっそり)お金をぬきとり/宝来館で映画をこっそり見る」の「こっそり」も、そんな「こっそり」は母にばれてしまっている。(こういう「盗み」は多くのひとが体験していると思うが、ばれなかったことなんて、ないでしょ? ばれて、黙認される、でしょ?)ばれない「こっそり」なんて、ない。「こっそり」は、ばれるからこそ「共犯」になる。「共犯」の生々しさというか、美しさがそこにある。「こっそり」という「欲望」がそのとき「共有」される。「こっそり」と「共有」される。
 最終連は、長嶋が「こっそり」思っていること。詩に書いてしまえば「こっそり」ではなくなるった? あ、そんなことはない。「杉山さん」が長嶋の家に寄って、それからいろいろあるかないか、そんなことはだれにもわからない。そのとき、「杉山さん」は「杉山さん」ではないしね。つまり、そこに「秘密」がある。「こっそり」だれかを思っている。

 ほんとうは何が書いてあったのかな?
 気にしない。
 私はここに書かれた「こっそり」がとても楽しいし、こんなふうに「こっそり」が「隠れて」というだけの意味を突き破って動いていることを、この詩をとおして知った。それがうれしい。 
 長嶋は「こっそり」発見した。「こっそり」ということばを新しくした。「こっそり」ということばはだれもが知っている。しかし、その「こっそり」が「欲望」だとは知らなかったし、この詩に書かれているようにあちこちに隠れていることも知らなかった。
 知っているけれど知らなかった--その「詩」がここにある。
 だれもが無意識にそういうつかい方をしているかもしれない。それを長嶋は、だれでもそうだよ、わかるようにした。そこに詩がある。新しさがある。

はじめに闇があった
長嶋南子
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*

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