監督 アンドレイ・ズビャギンツェフ 出演 アレクセイ・セレブリャコフ、エレナ・リャドワ、ウラジーミル・ウドビチェンコフ、ロマン・マディアノフ
暗い映画だなあ。救いのない映画と言えばいいのか。
男の持っている土地を市長が欲しがっている。売りたくない。モスクワから友人の弁護士を呼び、市長の提案を拒否し、さらに市長を脅そうとするが失敗。逆に弁護士が脅され、モスクワに逃げ帰る。この弁護士が男の妻(後妻)と肉体関係を持ち、男と友人の関係、男と妻の関係もぎくしゃくする。ぎくしゃくするが、男は、友人も妻も許し、現実を受けいれ、そのまま生きていこうとするのだが、妻は自分の行為を気に病み、妻は自殺する。悲しんでいる男に殺人の容疑がかかる。友人と妻がセックスしているのを知り「殺してやる」と口走ったのを、猟銃仲間(?)の警官夫婦が聞いていて、それを警察に告げる。裁判の結果、男は有罪になり、服役する。残された子どもは警官夫婦が引き取る。この警官夫婦には子どもがいないので、男から子どもを奪うために「殺してやる」と言っていたと証言したかもしれない。男が服役しているあいだに、市長は男の家を壊す、リゾート地の工事をはじめる……というところで映画は終わる。
日本語のタイトルどおり、「善人」である男だけが、どんどん不幸になっていく。その展開の仕方があまりにも「ストーリー」じみているので、逆に「現実」としてせまってくる。「ストーリー」なら、どこかで「善人」を救おうとする「意図」のようなもの、観客の視線を気にして、ストーリーの展開にほころびが生まれる。それが、ない。とても巧みに構成された脚本だと思う。
特に、警察官夫婦の「殺してやる」と男が言っていたという「証言」の部分には、びっくりしてしまった。憎しみから発作的に「殺してやる」と口走るのは、単なる感情の爆発。本心ではない。そういうことは、人間ならだれでも知っている。特に親しいひとがそう言ったのを聞いたとしても、それが「殺意」とは思わない。むしろ、「共感」の方が大きいだろう。そうわかっていながら、「子どもがほしい」という欲望のために、嘘をつく。子どもには、「ひとりで生きていくのは難しい。うちにおいで」と親切なふりをする。このあたりの無駄のないせりふ、ことばにしない欲望の動かし方が、まさに「現実」。余分なことばがなく、ただ「肉体」だけ、ふとした表情、からだの動きで「欲望」を伝えあう警官夫婦の「共犯ぶり」が、とても怖い。
弁護士と妻がホテルでセックスするシーンも、非常にリアリティーがある。セックスに至るまでの「手順」(レストランで料理を注文し、できるまでにシャワーをあびてくると男が姿を消し、しばらくして女が部屋にあらわれる。きっと注文は取り消したのだ)が落ち着きはらっている。男から電話がかかってきたとき、妻がホテルのレストランで食事している、と嘘をつくのだが、この嘘は実際にレストランで注文するということがあったから、何のためらいもなく、すーっとことばになる。この絶妙な「嘘のつき方」が、とてもうまい。あ、嘘というのは、こんなふうにどこかに「真実」を含ませると、説得力をもって動く。男は、その嘘に気がつくことはない。こういう「手の込んだ」脚本が、男が追い込まれていく動きをスムーズにしている。
この、どこまでもどこまでも、「人間の欲望/肉体」に沿ったストーリーが、ロシアのどこかわからないが海沿いの小さな街で展開されるのだが、その自然の荒寥とした感じが、また非情で、美しい。人間を気にしていない。この美しさには、ウオツカの透明なアルコールがよく似合う。何度も何度もウオツカを飲むシーンが出てくる。スコッチやワインのようにアルコールに色がついていては、そこに人間の「思い(情緒)」が入り込みそうだが、ウオツカの水のように透明な色は感傷など拒絶して、ただ肉体だけを酔わせる。酔わせて「感情」を奪い去るのかもしれないなあ。感情なんか気にしていては生きていけない、という「寒さ」(厳しさ)が、この土地にはあるのだ。みんな、自分自身を「温かくする」ことだけで精一杯なのだ。
ポスターにもなっている海岸の鯨の白骨。このシーンは映像としていちばん印象的だ。なぜ、鯨の白骨がそんなところにあるのか。鯨が死んだ。そして、それをだれもかたづけなかったからだ。そのままにしていたからだ。動物や鳥が食い荒らし、波が腐った肉を押し流す。白骨だけが残る。鯨が死んで白骨になるまでには相当の時間がかかるはずだが、それは放置されつづけ、これかられ放置される。「善人」の男の「放置される」姿にも見えてくる。
(KBCシネマ2、2015年12月06日)
*
「映画館に行こう」にご参加下さい。
映画館で見た映画(いま映画館で見ることのできる映画)に限定したレビューのサイトです。
https://www.facebook.com/groups/1512173462358822/
暗い映画だなあ。救いのない映画と言えばいいのか。
男の持っている土地を市長が欲しがっている。売りたくない。モスクワから友人の弁護士を呼び、市長の提案を拒否し、さらに市長を脅そうとするが失敗。逆に弁護士が脅され、モスクワに逃げ帰る。この弁護士が男の妻(後妻)と肉体関係を持ち、男と友人の関係、男と妻の関係もぎくしゃくする。ぎくしゃくするが、男は、友人も妻も許し、現実を受けいれ、そのまま生きていこうとするのだが、妻は自分の行為を気に病み、妻は自殺する。悲しんでいる男に殺人の容疑がかかる。友人と妻がセックスしているのを知り「殺してやる」と口走ったのを、猟銃仲間(?)の警官夫婦が聞いていて、それを警察に告げる。裁判の結果、男は有罪になり、服役する。残された子どもは警官夫婦が引き取る。この警官夫婦には子どもがいないので、男から子どもを奪うために「殺してやる」と言っていたと証言したかもしれない。男が服役しているあいだに、市長は男の家を壊す、リゾート地の工事をはじめる……というところで映画は終わる。
日本語のタイトルどおり、「善人」である男だけが、どんどん不幸になっていく。その展開の仕方があまりにも「ストーリー」じみているので、逆に「現実」としてせまってくる。「ストーリー」なら、どこかで「善人」を救おうとする「意図」のようなもの、観客の視線を気にして、ストーリーの展開にほころびが生まれる。それが、ない。とても巧みに構成された脚本だと思う。
特に、警察官夫婦の「殺してやる」と男が言っていたという「証言」の部分には、びっくりしてしまった。憎しみから発作的に「殺してやる」と口走るのは、単なる感情の爆発。本心ではない。そういうことは、人間ならだれでも知っている。特に親しいひとがそう言ったのを聞いたとしても、それが「殺意」とは思わない。むしろ、「共感」の方が大きいだろう。そうわかっていながら、「子どもがほしい」という欲望のために、嘘をつく。子どもには、「ひとりで生きていくのは難しい。うちにおいで」と親切なふりをする。このあたりの無駄のないせりふ、ことばにしない欲望の動かし方が、まさに「現実」。余分なことばがなく、ただ「肉体」だけ、ふとした表情、からだの動きで「欲望」を伝えあう警官夫婦の「共犯ぶり」が、とても怖い。
弁護士と妻がホテルでセックスするシーンも、非常にリアリティーがある。セックスに至るまでの「手順」(レストランで料理を注文し、できるまでにシャワーをあびてくると男が姿を消し、しばらくして女が部屋にあらわれる。きっと注文は取り消したのだ)が落ち着きはらっている。男から電話がかかってきたとき、妻がホテルのレストランで食事している、と嘘をつくのだが、この嘘は実際にレストランで注文するということがあったから、何のためらいもなく、すーっとことばになる。この絶妙な「嘘のつき方」が、とてもうまい。あ、嘘というのは、こんなふうにどこかに「真実」を含ませると、説得力をもって動く。男は、その嘘に気がつくことはない。こういう「手の込んだ」脚本が、男が追い込まれていく動きをスムーズにしている。
この、どこまでもどこまでも、「人間の欲望/肉体」に沿ったストーリーが、ロシアのどこかわからないが海沿いの小さな街で展開されるのだが、その自然の荒寥とした感じが、また非情で、美しい。人間を気にしていない。この美しさには、ウオツカの透明なアルコールがよく似合う。何度も何度もウオツカを飲むシーンが出てくる。スコッチやワインのようにアルコールに色がついていては、そこに人間の「思い(情緒)」が入り込みそうだが、ウオツカの水のように透明な色は感傷など拒絶して、ただ肉体だけを酔わせる。酔わせて「感情」を奪い去るのかもしれないなあ。感情なんか気にしていては生きていけない、という「寒さ」(厳しさ)が、この土地にはあるのだ。みんな、自分自身を「温かくする」ことだけで精一杯なのだ。
ポスターにもなっている海岸の鯨の白骨。このシーンは映像としていちばん印象的だ。なぜ、鯨の白骨がそんなところにあるのか。鯨が死んだ。そして、それをだれもかたづけなかったからだ。そのままにしていたからだ。動物や鳥が食い荒らし、波が腐った肉を押し流す。白骨だけが残る。鯨が死んで白骨になるまでには相当の時間がかかるはずだが、それは放置されつづけ、これかられ放置される。「善人」の男の「放置される」姿にも見えてくる。
(KBCシネマ2、2015年12月06日)
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