詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

浦歌無子『深海スピネル』

2015-12-16 14:48:43 | 詩集
浦歌無子『深海スピネル』(私家版、2015年秋発行)

 浦歌無子『深海スピネル』には四篇の詩が収録されている。どこを、どう読めば浦の「肉体」に接近できるのだろうか。
 手がかりは、「影待駅」の次の部分。

駅前には長い列ができている
長い長い葬列だ
お葬式の最中なのだ
父が遺影を持っている
母が花束を抱えている
姉が手旗を掲げている
葬列が長いのは同じ人間が繰り返し並んでいるからだ
一番先頭の母が持っている花束は青いカーネーション
二人目の母は緑の百合
三人目の母は赤いひまわり
姉たちはみな黒いワンピースを着ている
先頭の姉はシフォン生地のアコーディオンプリーツ
次の姉は繊細なレースのフレアワンピース
その次の姉の胸元にはベルベットの大きなリボンが結ばれている

 特に「葬列が長いのは同じ人間が繰り返し並んでいるからだ」がおもしろい。「同じ」と「繰り返し」が「長い」の理由。「長い」は形容詞だが、私は形容詞を「用言」の範疇でつかみとることにしている。「動詞」の一種だと思う。
 この詩の場合、「長い」は「状態」をあらわすだけではなく「長く+する(なる)」という感じでとらえてみる。

葬列が長いのは同じ人間が繰り返し並んでいるからだ
 ↓
葬列が「長くなる」のは同じ人間が繰り返し並んでいるからだ 
 ↓
葬列を「長くする」のは同じ人間が繰り返し並んでいるからだ
 ↓
同じ人間が繰り返し並ぶことで、葬列を「長くする」

 「長くなる」の「主語」は「葬列」になる。「長くする」の場合は「主語」は「人間」になるか。人間の「動き」なので、それは「肉体」で反芻できる。もし、何かを「長くする」のなら、「同じ」を「繰り返す」とよい。
 私の感想はいつも長いが、それはだらだらと同じことを繰り返し書いているからである。
 「同じ」「繰り返す(繰り返し)」「長くなる(する)」の結びつき(論理)を、浦はこの詩で発見している。いや、この詩に、そういう浦の特徴がくっきり浮かび上がっている(ことばとしてあらわれている)ということであって、浦はいつでも「同じ」「繰り返し」を「つづける」ことで「長さ」を獲得し、その「長さ(ひろがり)」を詩にしていると言える。
 ただし、このときの「同じ」は厳密ではない。「変奏」を含む「同じ」である。
 「母」は「先頭の母」「二人目の母」「三人目の母」と変化している。この変化は、ほとんど意味がない。単に「番号」で「同じ」を識別しているだけである。だから、その三人の母は「青いカーネーション」「緑の百合」「赤いひまわり」という、それぞれ違った花を持つことで識別される。その「花」は種類(色)は違うが、「同じ」花である。そして、それぞれが「ふつうとは違う色の花」という「同じ」要素を持っている。
 「同じ」のなかに「違う」を組み合わせることで、「同じ」は「同じ」でありながら識別できるものとして繰り返され、その結果として「長くなる」。
 「母」のあとに書かれている「姉」が、そのことを説明している。
 この構造は、そのまま「同じ」「繰り返し」であり、その結果として、詩が「長くなっている」。

 これは、どういうことだろう。

 「同じ」を「繰り返す」。そうすることが「ことば」を「長くする」。その結果、その「ことば」が詩になるということである。「変奏」、「変奏の可能性」が詩の重要な要素になる。
 このときの「同じ」は「同じ」という要素で括ることができるが、必ず「違う」ものを含む必要がある。完全に「同じ」であってはそれぞれが識別できず、どんなに数が増えても「ひとつ」のままだからである。「違う」ものを含むことで「ひとつ」が「複数」にわかれてゆく。
 変? 非論理的? そうかな?
 別な詩「眠りは箱のなか」には「あの子」は「複数」のことばで描かれる。けれど「あの子」のままである。「人間」は「ひとり」であっても、その「人間」を描写すると、その瞬間瞬間に「別の人間」があらわれてくる。「複数」の「人間」があらわれてくるが、どんなに「複数」になっても、「ひとり」。「ひとつ」の「肉体」。
 「同じ/ひとつ」の「肉体」が「違うことを繰り返す」。そうすることで「ひとり」の人間の姿が「大きくなる」。この「大きくなる」は「長くなる」とか「広くなる」ということと通じる。葬列を「長くする」のは、実は「ひとり」。そしてその「ひとり」は「母」や「姉」ではなく、「母」や「姉」を「ひとり」でありながら「複数」と認識する「わたし(浦)」なのだ。
 そうなると、問題は、「同じ」のなかに「どんな違い」を持ち込むか、ということになる。
 浦の詩をはじめて読んだのは「骨」を題材にした作品だった。「肉体」のなかにある「骨」。それを固有名詞でとりあげながら、ことばを動かしていた。同じ「骨」なのだが、名称がかわるたびに「骨」ではなくなる。「骨」から逸脱して世界がひろがり、そのひろがりがそのまま浦の「肉体」、浦の「詩」になるおもしろさがあった。
 あの衝撃が大きかったせいが、その後の作品が、なんとなく物足りなく感じてしまう。「詩の方法」が確立されてしまったのかなあ。「先頭の母」「二人目の母」「三人目の母」「先頭の姉」「次の姉」「その次の姉」というような「デジタル」な処理が、ことばを「疑似論理」で整理しすぎているのかもしれない。「わかりやすすぎて」、それが詩から不透明な部分を消してしまうのかなあ……。「青いカーネーション」「緑の百合」「赤いひまわり」は「客観的」すぎて、「わざと」が目立ってしまう。

 うーん。

 いま、「疑似論理」という表現をつかったので、ここから詩集にもどっていくと、先の引用とは違う部分に「疑似論理」があって、それがおもしろい。ここまで書いてくると、このことが書きたかったのだと気がつくのだが、どうやら前置きが長くなりすぎてしまった。

彼の左目には水時計が埋め込まれていて、いつもポタポタと時を告げる
ので、おちおちキスもしていられない。もうあと五分もすれば右耳のシ
シオドシがイカれてくるので、肩胛骨のところについている蛇口をぎゅ
っとしめてやらねばならない。

 「……ので」というのは「理由」をあらわす。こういうことばに出合うと、突然、そこに書かれていることが「論理的」に見えてくる。なんといっても、そこには「理由→結果」のような運動がある。
 これを私が「疑似論理」と呼ぶのは、「論理」を装うことで、他の部分の「非論理」をごまかすからである。
 引用部分で言うと「彼の左目には水時計が埋め込まれていて」。こんなことは「現実」にはありえない。(詩だから現実でなくてもかまわないのだけれど。)しかし、その「非現実」が「……ので」ということばで引き継がれていくと、そこに「論理」が「現実」となってあらわれてくる。「論理」が「現実」をつくり出してしまうということが起きる。「非現実」なのに「論理」がそれを「現実」にしてしまう。
 同じ例を、もうひとつ。(「同じ」を「繰り返す」ことで、ことばを「長くする」というのが、今回の浦の特徴なので……)。

毛細血管で巣づくりをしている小鳥が右心室で水浴びをしようとするの
でくすぐったくて眠れないので心臓がないふりをして黒い箱の中に手を
入れてみたので湖がちかちか光ってわたしを呼ぶのです。

 「小鳥が右心室で水浴びをしようとする」というのは「非現実」だが、もしそういうことがあったと仮定すると、その水が小さく揺れる。その揺れはまるで「くすぐられたとき」の揺れに似ている「ので」、くすぐったい「ので」、くすぐったいと眠れない「ので」……と言うことなのだが、このとき、「くすぐったい→眠れない」が「肉体の論理」を踏まえているので、「小鳥が右心室で水浴び」をするという「非現実」が「現実」になってしまう。
 長くなったので、端折ってしまうが、ここの二か所が、詩集のなかでは、私は一番好きである。なぜ好きかといえば、「疑似論理」と「肉体」のからみあいが絶妙で、そこに「疑似論理」があるということを忘れさせてくれるからである。(葬列の「母」「姉」は「先頭(一人目)」「二人目」「三人目」と「論理」が「概念」になってしまっている。だから「疑似論理性」がより強く感じられる。)
 特に

くすぐったくて眠れない

 この「くすぐったい」と「眠れない」のあいだには、「ので」という「論理」があるのだが、これは「ほんものの論理/肉体で確かめた論理」なので、「ので」は書かれていない。ここがおもしろいのは、あるはずの「ので」が書かれていないからである。浦の「肉体」に「ので」がふかく入り込んでいて、書く必要がないから省略されている。無意識に省略されてしまうこの「ので」こそ、浦のキーワード(思想/肉体)である。
 ここが「小鳥が右心室で水浴びをしようとするので」「眠れないので心臓がないふり」「黒い箱の中に手を入れてみたので湖がちかちか光って」と「ので」をつかっている部分と、完全に違っている。
 「疑似論理」を押し返すようにして、「肉体」そのものの「論理」がことばを動かしている。この瞬間、「論理」ではなく「肉体」が見える。「肉体」を感じる。「くすぐったくて眠れない/くすぐったいので眠れない」のは「わたし(浦)」のはずなのに、私(谷内)自身の「肉体」が「くすぐったくて眠れない」を感じてしまう。そういう感じがあることを「思い出してしまう」。
 「肉体」が重なる。セックスしてしまう。
 こういう「妄想」を駆り立てる装置として、浦は隠れたところで「論理」をつかっている。「頭の論理(疑似論理)」ではなく「肉体の論理」をつかっている。だから、詩が「強い」。

イバラ交
浦 歌無子
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*

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